3Dアクアテラリウム

立体写真による探訪記と恐竜ジオラマのアクアテラリウムと駄文のブログ

 

歴史巡礼 上町台地

Edit Category ウォーキング
大坂夏の陣の最終決戦となった「天王寺口の戦い」ジオラマ模型

休日の午後、嫁さんと一緒に大阪市内の森ノ宮~玉造界隈にある歴史の跡地を巡る散策に出掛けた。現在、NHKの大河ドラマ「真田丸」は、私は観ていないが、“時代劇”好きで特に戦国時代に詳しい嫁さんは、毎回欠かさず録画して観ている。私の方は昔から連続ドラマを観ることが苦手で、大河ドラマのように一年で完結する番組など、なおさら観る習慣が無い。一方で、歴史解説番組などは興味深く観ることが多い。

街を実際に歩いて探索するバラエティ 紀行番組「ブラタモリ」(NHK)
ブラタモリブラタモリ「真田丸」

今回の散策探訪も歴史解説番組を観て「真田丸」に興味を抱いたことと併せ、家から近場で気軽に訪れることができる場所であり、ウォーキングに程好いコースであったことが足を向かせた。更に偶然だが、散策探訪の直後にNHKの「ブラタモリ」で、豊臣秀吉が築いた大坂城が難攻不落だった理由を絵図や地形をもとに様々な角度から徹底的に紐解き、真田丸跡地の散策による判り易い説明によって復習出来たことが実にありがたかった。

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うどん居酒屋 麦笑①(交差法)
(平行法)
うどん居酒屋 麦笑①(平行法)

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うどん居酒屋 麦笑②(交差法)
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うどん居酒屋 麦笑②(平行法)

まずは森ノ宮駅周辺で昼食を摂るところからスタートした。以前から気になっていた「うどん居酒屋 麦笑(むぎわら)」を訪れ、私は「えび天おろしぶっかけセット」※950円を麺大盛りで、嫁さんは「トリ天ぶっかけ」※800円を注文した。コシが強くて極太の冷たいうどんと揚げたての衣がサクサクして中身のボリュームある天婦羅との組み合わせの味と温度が絶妙で、塩でも天ぷらを堪能出来るようにしてある心遣いが嬉しい。何よりコストパフォーマンスが秀逸で必ず満足出来る店であった。

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歴史の散歩道 案内図①(交差法)
(平行法)
歴史の散歩道 案内図①(平行法)

昼食後は、再び森ノ宮駅に戻った地点を出発点として散策をスタートした。森ノ宮は、肝臓治療の為に定期的に「国立病院機構 大阪医療センター」に通う際に通る場所であり、北側には「大阪城公園」の入り口があり、大阪の人々には馴染み深い場所でもある。

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鵲森宮①(交差法)
(平行法)
鵲森宮①(平行法)

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鵲森宮②(交差法)
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鵲森宮②(平行法)

森ノ宮駅前にある地名の由来である「鵲森宮」(かささぎもりのみや)は、通称を森之宮神社と称し、聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人皇后、及び聖徳太子を主祭神として本社に祀り、奧社に天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る歴史ある神社である。「日本書紀」には、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が二羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述があり、難波の杜は当社の森とされて鵲の森と称され社名となったと伝わる。

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森ノ宮から中央大通り沿い(交差法)
(平行法)
森ノ宮から中央大通り沿い(平行法)

森ノ宮から西方面へは法円坂と称する緩やかな坂道になり、上町台地の東端から上がっていることを実感できる。大阪は古くは大坂と表記され、坂のある地形が由来しているが、“大きい坂”ではなく、戦国期以前では “小坂”“尾坂” の表記が見られ、坂が阪になった由来は、土偏に反旁の文面が“士が反る(武士にそむく)”意味を連想させることを回避したことや役人の書き間違いなど諸説があるが定かではない。法円坂は、江戸時代は大坂代官所が置かれ鈴木町と称され、法円坂と改称された謂れは定かではなく、浄照坊の開祖の法円が邸宅を構えていたという説と慶長期以前に法案寺(生國魂神社の神宮寺)の転訛などの諸説がある。

