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広島初優勝を支えた人物のもうひとつの姿(重松良典編)

Edit Category 野球
東日本大震災の影響で紆余曲折があったが、4月12日にセ・パ両リーグが同時開幕した。様々な制約の中でも是非とも感動に残るペナントレースを繰り広げてもらいたいものである。過去のペナントレースの中で私が最も熱狂し感動したシーズンは1975年の広島東洋カープの初優勝であるが、それは単純にカープのファンであっただけに留まらず、小学6年生だった私はその裏にある様々なエピソードに惹かれ、野球のゲーム以外の興味深い話が未だに脳裏に焼き付いているからである。当時印象に残った数々のエピソードの中から広島球団初優勝を支えた人物の中から、別の姿を持つ人物を回想してみることにした。
各々の人物は1975年の開幕時の監督であるジョー・ルーツ(Rollin Joseph "Joe" Lutz )との関わりから、広島球団は奇跡的な運命のペナントレースに導かれて行くことになる。

左より ルーツのセントルイス ブラウンズ時代 広島監督時代 初優勝の祝福の為、秋に再来日したとき(衣笠選手とともに)
Joe_Lutz.jpg

ルーツと広島球団との縁は根本陸夫監督時の広島球団がインディアンスのキャンプに参加し、当時インディアンスのコーチだったルーツと根本監督は連日の野球談議で意気投合し、後年に広島球団がルーツをコーチに招いたことからスタートする。根本監督は関根順三・広岡達郎をコーチングスタッフにし、当時、外木場義郎、衣笠祥雄、山本浩司(のち浩二)、三村敏之、水谷実雄らの有望若手を徹底的に鍛え上げ、新時代に備える力を徐々につけていたころである。

根本監督・関根コーチ・広岡コーチ               外木場のノーヒットノーランを祝福する根本監督・松田オーナー
根本監督

根本監督が退いた後、広島球団は低迷し遂に1972~1974年まで3年連続最下位というドン底に直面することになる。そのときに松田耕平オーナーは信頼する根本陸夫の助言とともにある人物の決断により、熱血コーチ故にチーム内で浮いていたジョー・ルーツ氏の監督就任が急転直下で決定する。
その決断をしたのは、東洋工業(前マツダ)の総務課長を経て、広島東洋カープ球団代表に抜擢され就任した重松良典である。
ルーツは前年のシーズンを通してチームで浮いていたこともあり、来季の契約を諦めて既に帰国の準備をしていたところ、現状打破の為には熱血的な指揮者による改革が必要との判断により監督就任を要請された。実のところ、広島球団内部では現役選手の山本一義を次期監督に推奨する声が多かったのだが、山本一義が現役続行に拘ったこともあり、重松代表はルーツに賭けて指揮を託すことを決断したのである。
ルーツはコーチングスタッフやトレード等の人事権を自分に与える条件に加えて、以前から激しいプレースタイルを評価し、チーム活性化の為に自軍への招聘を希望していた日本ハムの大下剛史選手を獲得することを条件に監督就任を引き受け、日本球界初の外国人監督が誕生することになる。
当時の日本ハムは大下以外は全員トレードなどの記事が流れたことより交渉は難航することを予測していたが、意外にも日本ハム側はすんなり交渉に応じた為、ルーツ監督就任から間髪入れず、大下の広島入団が発表されることになった。

大下剛史二塁手
大下剛

1975年のペナントレースは幕を開けた。ルーツの采配は明らかに昨年までの広島の戦い方とは違うが、なかなか巧く投打が噛み合わず、負けが先行する展開が続いた。又、ルーツは審判による弱小球団への不利な判定に対する意識が強く、判定に対しても激しく執拗に抗議した。当時の審判団はルーツ監督をトラブルメーカーとして要注意ターゲットとし、何かあれば即退場とすべきと申し合わせしていたとも言われている。

そのような状況下で事件が起きた。甲子園球場での対阪神戦でルーツの猛抗議に対して退場を命じられたにもかかわらず、ルーツはグラウンドから立ち退かなかった。困り果てた審判団は重松代表に説得を要請することでルーツをグラウンドから立ち退かせたのだった。
ルーツはグラウンドの全権を任されていることをフロントに侵されるのであれば一切の指揮は採れないとして、突然、退団してしまうことになる。

直後に重松代表はルーツとともに記者会見したが、当時 テレビや新聞で見る重松代表に感じられた印象は、人相が悪く、所謂”悪人顔”であり、スーツに身を包んだ現場を理解しない典型的なフロントタイプの人物に映ったのだ。

その後、新監督に古葉竹識が抜擢され、周知のごとく広島球団は徐々に上昇し、ペナントレースの首位争いを最後まで繰り広げることになっていく。9月に入ってから広島は殆ど負けなかったが、対抗馬の中日も与那嶺要監督の下、前年からの連覇を目指し、ぴったりと首位広島を追尾していた。そのような白熱した中、事件がまた起こったのである。

