3Dアクアテラリウム

立体写真による探訪記と恐竜ジオラマのアクアテラリウムと駄文のブログ

 

歴史巡礼 天王寺七坂

Edit Category ウォーキング
大坂夏の陣の最終決戦となった「天王寺口の戦い」ジオラマ模型②

昨年の秋頃、大阪の中心部を南北に走る上町台地に位置している歴史跡地や古戦場を巡り、真田丸をメインにした記事に纏めた際、機会があれば、真田信繁が最期を迎えた天王寺口の戦いの場所周辺も是非とも訪れてみたいと考え、いつものように健康のためのウォーキングも兼ねて、天王寺七坂を巡るコースを散策することにし、休日の午後、嫁さんと地下鉄で谷町九丁目に向かった。

天王寺七坂

上町台地の西側、天王寺区の谷町筋と松屋町筋の間にある天王寺七坂は、NHK大河ドラマ「真田丸」の影響もあり、訪問者も多くなったエリアである。谷町九丁目から天王寺までの谷町筋の西側に分布する真言坂(しんごんざか)・源聖寺坂(げんしょうじざか)・口縄坂(くちなわざか)・愛染坂(あいぜんざか)・清水坂(きよみずざか)・天神坂(てんじんざか)・逢坂(おうさか)からなる7ヶ所の坂道の界隈は神社仏閣が多く、旧跡も多い。各々の坂の風景を楽しみながら、周辺の歴史を訪ね歩くことができる散策コースである。

浪華名所獨案内 1832年(天保3年)
浪華名所獨案内 1832年(天保3年)

浪華名所獨案内という江戸時代の大阪の観光ガイドマップ(木版の一枚刷り)が大阪歴史博物館に所蔵されており、天保年間の大阪の観光名所が様々に記載されたこの地図は、1832年(天保3年)に、或る合薬屋が広告として作ったものと云われ、近世大坂の名所や店舗が記されている。図の上部の左寄りに、御城が大きく描かれ、右方向には、生玉宮~茶臼山を最南端にして記載されている。天王寺七坂は、七福神巡りなどに因んだ通称と推察するが、最近では学園坂を加えて天王寺八坂と呼ばれる場合もある。

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真言坂①(交差法)
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真言坂①(平行法)

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真言坂②(交差法)
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真言坂②(平行法)

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真言坂③(交差法)
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真言坂③(平行法)


谷町九丁目から生國魂神社に通じる真言坂が、天王寺七坂の最初の坂となるのだが、なかなかそれらしき坂を見つけることができない。生國魂神社の周辺には、ラブホテルが密集した一角があり、その前の道が緩やかな傾斜の坂となっているが、まさかこのような景観が名所の坂とは思えない。いきなりスタート地点で7~8分も彷徨った挙句、スマホのGoogle Mapを駆使してやっと方向の間違いに気付いた。天王寺七坂を逆順コースに巡る散策団体と思われる集団を見掛け、ようやくスタート地点となる真言坂に辿り着いた。

「浪花百景」 真言坂・生玉絵馬堂 歌川国員(左)/「摂津名所図会 生玉真言坂」吉野屋為八(右)
「浪花百景 真言坂」歌川国員 「浪花百景 生玉絵馬堂」歌川国員 「摂津名所図会 生玉真言坂」吉野屋為八

天王寺七坂を北から散策した場合、一番初めの真言坂は、生國魂神社の北門から千日前通に通じる七坂の中で南北に通る唯一の坂道となる。現在は、千日前通りから生國魂神社北門までの短い坂だが、千日前通りが整備される明治末期までは、北にある高津宮(高津神社)の参道から続く長い坂であった。生國魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄え、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院の六坊すべて真言宗であったので、真言坂と名付けられた。

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生國魂神社①(交差法)
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生國魂神社①(平行法)

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生國魂神社②(交差法)
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生國魂神社②(平行法)

生國魂神社は、石山崎(現在の大阪城付近)に生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を祀ったのが始まりとされる延喜式名神大社である。1580年(天正8年)の石山合戦の時に焼失したが、1583年(天正11年)豊臣秀吉が大阪城を築く際、現在の地に移転し、本殿は移転の2年後に神社建築では他に例のない生國魂造様式を用いて造営された。現在の本殿は戦後に建て替えられたコンクリート造銅板葺きだが、桃山時代の遺構を伝えている。総鎮守、伊勢神宮成立以前の国家神である所以として大阪最古の神社とされる生国魂神社は、地元では生玉(いくたま)さんと呼ばれている。

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生國魂神社 井原西鶴像(交差法)
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生國魂神社 井原西鶴像(平行法)

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生國魂神社 織田作之助像(交差法)
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生國魂神社 織田作之助像(平行法)

生國魂神社の正面の鳥居から境内に入り右奥に進むと、生誕350年記念として1992年(平成4年)に建立された井原西鶴坐像が見えてくる。その先の生國魂神社の末社が立ち並ぶ場所には、2013年(平成25年)に建立された織田作之助のブロンズ像も見えてきた。織田作之助が大阪を歩く写真をモチーフに制作されたブロンズ像は、「庶民の生活に拘った“オダサク”の原点は、生まれ育った生國魂神社の周辺にある。そこに銅像を建てられるのは意義深い」との気運によって、庶民文学の礎として尊敬していた井原西鶴の坐像の近くに建てられた。