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もりのみやキューズモールBASE①(交差法)
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もりのみやキューズモールBASE①(平行法)

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もりのみやキューズモールBASE②(交差法)
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もりのみやキューズモールBASE②(平行法)

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パル法円坂①(交差法)
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パル法円坂①(平行法)

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パル法円坂②(交差法)
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パル法円坂②(平行法)

真っ直ぐ進めば、以前の記事、「聖地巡礼 球場物語」で紹介した嘗ての近鉄バファローズの本拠地であった日本生命球場の跡地に出来た商業施設「もりのみやキューズモールBASE」がある。国内の商業施設では初めて、屋上に本格的なランニングトラック(エアトラック)を常設し、球場跡地に建設したことから、施設名には野球の塁を意味するBASEを入れている。大阪医療センターを訪れた際は、キューズモール内のフードコートや「アネックス パル法円坂」(大阪市教育会館 ※旧大阪市立中央青年センター)に隣接するウェディングハウス「パル法円坂」を利用することが多い。

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歴史の散歩道 森之宮勝山線 石碑(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線 石碑(平行法)

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難波宮内裏東方遺跡 案内図(交差法)
(平行法)
難波宮内裏東方遺跡 案内図(平行法)

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難波宮跡公園①(交差法)
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難波宮跡公園①(平行法)

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難波宮跡公園②(交差法)
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難波宮跡公園②(平行法)

大阪歴史博物館に展示された飛鳥時代中頃の前期・難波宮 再現模型
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前期・難波宮 飛鳥時代中頃 再現模型(交差法)
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前期・難波宮 飛鳥時代中頃 再現模型(平行法)

暫く直進すると「歴史の散歩道」の石碑があり、更に400m先にある「難波宮跡公園」は、孝徳天皇が築いた難波宮の大極殿跡を中心に約1km四方に広がる遺跡広場である。日本最古の皇居と云われる宮殿遺跡からは、大化の改新(645年)の際に遷都された長柄豊碕宮と奈良時代の聖武朝難波宮が発掘された。都は長岡京・平城京・平安京・鎌倉・江戸と遷移していく歴史で、大阪は常に第二の都市として発展を続け、外交の窓口として貿易や文化交流において重要な役割を果たしてきた。

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中央大通(交差法)
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中央大通(平行法)

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国立病院機構 大阪医療センター(交差法)
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国立病院機構 大阪医療センター(平行法)

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大阪歴史博物館(交差法)
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大阪歴史博物館(平行法)

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NHK大阪放送局六文銭幟(交差法)
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NHK大阪放送局六文銭幟(平行法)

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NHK大阪放送局からの大阪城(交差法)
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NHK大阪放送局からの大阪城(平行法)

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大阪医療センターからの中央大通(交差法)
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大阪医療センターからの中央大通(平行法)

難波宮跡に面した上町筋を横断すると大阪医療センターがあり、この病院で定期的に肝臓の診察を受診している。国立病院機構であるが故、事前予約した日時に嫁さんと共に訪れている。中央大通を挟んだ北側には、以前の記事、「水都の遷移」で訪れた「大阪歴史博物館」「NHK大阪放送局」があり、「大阪府警察本部」が隣接している。中央大通を東方向に直進すれば御堂筋と交差し、私の勤務地である本町に至る。

昨年入院時の大阪医療センターからの夕景
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大阪医療センターからの眺望①(交差法)
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大阪医療センターからの眺望①(平行法)

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大阪医療センターからの眺望②(交差法)
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大阪医療センターからの眺望②(平行法)

大阪医療センターからの後期難波宮の遺跡
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後期難波宮遺跡①(交差法)
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後期難波宮遺跡①(平行法)

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後期難波宮遺跡②(交差法)
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後期難波宮遺跡②(平行法)

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後期難波宮遺跡③(交差法)
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後期難波宮遺跡③(平行法)

