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広島初優勝を支えた人物のもうひとつの姿(W・スパーン編)

Edit Category 野球
今シーズンの広島カープは近年にない好調な滑り出しで今週には7年ぶりの首位の位置に着いた。まだシーズンは始ったばかりの序盤とは言え、ここ数年間殆ど負け数の借金状態が続いたので、例え短期間だとしても気分が良い。まぁレベル的には浮かれている訳にはいかないが、投手陣が少しずつ整ってきたことが大きい。昨年の沢村賞エースのマエケンに続けと若い先発ピッチャーが徐々に力をつけてきており、中継ぎ~抑えの布陣も健闘している。長いペナントレースにおいては投手陣の充実こそが勝負の行方を左右するものである。

1975年、広島初優勝の年の投手陣はどうだったのだろう?当時と最近の投手起用法には随分差があり、一概に比較にならないかも知れないが、シーズン開幕前の評判は芳しくなかった。というのもルーツが監督に就任するや否や大胆にトレードを敢行し血の入れ替えを断行した。日本ハムの大下剛史や新外国人選手等の野手陣はともかくとして、投手陣は前年20勝の金城基泰が交通事故の為に視力障害に陥り開幕は絶望的になっただけでなく、安仁屋宗八・白石静生・大石弥太郎の主戦級をトレード放出し、一昨年19勝の佐伯和司は翌年絶不調で2勝、前年二桁勝利は外木場義郎(18勝16敗)のみというスタッフで開幕を迎える状況に対して、広島地元紙の中国新聞では”破壊寸前の投手陣”などと早くもルーツ監督批判が囁かれていた。

地元の広島ファンは外国人のルーツに対して馴染み選手に関わらず積極的にトレードを進めることに対する違和感を覚えていた。不可解と思えるチーム編成だけにとどまらず、なんと帽子の色まで赤色に変えると言っている。まるで自宅にズケズケと入ってきて勝手に掻き回されるような感情を抱いたのかも知れない。広島球団も遂に万策尽きて訳のわからない外人を監督に起用し、赤い帽子をかぶって奇を衒った話題作りに走るしかないのかと絶望したファンも少なからずいたであろう。

しかしルーツにはとっておきの秘策があった。ルーツがインディアンスのコーチ時代の同僚であるウォーレン・スパーン(Warren Edward Spahn )をキャンプ期間中の臨時コーチに招き、ペナントレースを乗り切るための投手陣を構築することを目論んでいたのである。

ルーツ監督のもと新生カープの日南キャンプがスタートした。ルーツはフィジカル面はキャンプ前の自主トレ期間に終え、キャンプはメンタル面を重視した実戦への調整・準備として捉えていたという。三年連続最下位のチームに対して「優勝するために・・・」を何度も繰り返し、それはまるでチームを洗脳していくようであったと云われている。例えば評論家の戦力評でいう”唯一の頼り”である外木場に対しては「エースとしてローテションの柱になり20勝してくれ。」と伝え、当時エースはここぞという場面でのストッパーも当たり前にこなしていた時代だったが、先発以外はさせないことを約束し、スパーンに対して中三日~四日で先発完投する為の調整・準備を要請した。
しかしカープの日南キャンプを取材した野球評論家は”前年から別段戦力アップしていない。広島と大洋(現横浜)が最下位争い。”とコメントするだけで話題は赤い帽子と監督が日本球界初の外人であることぐらいしか注目を浴びなかった。

スパーン臨時コーチとルーツ監督                       外木場の投球練習を見守るスパーン臨時コーチ
ウォーレン・スパーン臨時コーチ時代

スパーンのコーチングは丁寧で分かりやすく選手の間では好評だった。当時53歳のスパーンは時には自らピッチングを披露しながら指導した。シーズンに入ってみると外木場こそ順調な滑り出しをしたが、佐伯がたまに好投する程度で、その他の試合は小刻みに何人ものピッチャーを注ぎ込む状態が続いた。開幕前の予想通りの破壊寸前の投手陣を露呈する形になったが、その中で入団二年目の池谷公二郎がプロ入り初の完封勝利を境にローテーションの一角に収まった。又、白石・大石との交換トレードで阪急から移籍した宮本幸信・渡辺弘基が共にリリーフとして粘り強い投球をするようになってきた。