井原西鶴 芳賀一晶による肖像画
井原西鶴 芳賀一晶による肖像画

江戸時代前期、木版印刷が普及すると商業出版が本格的にスタートし、本が一気に身近になった。当初、出版業界の中心は京であり、仏書や歴史書など硬派な出版物が主流だったが、絢爛な文化が花開いた元禄期(1688年~1704年)になると、大坂で井原西鶴の絶倫男の一代記「好色一代男」が大ヒットし、娯楽作品によって出版革命を起こす。江戸時代中期を代表する大坂生まれの人気作家となった西鶴は、他にも町人の生活を軽妙に描いた「日本永代蔵」など庶民生活をテーマとした大ヒット作を連発し、浮世草子と称する分野の第一人者として人気を博した。

「好色一代男」井原西鶴 1682年(天和2年)
「好色一代男」井原西鶴 1682年(天和2年)

「好色一代男」女護島へ向かう世之介(左)/「好色一代男」の大ヒットによる娯楽作品革命(右)
「好色一代男」女だらけの島である女護島へ向かう世之介 井原西鶴「好色一代男」

「好色一代男」増村保造監督 市川雷蔵主演 1961年(昭和36年)大映作品(左)/近代映画1961年5月号「好色一代男」記事(右)
「好色一代男」市川雷蔵主演 1961年(昭和36年)大映作品 近代映画1961年5月号「好色一代男」記事

「好色一代男」は、金持ちの家に生まれた主人公 世之介の性的に放縦な人生を物語る。江戸時代には衆道(男色)も文学に取り上げられ、世之介が肉体的に交渉した女は3742人、男は725人と書かれている。世之介の最初の性的体験となる7歳から1年につき1挿話で、山盛りの宝と責め道具を好色丸に積み込み、女だらけの島である女護島へと向かって消息が途絶える60歳までの54年間を記述している。54という数字は「源氏物語」の全54帖に因んでいると云う。「好色一代男」は翻案されて増村保造監督、市川雷蔵主により、映画化(昭和36年 大映作品)されている。

「日本永代蔵」井原西鶴 1688年(元禄元年)
「日本永代蔵」井原西鶴 1688年(元禄元年)

「駿河町越後屋正月風景図」(作者不詳)
駿河町越後屋正月風景図(作者不詳)

【江戸東京博物館 三井越後屋 江戸本店 ジオラマ模型】
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江戸東京博物館 三井越後屋 江戸本店 ジオラマ模型②(交差法)
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江戸東京博物館 三井越後屋 江戸本店 ジオラマ模型②(平行法)

「日本永代蔵」(巻一、四)昔は掛算 今は当座銀 ~江戸にかくれなき出見せ 一寸四方も商売の種~では、三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた三井高利について書かれている。伊勢 松阪で木綿を商売していた三井高利が、江戸駿河町に「越後屋呉服店」(三越百貨店の起源)を開店し、“現銀掛け値なし”という新商法を掲げて価格を下げ、切り売りをして庶民の人気を集めた。10年後「三井両替店」を開設し、幕府の金銀御用達としての地位を得て大商人となった三井高利の商いを「人の気を見て商の上手は此国の人也」と伊勢商人の商売上手を賞賛している。

井原西鶴「鯛は花は 見ぬ里もあり 今日の月」(左)/井原西鶴の墓 誓願寺(中)/「西鶴置土産」(右)
井原西鶴「鯛は花は 見ぬ里もあり 今日の月」 井原西鶴の墓 誓願寺 「西鶴置土産」

西鶴は、673年(寛文13年)32歳の時、生國魂神社に俳人200人を集めて大規模な万句興行を主催する。34歳の時、愛する妻が25歳の若さで先立ち、亡き妻に捧げる1000句を吟じ続けた「俳諧独吟一日千句」として名を高め、一定時間内に如何に多くの俳諧を詠めるかという矢数俳諧(やかずはいかい)の創始者となる。1680年(延宝8年)生國魂神社で矢数俳諧を興行し、「天下矢数二度の大願四千句也」を発句として一昼夜独吟4000句を詠むことを成し遂げた。

井原西鶴坐像

更に妻の死から9年後、西鶴は一昼夜で2万3500句という途方もない記録を樹立して俳諧に別れを告げ、41歳で作家として新たにデビューし、大ヒット作家としても大成した西鶴は、妻の死後、再婚話も幾度かあったと思われるが、52歳の生涯、再び妻を迎えることはなかった。作風とは対照的に亡き妻一筋に生きた一途な人物であった。

「織田作之助 生誕100周年 大阪逍遥地図」(左)/富田林本町公園 織田作之助記念碑(右)
「織田作之助 生誕100周年 大阪逍遥地図」 富田林本町公園 織田作之助記念碑

織田作之助は、無頼派(新戯作派)の一人として活躍し、オダサクの愛称で親しまれた大阪出身の小説家である。小説家を目指して青山光二らと同人誌「海風」を創刊、同誌に短編を幾つか発表し次第に注目を集めるようになり、1940年(昭和16年)「夫婦善哉」で本格的に文壇デビューした。戦後、世相や風俗を鋭い感性で描いた作品が人気となり、太宰治坂口安吾らとともに無頼派の作家として活躍した。