大阪歴史博物館に展示された奈良時代前半の後期・難波宮 再現模型
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後期・難波宮 奈良時代前半 再現模型(交差法)
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後期・難波宮 奈良時代前半 再現模型(平行法)

昨年、大阪医療センターに検査入院した際、屋上からの絶景に癒されたことが懐かしく、通院で訪れた際に屋上に上ると、病院建て替え工事で発掘された後期難波宮の遺跡が見えた。12月3日、発掘調査を実施した大阪市教育委員会大阪文化財研究所による現地説明会によれば、後期難波宮の朝堂院西方で、官衙(かんが ※役所)とみられる建物群と重要な施設を囲む区画施設の一部が見つかり、後期難波宮の曹司(実務的な役所)は初めての発見例とのこと。区画施設は「五間門(ごけんもん)区画」と称する一画の南面の塀で、平安宮の豊楽院に当る重要な政務や儀式の場と推測される。8世紀後半は、首都の平城京に対し、後期難波宮は副都の役割を担う二都並立の時代だったと云われ、海に面する難波宮が外交や交易に関する政策の拠点と鑑みれば、政治の平城京、経済の難波宮との推測も成り立ってくる。

大阪平野の変遷(左)/上町台地MAP(右)
大阪平野の変遷 上町台地MAP

太古の昔、大阪は現在の生駒山地の麓まで海であり、真ん中に大きな半島が伸びていた。縄文時代、大阪平野は内海(河内湖)の一部であったが、淀川と大和川から流れ出る土砂と相まって低地が形成された。満潮になると海流が淀川や大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しになる湿地帯の低地では、“波にさらされる土地”は浪速(難波)の地名となり、“河の内”は正に河内の地名となった。難波潟と称する半島状の陸地であった上町台地は当時の大坂、摂津地方で唯一地盤が固く、古くから高台には、政治・文化の中心地として歴史上大きな役割を果たしてきた大阪のシンボル的な建造物が築かれた。

縄文時代の大坂・1700年頃の大坂

大阪は旧石器席代や縄文・弥生時代の遺跡、古代の難波宮跡をはじめ、豊臣家の栄枯盛衰を今に語る大阪城の周辺は、大阪の神髄が色濃く残るエリアとして貴重な文化遺産が多い。大阪市では先人の遺業や由緒ある史跡を顕彰するための施策を進めており、その一つである「歴史の散歩道」は、史跡や古くからの道筋などを結ぶモデルコースである。「歴史の散歩道」として整備されたタウンウォーキングコースは、徳川軍を最後まで苦しめ、大坂夏の陣で壮絶な最期を遂げた真田信繁(幸村)ゆかりの地でもある。再び、「歴史の散歩道」の道標まで戻り、南方向に下って散策することにした。

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歴史の散歩道 案内図②(交差法)
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歴史の散歩道 案内図②(平行法)

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歴史の散歩道 森之宮勝山線①(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線①(平行法)

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歴史の散歩道 森之宮勝山線②(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線②(平行法)

大坂城下には多くの大名屋敷が建てられ、「越中井」は、屋敷の台所の井戸跡と伝わり、1934年(昭和9年)当時地元の越中町内会の人々によりガラシャ夫人の徳を偲んで顕彰碑を建立した。細川越中守忠興の屋敷跡は周囲の越中公園、カトリック玉造教会に位置したとされ、細川ガラシャとして知られる忠興の妻は、明智光秀の娘・玉で、キリシタンとなって洗礼名をガラシャと称した。

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越中井①(交差法)
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越中井①(平行法)

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越中井②(交差法)
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越中井②(平行法)

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越中井 案内図(交差法)
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越中井 案内図(平行法)

1600年(慶長5年)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い、会津征伐に出陣中、石田三成がガラシャを人質にしようとしたが、ガラシャはこれを拒否し、自害を禁じられたキリシタン故、家臣の小笠原秀清に槍で胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。ガラシャの辞世の句を刻んだ記念碑が、井戸の脇に建っている。越中井から200mし先に直進すると、教会らしき建物が見えてきた。