外木場・池谷・佐伯
外木場・池谷・佐伯
ルーツが突然退団し、古葉監督体制に入ってからは、外木場・池谷・佐伯の先発三本柱としてローテーションが確立され、連日のリリーフ登板で疲労が蓄積した宮本に代わり、8月には前年最多勝の金城が抑えの切り札として復活する。結果的にこの年の広島の先発ローテーション投手は、外木場 20勝13敗・池谷18勝11敗(1S)・佐伯15勝10敗という抜群の成績を収めた。ルーツにコーチを頼まれたスパーンは破壊寸前の投手陣と言われたメンバーを鍛え上げた結果、当時日本球界ではまだまだ確立されていなかった投手分業の草分け的な成功例に結びついたのである。

スパーンは開幕戦の外木場の好投を見届けて「ソト、あとたった19勝だけたぞ!」と激励して帰国した。秋には海の向こうに朗報も届いた。ルーツが招いた人物ではあったが、古葉監督は翌年の日南キャンプにもスパーンを臨時コーチとして招いている。当時小学6年生だった私は広島ローカルのニュースでスパーン氏が”往年の名投手”と表現されていたことをかすかに記憶しているが、全国的にはさほど話題にならなかったので果たして如何程のものだろうか?と思ったものである。思えば当時はそれぐらい広島球団が脚光を浴びることが無かったのである。1977年頃からメジャーリーグ中継が日本でも放送され始め、メジャーの野球の魅力にハマって以来、メジャーリーグに関する雑誌を読みあさるようになるのだが、そのうちにスパーン氏は想像以上にとんでもない大物であることが判ったのだ。カープの日南キャンプに参加した53歳の時には既に殿堂入りしており、昔の友人の誘いに気安く応じて広島カープという日本の地方都市球団のキャンプのコーチをする人物とは思えない歴史がそこにはあった。

ウォーレン・スパーンは元メジャーリーグの投手で通算勝利数363は左腕投手としては歴代1位の記録。1973年に野球殿堂入りを果たした。1940年にボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)とプロ契約を結び、1942年にメジャーデビューを果たす。

しかし直後の1943年から1945年までの3年間は、兵役義務のために陸軍に従軍し、野球から離れる。この時ヨーロッパ戦線で負傷するも戦功を認められ、パープルハート章と青銅星章を受勲した。

野球界復帰後は、その現役時代のほとんどでブレーブスに所属し、チームのボストンからミルウォーキーへの移転も経験する。ワールドシリーズには1948年、1957年、1958年に出場、1946年から1948年にかけては、もう一人の20勝投手ジョニー・セインと共に二本の大黒柱として活躍する。1947年には地元ボストンの新聞に「Spahn and Sain and pray for rain.(スパーンとセインで勝ったら、あとは雨(での試合中止)を祈れ)」という見出しが載るなど、両投手共に大車輪の活躍で、1948年にはチームを34年振りのリーグ優勝に導いた。尚、1953年には投手として初めて年俸10万ドルを手にするが、これは、スパーンが観客動員に応じたインセンティブ契約を球団と結んでいたところ、チームがミルウォーキーに移転して飛躍的に観客動員が増加したためである。

1965年にニューヨーク・メッツとサンフランシスコ・ジャイアンツに所属し、同年にメジャーリーグからは引退するが、その後数年間はメキシカンリーグでも投げた。現役21年間のうち年間20勝以上を13回達成し、そのうち42歳のときに23勝を記録するなど、息の長い活躍を続けた。通算勝利は363で、前述の通り左腕投手としては歴代1位であり、全体でみてもサイ・ヤング(511)、ウォルター・ジョンソン(417)、ピート・アレクサンダー(373)、クリスティ・マシューソン(373)、パッド・ガルヴィン(364)に次ぐ歴代6位の実績を誇る。