「夫婦善哉」織田作之助 1940年(昭和15年)自筆原稿と初版本(左)/1955年(昭和30年)東宝作品(中)/柳吉と蝶子の関係(右)
「夫婦善哉」 1940年(昭和15年)織田作之助自筆原稿と初版本 「夫婦善哉」森繁久彌主演 1955年(昭和30年)東宝作品 「夫婦善哉」 柳吉と蝶子の関係

作之助の「夫婦善哉」は1955年(昭和30年)森繁久彌、淡島千景 主演の映画作品となり、主演の二人は、毎日映画コンクールとブルーリボン賞で主演賞を受賞している。昭和初期の大阪を舞台に、勝ち気でしっかり者の芸者 蝶子と気弱で道楽者の問屋の若旦那 柳吉の愛情を浪花情緒豊かにユーモラスに描かれた作品となった。

法善寺横丁角にある「夫婦善哉」(左)/一人前で二杯のお椀に分けられた「夫婦善哉」(右)
法善寺・夫婦善哉 夫婦善哉

行方を晦ました柳吉がひょっこり帰ってきて、蝶子を連れて道頓堀からの通路と千日前からの通路の角の「夫婦善哉」の赤提灯の店を訪れる。大阪の法善寺の横に実在する1883年(明治16年)創業「夫婦善哉」の名物となった一人前で二杯のお椀に分けられた善哉は縁起物とされ、ミナミのシンボルとも言える法善寺横丁の通路の角にある作之助の「夫婦善哉」の舞台には、“水かけ不動さん”と親しまれる不動明王を参拝する観光客で賑わっている。

自由軒 難波本店(左)/「自由軒本店 織田作文学発祥の店」の額(中)/”織田作之助好み”名物カレー(右)
自由軒 難波本店 「自由軒本店 織田作文学発祥の店」の額織田作之助好み 名物カレー

「夫婦善哉」の中で、柳吉と蝶子が千日前の洋食店「自由軒」の名物カレーを食べ、柳吉曰く「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」との一節がある。作之助が通った「自由軒 難波本店」では、現在も名物カレーのメニューに“織田作之助好み”と書かれ、二代目店主 吉田四郎所蔵の自由軒店内で小説を書く作之助の写真に“トラは死んで皮をのこす、織田作死んでカレーライスをのこす”と書き添えられた額縁が飾られている。

1946年(昭和21年)11月25日 銀座の「Bar Lupin」(中)での織田作之助(左)太宰治(右)
織田作之助 Bar Lupin Ginza 太宰治

1946年(昭和21年)11月25日、無頼派作家の太宰作之助は、坂口安吾と共に実業之日本社主催の座談会に出席した。作之助は1時間程遅刻したのだが、太宰と安吾は座談会開始前に既に酩酊していたと云う。座談会の記録は、翌年4月20日付発行の「文学季刊」に掲載された。この日最後に銀座の文壇バーとして著名な作家が出入りした「Bar Lupin」で写真家の林忠彦が作之助を撮影中、泥酔した太宰が「おい、オダサクばっかり撮ってないで、俺も撮れよ」と言われて撮影した一枚は、太宰を写した最も有名な写真となった。

織田作之助イラスト  太宰治イラスト

作之助は、1944年(昭和19年)妻 一枝を子宮癌で亡くし(享年31歳)2年後に再婚したが、執筆中に大量の喀血を起こして東京で入院し、翌1947年(昭和22年)1月10日、33歳の若さで帰らぬ人となって、先立った妻の一枝の眠る墓に入った。作之助が肌身離さず大切にしていた遺品の封筒の中から、一枝の遺髪と写真が発見された。交流のあった太宰は、作之助の没後、翌1948年(昭和23年)6月13日、愛人と共に玉川上水で入水自殺し、奇しくも6日後の太宰の38歳の誕生日に遺体が発見された。

井原西鶴像 織田作之助の像

大阪に因んだ作家と云えば、古くは井原西鶴近松門左衛門、現代では司馬遼太郎などが挙げられるが、良き大阪を良き時代に描いた作家として織田作之助を外せない。作之助は虚飾や気取りに囚われない西鶴に心酔し、自身の「西鶴新論」では、「大坂で生まれ、大坂で育ち、大坂で書き、大坂で死に、その墓も大坂にある」と書いた。作之助は、西鶴のノンフィクションのような筆致によって人々の逞しさや悲喜劇を描くリアリズムを受け継いだ作家であり、先立った妻を一途に想い続けた人物像も重なる。

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生國魂神社③(交差法)
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生國魂神社③(平行法)

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生國魂神社④(交差法)
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生國魂神社④(平行法)

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生國魂神社 表参道 川崎孫四郎 自刃の所 石碑(交差法)
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生國魂神社 表参道 川崎孫四郎 自刃の所 石碑(平行法)

生国魂神社前の公園の一画には、表参道の脇に石碑が2基建っていた。一方は江戸時代後期の武士 島男也 旧居 碑で、1944年(昭和19年)の建立、他方は桜田門外ノ変の襲撃者 川崎孫四郎自刃の所 碑は、1969年(昭和44年)に建てられた。1860年(安政7年)3月3日、彦根藩の大名行列が江戸城桜田門にさしかかる場所で行列を襲撃し、大老 井伊直弼を暗殺した水戸藩の川崎孫四郎が、大阪で挙兵を図り幕府に追われてこの地で自害したとされる石碑と説明板に記されていた。