9月10日 広島市民球場での対中日戦の最終回のタッチプレーを巡る選手間の小競り合いを引き金に広島ファンがグラウンドに雪崩込み、中日選手に襲い掛かったのである。有名な話では広島出身タレントの風見しんごは当時中学一年生のカープファンとしてグラウンドで当時の中日のエース星野仙一に砂をかけたことを後年本人に伝え、星野から「あのときのガキはおまえだったのか!」というエピソードがある。当時、星野仙一は広島ファンと折り合いが悪く、客席に暴言を吐くこともよくあったらしい。

翌日のニュースでは包帯や絆創膏をした中日の選手がインタビューに答え、事態を重く捉えた広島球団は翌日の試合の中止を発表することになった。
不謹慎な発言かも知れないが、当時の中日選手の包帯や絆創膏は子供心にもいささかオーバー気味でまるでコントのように滑稽に感じられた。又、当時、心理的にも肉体的にもチームは疲労困憊であった為、中止により一戦休むことと、中日戦を最終に組み込まれたことが良い方向に作用したかも知れないと古葉監督は後年語っている。

球団創設以来、初めての優勝争いにファンも熱くなり、ある意味で危険な状態だったのかも知れない。この事件に対して重松代表は涙ながらに「情けない・・・・。」と反省していた。考えればルーツの退団といい、乱闘事件といい、球団代表も経験のない状況で戸惑いもあったであろうが、夏までに「今年は優勝するかも知れない。」という言葉から、この頃は既に「絶対に優勝するぞ!!」に変化していたから、監督も選手もファンもそして重松代表も初優勝への期待と共に逃げ場のない恐怖と表裏一体だったのかも知れない。

重松代表のシーズン回想 左よりルーツ退場(上) ルーツ退団(下) 古葉監督就任(上) 後年インタビューに答える重松良典(下) 9/10中日戦の乱闘と翌日の中止・球場でのファンへの呼びかけ(右上) チャンピオンフラッグと広島市民球場での優勝報告(右下) etc.
重松球団代表の回想

重松良典は広島初優勝後、1981年まで球団代表を務めた。思えば三年連続最下位の時代から、その後古葉監督体制で二年連続日本一まで味わう経験をしている。フロントの人間だけに地味にひっそりと身を引いた形になったが、後に見覚えのある顔にテレビで偶然遭遇し、重松良典という名前を見て驚いてしまった。
なんとテレビの紹介のテロップにはJリーグのベルマーレ平塚の球団社長となっているではないか。なぜあの重松さんがJリーグで?と自分の目を疑ったが、WEBで調べてみて長年の謎が解けたのである。そこには重松良典のまったく別の人生があった。

重松良典は元々サッカーの選手で大学を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。元サッカー日本代表。1965年日本サッカーリーグ(JSL)創設を実現させた人物。後に日本プロ野球界に転じ1975年の「赤ヘル旋風」時の広島東洋カープ球団代表としても著名。Jリーグ所属のベルマーレ平塚としての最後の社長でもある。
同1981年から、フジタ工業(現・フジタ)に転る。日本サッカー協会専務理事などを務め、1993年のJリーグの設立にかかわっている。在任中、1995年ネルシーニョの日本代表監督内定騒動(いわゆる「腐ったミカン」事件)もあった。

1997年からフジタの子会社でJリーグ・ベルマーレ平塚社長に就任した。同チームはこの時期黄金期を迎え、1998年のフランスW杯には小島伸幸、洪明甫、中田英寿、呂比須ワグナーと日韓合わせて4人の代表選手を輩出、Jリーグ上位に常にいるチームであった。1998年中田のイタリアセリエA所属のACペルージャ移籍にも尽力するとチーム成績が落ちていく。

翌1999年、フジタが経営の建て直しを図るためスポンサーから撤退したため経営不振に陥る。そのため主力のリストラを決行、結果J1で年間成績最下位となりJ2に降格、一時はチーム存続の危機が囁かれた。翌2000年新たに会社に移して「湘南ベルマーレ」にチーム名改称、ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新するものの、チーム成績は向上せず現場は混迷した。同年末に退任。
2000年、Jリーグ参与に就任。2002年のワールドカップ開催にも尽力した。
現在は、地元広島に在住とのことである。

元々アスリートであった重松代表は球技の違いはあれど、馴れ合い集団から真剣に優勝を目指すために改革していく工程においては適任者であったのかも知れない。
後年、NHKスペシャルの「赤ヘル旋風」でインタビューに答える顔は面影はそのままだが、人相の悪い”悪人顔”は優しそうなおじいちゃんの表情に変わっていた。ルーツの退団に対するいきさつも言い訳一つするわけでなく、自身の配慮が欠けていたことを謙虚に反省していた。子供のときにはまったく想像できなかったが、アスリートとしての魂を持ち、現場に精通した優れた管理者だったのかも知れない。

今回は重松良典氏のプロサッカーとプロ野球との関わりという数奇な人生経験に敬意を表してサッカースタジアムのコラージューで閉めることにした。
【Stadium】
Stadium.jpg
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広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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