前述にある1973年の野球殿堂入りに関して、現役時代、セントルイス・カージナルスのスタン・ミュージアルはスパーンを評して、「スパーンは絶対に殿堂入りする事はないだろう。なぜなら彼はずっと投手であり続けるからだ。」という発言をしており、一面でそれを裏付けるような長い現役生活の末の殿堂入りだった。また、ブレーブスを退団した1965年には、スパーンの背番号『21』はブレーブス初の永久欠番となっている。

1999年にはスパーンの功績を称え、シーズンで最も活躍した左腕投手に贈られるウォーレン・スパーン賞(Warren Spahn Award)がオクラホマ・スポーツ博物館によって創成された。

ウォーレン・スパーン ヒストリー
ウォーレン・スパーン ヒストリー

上の写真のような豪快で独特の投球フォームは日南キャンプでも披露されたが、インディアンスのコーチ時代の写真を見ると1975年の広島カープのユニフォームの色調と同じなのが興味深い。この頃、同じくインディアンスのコーチだったルーツとスパーンはこのユニフォームを着て日夜野球談議を交わしていたのであろう。この写真の近い将来にルーツに誘われ、再び赤い帽子をかぶってコーチすることを運命づけているように感じられる。

又、スパーンは長い現役の中でブレーブス時代にはまだルーキーだったジョー・トーレとバッテリーを組んでいたことも広く知られている。1974年巨人の長嶋選手が引退した年の秋にトーレはセントルイス・カージナルスからニューヨーク・メッツに移籍が決まっていたが、当時のメッツ打線は迫力に欠けていることを調査し、日米野球主催の読売新聞社から、メッツの選手として来日し巡業メンバーに加わるよう要請された。トーレは快く引き受け、まだ実践記録がないメッツのユニフォームを着て日本各地の試合で打ちまくり、巡業中に4割強の打率と5本のホームランという記録を残した。広島市民球場でも広島・巨人連合軍と対戦し、外木場からホームランを打っている(下記写真)。その僅か数か月後の翌2月には、スパーンがその外木場をコーチするために来日するという人生の交差にも各々の奇妙な縁を感じる。

※余談ではあるが、メッツの日本巡業はハンク・アーロンをゲストとして王貞治とホームラン競争を演じるなど話題も多く、何より既に引退発表した長嶋茂雄引退のお別れ挨拶巡業として各地で盛況であった。対メッツの日本代表チームに広島カープからは、日本ハムから移籍が決まったばかりの大下剛史が唯一選出され、濃紺色の帽子の時のカープのユニフォームを着て試合に臨んでいる。

ジョー・トーレ広島市民球場でのホームラン   (上)ギブソン・トーレ・スパーン(下)トーレ監督時代 メッツ・ヤンキース・ドジャース
ジョー・トーレ

ジョー・トーレは周知の通り、監督としてヤンキース時代には松井秀樹とドジャース時代には黒田博樹と深く関わっている。松井には「俺は長嶋を知っている。」と如何にも言ってそうだが、黒田には「君はスパーンを知っているか?」と訊いたら黒田は果たして何と答えただろうか?
スパーンはスポーティング・ニュース紙の企画「偉大な野球選手100人」において第21位に選出され、20世紀選抜チームにも選ばれた。2000年ミルウォーキーのカウンティー・スタジアム最終試合での始球式でのスパーンの姿をWEBで見たが、2003年に余生を過ごしていたオクラホマ州ブロークンアローの自宅にて老衰により82年の生涯を閉じた。

スパーンにコーチを依頼したルーツは、2008年に死去。満83歳没。奇しくも広島球団が本拠地として旧広島市民球場を使う最後の年に亡くなった。

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広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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