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源聖寺坂①(交差法)
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源聖寺坂①(平行法)

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源聖寺坂②(交差法)
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源聖寺坂②(平行法)

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源聖寺坂 齢延寺 鐘桜門(交差法)
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源聖寺坂 齢延寺 鐘桜門(平行法)

源聖寺坂は、坂の上り口にある源聖寺が名の由来となる。齢延寺には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東畡 藤沢南岳 父子の墓があり、銀山寺には、近松門左衛門「心中宵庚申」に登場するお千代、半兵衛の比翼塚がある。天王寺七坂の中でも、一番複雑な構造の坂になっており、寺の白壁と石段が調和して風格が漂う。途中から急勾配で大きくカーブした石段の先に長く続く道では、松屋町筋から東に10mの石畳があり、1969年(昭和44年)に廃止された大阪市電の敷石が転用されている。

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源聖寺坂③(交差法)
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源聖寺坂③(平行法)

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源聖寺坂④(交差法)
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源聖寺坂④(平行法)

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源聖寺坂⑤(交差法)
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源聖寺坂⑤(平行法)

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源聖寺坂⑥(交差法)
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源聖寺坂⑥(平行法)

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源聖寺坂⑦(交差法)
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源聖寺坂⑦(平行法)

天王寺区の生玉町から下寺町界隈は歴史ある寺社が多く点在することから、寺町と呼ばれる。戦国時代から、武士・商人・寺院などを城下町に集住させる政策があり、戦国大名による政治・経済・宗教などの権力を集中させる意味があった。天下人となった豊臣秀吉は、大坂城を築くとともに城下を整備し、多くの寺院を天王寺の周辺に移転させ、現在の寺町の原型となった。松屋町筋沿いの下寺町一丁目から二丁目一帯は25もの寺院が軒を連ね上町台地の緑を背景に当時の趣を残している。

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松屋町筋 光明寺(交差法)
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松屋町筋 光明寺(平行法)

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松屋町筋 心光寺①(交差法)
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松屋町筋 心光寺①(平行法)

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松屋町筋 心光寺②(交差法)
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松屋町筋 心光寺②(平行法)

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松屋町筋 心光寺③(交差法)
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松屋町筋 心光寺③(平行法)

次の口縄坂まで松屋町筋を暫く直進するのだが、複数人で談笑しながらゆっくり歩く人、一人で黙々と早足で歩く人、各々がマイペースでウォーキングを満喫している。松屋町筋沿いに建つ1624年(寛永元年)西尚により創建された心光寺は、浄土宗の寺院なのだが、国の登録有形文化財に指定された本堂は、インドのタージマハルのようなインド風の外観意匠とした寺院本堂建築である。パーム椰子の木がエキゾティックな雰囲気を醸し出しているが、周りには日本の伝統的なお墓が点在している。

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松屋町筋 萬福寺①(交差法)
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松屋町筋 萬福寺①(平行法)

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松屋町筋 萬福寺②(交差法)
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松屋町筋 萬福寺②(平行法)

萬福寺は、1594年(文禄3年)前田利家の弟の前田次郎兵衛利信と僧開導によって開創され、阿弥陀如来を本尊として祀る。1863年(文久3年)~1867年(慶応3年)新撰組の大坂駐屯地となり、大坂相撲力士との乱闘、町奉行与力 内山彦次郎暗殺などの事件が起こった。当時、本堂裏にあった納屋は牢として使われ、1865年(慶応元年)漢詩人 藤井藍田を拷問の上、絶命させた場所であり、他にも多くの志士が牢内に捕らえられていたと云う。現在、境内には四季の風情が楽しめる美しい庭園が広がり、芭蕉句碑が佇む。

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口縄坂①(交差法)
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口縄坂①(平行法)

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口縄坂②(交差法)
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口縄坂②(平行法)

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口縄坂 善龍寺(交差法)
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口縄坂 善龍寺(平行法)

口縄坂は、坂の下から眺めると、道の起伏が蛇(くちなわ)に似ているところから名付けられ。大阪を代表する坂として、被写体となる人気の坂である。坂の上には、織田作之助の文学碑があり、少し南側には、鎌倉前期の歌人で新古今和歌集の選定者、藤原家隆の墓があり、オダサクのファンの間では知られた坂だが、普段は地元の人が行き交うだけで静寂が漂う。

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口縄坂③(交差法)
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口縄坂③(平行法)

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口縄坂④(交差法)
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口縄坂④(平行法)

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口縄坂 織田作之助「木の都」文学碑(交差法)
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口縄坂 織田作之助「木の都」文学碑(平行法)

戦時下の1944年(昭和19年)3月、「新潮」に発表された作之助の短編小説「木の都」の文学碑が置かれた口繩坂の上に立つと、西の空を見つめる作之助が居るような感覚に包まれる。その年の5月には、妻 一枝の病状がさらに悪化し、戦局が悪化して大阪にも空襲があり、死が次々と重なる時間の流れの中で、自らが育った下町を舞台に巡る作之助の回想が坂上の碑に偲ばれる。

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愛染堂 勝鬘院(交差法)
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愛染堂 勝鬘院(平行法)

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愛染堂 勝鬘院・大江神社(交差法)
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愛染堂 勝鬘院・大江神社(平行法)

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愛染坂①(交差法)
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愛染坂①(平行法)

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愛染坂②(交差法)
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愛染坂②(平行法)

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愛染坂③(交差法)
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愛染坂③(平行法)

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愛染坂④(交差法)
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愛染坂④(平行法)

愛染坂は、大阪星光学院(南)と大江神社(北)の間に位置し、坂の下り口に位置する愛染かつらで有名な愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)が名の由来である。豊臣秀吉の寄進により1600年(文禄三年)創建された境内の多宝塔は、大阪市内最古の建造物として重要文化財に指定されている。愛染堂の隣の大江神社には夕陽岡の碑があり、色に染まる空の美しさにより“夕陽ヶ丘”の地名の由来となる。境内には狛犬ならぬ狛虎が鎮座し、阪神タイガースの守り神として多くのファンが参拝に訪れる。

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清水坂①(交差法)
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清水坂①(平行法)

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清水坂②(交差法)
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清水坂②(平行法)

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清水坂③(交差法)
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清水坂③(平行法)

清水坂は、有栖山清水寺(南)と大阪星光学院(北)の間に位置し、坂の上の清水寺が名の由来となる。高台にある清水寺境内は、通天閣などが一望できる格別の眺望と云われる。境内の南側の崖には、京都の清水寺音羽の滝を模した大阪市内唯一の滝、玉出の滝が流れている。この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、増井・逢坂・玉手・安井・土佐(有栖)・金龍・亀井の清水は天王寺七名水と呼ばれている。

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天神坂①(交差法)
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天神坂①(平行法)

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天神坂②(交差法)
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天神坂②(平行法)

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天神坂③(交差法)
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天神坂③(平行法)

天神坂は、坂の下の安居天神(安居神社)から由来している。天神坂を下った場所には、嘗ての湧き水の雰囲気を再現した石組みの樋のモニュメントが設置されており、付近一帯に昔から名水があることが偲ばれる。安居神社の境内にも癇静めの井(かんしづめの井)と呼ばれる井戸の跡が残っており、前出の七名水のひとつである。天神坂を下りきった場所に安居神社に通じる参道が現われ、真田ゆかりの地に導かれていく。

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安居神社 拝殿(交差法)
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安居神社 拝殿(平行法)

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安居神社 境内(交差法)
(平行法)
安居神社 境内(平行法)

安居神社は、少彦名神が祀られており創建年は不詳だが、901年(昌泰4年)菅原道真が太宰府に左遷された際、藤井寺の道明寺にいた伯母覚寿尼を尋ねる道中に四天王寺にお参りした後、立ち寄って安居(あんご)したことが名前の由来になり、942年(天慶5年)から菅原道真が祀られるようになり、安居天満宮とも云う。おそらく天王寺側から安居神社を目的に訪れた人も多く、境内には天王寺七坂の道中では見掛けなかった数の参拝者が訪れ、その視界の先に眞田幸村公之像が映る。

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安居神社 真田幸村公之像・真田幸村戰死跡之碑(交差法)
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安居神社 真田幸村公之像・真田幸村戰死跡之碑(平行法)

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安居神社 真田幸村公之像①(交差法)
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安居神社 真田幸村公之像①(平行法)

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安居神社 真田幸村公之像②(交差法)
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安居神社 真田幸村公之像②(平行法)

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安居神社 真田幸村戰死跡之碑(交差法)
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安居神社 真田幸村戰死跡之碑(平行法)

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安居神社 さなだ松(交差法)
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安居神社 さなだ松(平行法)

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安居神社 絵馬(交差法)
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安居神社 絵馬(平行法)

膝を立てて疲労困憊ながらも背筋を伸ばした眞田幸村公之像は、制作は堺出身の彫刻家の播間公次氏、建立と題字は宮司の中島一熙氏により、2009年(平成21年)12月に設置された。傍にある眞田幸村戦死跡之碑、信繁が寄りかかったと云われる二代目の一本松 さなだ松と共に大坂夏の陣で徳川方に討たれて戦死した真田幸村(信繁)の終焉の地のモニュメントとして、周囲は記念写真を撮る人々で溢れていた。境内の社務所には、ロケなどで安居神社を訪れた著名人や、大坂の陣を題材にした役を演じる俳優らの絵馬が展示されている。

大坂冬の陣 布陣図(左)/戦いの流れ(右)
大坂冬の陣 布陣図大坂冬の陣の流れ

1614年(慶長19年)暮れの冬の陣で、大坂方は信繁の真田丸での奮戦・活躍で大軍を誇った関東方と接戦し、膠着状態に持込んだ。徳川家康は和睦案を提示、大筒(大砲)を本丸に撃ち込まれ、怖じ気づいた淀殿は不利な講和条件を受入れ、老獪な家康は、外堀の破却に応じて出城であった真田丸や巨大な空堀であった惣構を破壊して廃材は堀に投込み、この機に乗じて和睦案にはなかった内堀まで埋め立てた。1615年(慶長20年)1月中旬頃には、秀吉が築城した天下の名城は本丸だけを残す防衛機能のない無防備な裸城と化した。

大坂の陣 真田戦記

信繁の資質を認め恐れた家康は、信繁の叔父である真田信尹を介して接触し、“信州で十万石下さるべく候旨”条件を提示して懐柔を謀るが、信繁は「秀頼には恩がある」として拒んだ。更なる“信濃一国の大名”との説得に「信濃一国どころか、日本国中の半分を戴けるとしても、私の気持ちは変わりません」と立腹して対面しなかったと云う。信繁は、文字通り裸城となった大坂城を背に討ち死にする覚悟を決める。

防衛機能のない無防備な裸城となった大坂城
大坂城再現

4月末から前哨戦が始まった大坂夏の陣に於いて、大坂城が城塞としての防御力を失ったことにより、前年の冬の陣の籠城戦から一転、家康本陣を切り崩すべく、城の外での野戦が繰り広げられた。大坂方は機先を制すべく奈良街道を進む軍勢の出口道明寺を迎撃地と定め、5月6日の道明寺の戦いは激烈を極め、情報が錯綜し真田隊が遅参するなどして政宗率いる伊達勢の猛攻で大坂方はあわや全滅という危機に瀕したが、真田隊の活躍で形成挽回し、伊達軍の迂回進行を阻止して決定的敗北を回避した。

大坂夏の陣 布陣図(左)/戦いの流れ(右)
大坂夏の陣 天王寺・岡山合戦布陣図大坂夏の陣の流れ

大坂城を目指して北上する徳川軍の先鋒は、現在のあべのハルカス付近まで押し寄せ、四天王寺付近を最終防衛ラインとして布陣する豊臣軍と対峙した。翌5月7日、天王寺の戦いでは、前日のうちに道明寺方面より引き上げた大坂方は、総大将大野治房が本丸を背に布陣、精鋭である信繁ら実動隊は上町大地の外線上に陣を敷いた。道明寺戦で殆ど無傷だった毛利隊と茶臼山に陣取った真田隊が、徳川軍本隊との最終決戦となる戦いを迎えた。

大坂夏の陣図屏風(左)の中の真田赤備え(右)
大坂夏の陣図屏風 大坂夏の陣図屏風 真田赤備え

徳川軍15万5千に対し、多数の兵を失った豊臣軍は僅か5万5千でしかない。正午頃に開始された戦闘は激戦となり、土佐を抜け出して豊臣方に参戦した毛利勝永の活躍により、徳川軍は先鋒の本多忠朝、後方の小笠原秀政が毛利隊に次々と討ち取られ、陣形を崩す。間隙を突いた真田隊によって福井藩主の松平忠直の大軍も突破される。鬼神の如く家康の本陣に切り込んだ真田隊によって旗本隊は大混乱に陥り、徳川の馬印が転倒、護衛の兵が散って孤立状態に陥った家康は、絶望により自害を覚悟したと云われる。

安居神社 NHK「真田丸」のシーン
西尾宗次と真田幸村 NHK「真田丸」のシーン

混乱に乗じて敵陣を突破した真田隊は家康の本陣への突入に成功し、三度の猛攻を加えるが、駆けつけた井伊隊、藤堂隊の反撃により、本陣は態勢を立て直し、真田隊を辛くも撃退する。疲弊した信繁は、安居天神(安居神社)で休息しているところを松平忠直の鉄砲組頭 西尾久作に討たれ、49年の生涯を閉じた。松平隊は信繁を打ち倒した勢いで一気に大坂城へと攻め寄せ、本丸を占拠して大坂夏の陣は徳川軍の勝利に終わった。家康は茶臼山に登り、頂上に旗を立て、麓に諸将を集めて勝鬨を挙げたと伝えられる。

炎上する大坂城
大坂城炎上

天王寺口の戦いは、5月7日の正午頃に開戦し、大阪城が炎上したのが午後4時ぐらいとされる。大野治長は秀頼の正室で、徳川秀忠の娘である千姫を救助する引き換え条件として、秀頼と淀殿の助命を懇願したが家康は無視した。大坂城は炎に包まれ、翌日、城内山里曲輪(山里丸)の蔵の中で秀頼・淀殿母子は自害して果てた。

徳川家康

信繁の奮戦虚しく豊臣家は僅か二代で滅亡し、応仁の乱から150年続いた乱世の時代は遂に終焉を迎えた。翌1616年(元和2年)家康は鷹狩の最中に胃の病で倒れて息を引き取り、自身が開いた江戸幕府は、中央集権的武家政権として、15代 265年間存続する強固な幕藩体制として継がれていくのである。

(交差法)
安居神社 逢坂沿い入口(交差法)
(平行法)
安居神社 逢坂沿い入口(平行法)

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逢坂①(交差法)
(平行法)
逢坂①(平行法)

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逢坂②(交差法)
(平行法)
逢坂②(平行法)

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逢坂③(交差法)
(平行法)
逢坂③(平行法)

天王寺七坂で最も南側に位置する最後の逢坂は、西側から四天王寺西門に至る坂道となる。昔は合坂とも表記された。坂の下の合法ヶ辻(がっぽうがつじ)は、聖徳太子と物部守屋が仏法を論じて法を比べ合わせた場所と云われる。坂の南側に一心寺があり、坂を上った東側には、以前訪れた四天王寺がある。天王寺七坂の中で唯一、片側2車線の幹線道路(国道25号線)であり、残念ながら現在の逢坂には、近代以前、馬車が走る急な坂であった往古の風情は感じらない。

(交差法)
一心寺①(交差法)
(平行法)
一心寺①(平行法)

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一心寺②(交差法)
(平行法)
一心寺②(平行法)

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一心寺③(交差法)
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一心寺③(平行法)

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一心寺④(交差法)
(平行法)
一心寺④(平行法)

一心寺は、大勢の故人の骨を集めて作られた骨仏(お骨佛)の寺として有名な1185年(文治元年)創建の浄土宗の寺である。大坂冬の陣・大坂夏の陣では家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれた。大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んで冬の陣で敗退し、家康に叱責されて見返すべく夏の陣で奮戦するも討ち死にするが、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言し、“酒封じの神”として、今でも墓所には禁酒を誓う人が詣でる。

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天王寺公園 茶臼山ゲート(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山ゲート(平行法)

諸国古城之図 摂津国茶臼山御陣城(左)/大坂の陣400年記念モニュメント設置(2014年9月9日)(右)
諸国古城之図 摂津国茶臼山御陣城 大坂の陣400年記念モニュメントとして設置した「大坂の陣茶臼山史跡碑」

一心寺を抜けて天王寺公園の北側ゲートから入場して直進すると茶臼山の麓にある広場に至る。天王寺公園内の茶臼山は、冬の陣では家康、夏の陣では信繁が本陣を構えた。大坂の陣400年を記念し、大阪府の史跡にも指定されている茶臼山の歴史的な意義や大坂の陣との繋がりを伝えるため、2014年9月9日、大坂の陣400年記念モニュメントが、一心寺の寄贈により設置された。

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天王寺公園 茶臼山①(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山①(平行法)

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天王寺公園 茶臼山②(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山②(平行法)


コンクリート製の床面上に、波型に彫り出された石(高さは最高で2.5m、総重量は約10t)を正面に見せ、さらにその上に碑文を刻んだ大きな円形の石を載せた。沸騰する波型のイメージで群雄割拠を象徴し、その上部の大きな円形の碑は、群雄割拠から統一が実現され、天下泰平につながるということを象徴しているという。茶臼山(古墳)が大阪府指定史跡のため、地下を掘削しないよう横長の形状にした。

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天王寺公園 茶臼山③(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山③(平行法)

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天王寺公園 茶臼山からのあべのハルカス(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山からのあべのハルカス(平行法)

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天王寺公園 茶臼山④(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山④(平行法)

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天王寺公園 一心寺ゲート(交差法)
(平行法)
天王寺公園 一心寺ゲート(平行法)

旧広島藩主浅野家に伝えられた「諸国古城之図」では、堀の外に曲輪があり、西の曲輪は大阪夏の陣で作られたと伝わり、茶臼山から隣接する一心寺の南門と繋がっている。茶臼山自体は標高26mの小山で、登り口のところにモニュメントが設置されたが、山頂部分には史跡を示すようなものは何も残されず、真田幸村に関する説明板が辛うじて設置されている。

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天王寺公園 茶臼山からの和気橋(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山からの和気橋(平行法)

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天王寺公園 和気橋からの通天閣(交差法)
(平行法)
天王寺公園 和気橋からの通天閣(平行法)

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天王寺公園 和気橋からのあべのハルカス(交差法)
(平行法)
天王寺公園 和気橋からのあべのハルカス(平行法)

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天王寺公園 茶臼山 和気橋①(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山 和気橋①(平行法)

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天王寺公園 茶臼山 和気橋②(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山 和気橋②(平行法)

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天王寺公園 茶臼山 和気橋③(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山 和気橋③(平行法)

1759年(宝暦9年)一心寺境内で嵯峨の清凉寺(釈迦堂)の出開帳が行われ、インドから中国・日本へと伝わった三国伝来の釈迦如来像を一目見ようと、連日多数の参拝客が押し寄せた。一心寺と茶臼山の間に仮橋が架けられ、仮設の茶店では参拝客は飲食を楽しみ賑わったが、家康ゆかりの聖跡が庶民の遊興の場になることを幕府は看過できず、茶臼山の周囲を竹垣で厳重に囲み、全山を禁足地にしたと云われる。

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慶沢園・あべのハルカス(交差法)
(平行法)
慶沢園・あべのハルカス(平行法)

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大阪市立美術館①(交差法)
(平行法)
大阪市立美術館①(平行法)

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大阪市立美術館②(交差法)
(平行法)
大阪市立美術館②(平行法)

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天王寺公園 新世界ゲート・通天閣(交差法)
(平行法)
天王寺公園 新世界ゲート・通天閣(平行法)

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慶沢園 黒田藩蔵屋敷長屋門(交差法)
(平行法)
慶沢園 黒田藩蔵屋敷長屋門(平行法)

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天王寺動物園(交差法)
(平行法)
天王寺動物園(平行法)

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新世界 通天閣(交差法)
(平行法)
新世界 通天閣(平行法)

「大阪市パノラマ地図」1923年(大正12年)(左)/「大礼奉祝交通電気博覧会鳥瞰図」 1928年(昭和3年)
「大阪市パノラマ地図」1923年(大正12年)新世界・天王寺公園・四天王寺(初代通天閣と木造の五重塔) 大礼奉祝交通電気博覧会鳥瞰図 1928年(昭和3年)

茶臼山の前の河底池に掛かる和気橋を渡り、慶沢園を通過して天王寺公園の中心に到達する。天王寺公園は、1903年(明治36年)第5回内国勧業博覧会(第1会場:天王寺、第2会場:大浜)が開かれた会場跡地の東側を公園として整備し、1909年(明治42年)天王寺公園として開園(通天閣を含む西側は新世界ルナパークとなる)した。旧住友家の名園 慶沢園や旧黒田藩蔵屋敷長屋門大阪市立美術館などの施設がある。西側には天王寺動物園が隣接する。

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天王寺公園からのあべのハルカス(交差法)
(平行法)
天王寺公園からのあべのハルカス(平行法)

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天王寺駅前陸橋からの通天閣(交差法)
(平行法)
天王寺駅前陸橋からの通天閣(平行法)

天王寺公園の新たな賑わいゾーン「てんしば」
てんしば 芝生公園「てんしば」MAP

天王寺公園の約26haの内の約25,000㎡のエントランス部を約7,000㎡の広大な芝生広場を中心とした新たな賑わいゾーンとして、「てんしば」と名付けて再整備し、2015年10月1日ニューアルオープンした。あべのハルカスから見下ろせる広々とした芝生広場にレストランやカフェ、子どもの遊び場やドッグラン、フットサルコート等の施設を配置し、あべの天王寺エリアの更なる活性化の核になると期待されている。

天王寺七坂
天王寺七坂-真言坂天王寺七坂-源聖寺坂2天王寺七坂-口縄坂天王寺七坂-愛染坂天王寺七坂-清水坂天王寺七坂-天神坂天王寺七坂-逢坂

尾道の坂道
尾道の坂道①尾道の坂道②尾道の坂道③尾道の坂道④尾道の坂道⑤尾道の坂道⑥尾道の坂道⑦

上町台地を巡る天王寺七坂は、アップ・ダウンが組み合わされた比較的傾斜の緩い坂道コース故、幅広い年齢層が楽しめるウォーキングコースである。坂を巡る順路からは、緑が乏しいと云われる大阪市街地のイメージとは違った表情の景観が堪能出来る。北側の生國魂神社から南側の一心寺に向かうコースの方が、長い坂道を下りコースとして歩くことが多いと感じられ、結果として楽なコースを選択したような気がする。初めて訪れた場所にも拘らず、寺が多くて坂の街である故郷の尾道のような趣きが感じられたためなのか、不思議な懐かしさが漂う。

上町台地

上町台地の西縁に沿って巡れば、嘗ては海だった大阪平野が刻々と暮れゆく情景が美しい。天王寺は歴史の重層する町であり、古代の寺院から戦国期の激戦地、江戸期の風流を楽しんだ料亭、近代文学の舞台になった坂などが散在する。遥か昔から水都として発展した地に魅せられた人々は、活気に満ちた豊かな文化を築きながら歴史を育んできた。天王寺七坂から繁華街の喧騒を遠くに眺めると、この場所に大坂の真髄が染み込んでいることを示しているように夕陽が照らす。

天王寺七坂探訪MAP
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Comments
 
歴史巡礼 天王寺七坂拝見しました

西鶴の記事興味深く拝見しました、今度見てみます(図版&現代文であれば良いのですがーーーそうだ、図書館に行こうーーー多分行きません

織田作之助、夫婦善哉って本当にあるのですね、どんな意味か解らなかったのですが ”今にしてようやく”

狛虎には笑いました
ジオラマ素晴らしいです

何時も面白い記事ありがとうございます。
 
Re: タイトルなし 
kimさん、毎度です。

昔から文学作品に疎いので、時代背景も含めて
井原西鶴、織田作之助、更には太宰治まで、
あらためて認識する機会になりました。

様々な場所に出掛ける度に再発見があるのは
やはり楽しみです。

でもすぐに忘れてしまいがちなので、
こうして記録に残す習慣が出来たこと
我ながら満足してます。

大阪って、歴史の要所としての成り立ちが
他にはない興味深さを感じます。

またいろいろ近場を取材してみま~す。
 
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初コメントさせていただきます。
もーびっくりしました。実家、元、下寺町なので、、(今は、日本橋に引っ越しましたが、ま、近所ですね)
大江神社の狛虎知っている人は、数少ないですよ。笑)

知っているところばかりで、嬉しく拝見させていただきました~
最近は、里帰りできてなくて、たまには、帰りたくなりました。
このへんは、穴場的な楽しいとこ多いですよ。。^^
 
Re: タイトルなし 
Satomiさん、コメント戴き心より深謝申しあげます。
また、置き手紙ではいつもお世話になっております。

ブログによれば、現在 Los Angelsにお住まいなのですね。
新婚旅行で一度だけ訪れましたけど、上町台地と言い、日本橋と言い、
憧れの場所ばかりで羨ましい限りです。

初めて歩いた天王寺七坂でしたが、今まで抱いた大阪とはまったく違う
雰囲気があり、趣きのある魅力的な界隈でした。

今後とも宜しくお願い致します[^ェ^]
 


 
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広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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