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歴史の散歩道 森之宮勝山線③(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線③(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂①(交差法)
(平行法)
大阪カテドラル聖マリア大聖堂①(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 案内図(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 案内図(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ファチマの聖母と羊飼い(交差法)
(平行法)
大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ファチマの聖母と羊飼い(平行法)

「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」は、1894年(明治27年)「聖アグネス聖堂」として建てられたが、空襲で焼失し、1963年(昭和38年)大聖堂となった。

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア像(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア像(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 高山右近 石像(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 高山右近 石像(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシア 石像(交差法)
(平行法)
大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシア 石像(平行法)

敷地が細川家の屋敷跡であったことから、大聖堂前には細川ガラシャと高山右近の石像がある。右近は、ガラシャの夫・忠興と同じく利休七哲の一人であり、またキリシタン大名でもあり、ガラシャにキリストの教えを施したと云われる。右近は、キリシタン追放令でも信仰を曲げず、遂にはマニラに追放された。

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア大壁画(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア大壁画(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ステンドグラス(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ステンドグラス(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ガラシャ記念碑・右近句碑(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ガラシャ記念碑・右近句碑(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂②(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂②(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂③(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂③(平行法)

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大阪女学院大学(交差法)
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大阪女学院大学(平行法)

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空堀町交差点(交差法)
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空堀町交差点(平行法)

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長堀通①(交差法)
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長堀通①(平行法)

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長堀通②(交差法)
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長堀通②(平行法)

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長堀通③(交差法)
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長堀通③(平行法)

大阪カテドラル聖マリア大聖堂から緩やかな坂を下ると大阪女学院大学があり、更に直進すると空堀町交差点に達する。空堀町は大坂冬の陣後に埋め立てられた南惣構堀の遺構である空堀跡に位置し、長堀通沿いの周辺は現在も起伏に富んだ地形となっている。

豊臣秀吉(左)/豊臣大坂城天守再現CG画(右)
豊臣秀吉豊臣大坂城天守

天才的な軍略家の織田信長ですら、11年間も攻め倦ねた天然の要害であった石山本願寺跡地に、1583年(天生11年)豊臣秀吉は大阪城の築城を開始した。最大6万人の人夫が動員されて石垣が完成し、2年後に天守が築かれた。信長執念の石山の地を秀吉が引き継いだ上町台地の高台は、京と淀川で結ばれ奈良や堺にも近い要衝の地である。西は難波の海に面しており、北は天満川・淀川が自然の堀となり、東も大和川の支流が流れて深田地帯となり、三方を河川・湿地に守られた難攻不落の堅城であったが、南は上町台地の滑らかな丘陵が天王寺方面に続くという地勢が唯一の弱点とされた。

カシミール3Dでの真田丸位置(赤印)
カシミール3Dと真田丸絵図との照合

弱点を補うため、総構えとして上町台地に掘削した南惣構堀は、入念に作られた巨大な空堀であったと云う。構造的には上町台地を横切る形で深く掘り込まれた素掘りの空堀に柵を巡らせた簡素なものだったようだが、その防御力には絶大なものがあった。徳川家康による大坂城攻め(大坂冬の陣)の際、豊臣方の武将・真田信繁が総構えから大きく突出した丸馬出「真田丸」を築城して攻め来る徳川勢を迎え撃った。

真田一族 真田昌幸・真田信繁(幸村)・真田信之
真田昌幸真田信繁(幸村)真田信之


後の信濃国上田城主真田昌幸の次男として生まれた真田信繁は、真田家が織田、北条、徳川、上杉とめまぐるしく主君を変える中で上杉景勝の人質となり、その後は豊臣秀吉の人質となる。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で、信繁は父 昌幸とともに石田三成が率いる西軍につき、兄 信之は徳川家康が率いる東軍につき、真田家は親子兄弟が東西に分かれて戦うことになり、結局、西軍は敗退に伴い、信繁は34歳にして昌幸とともに九度山(和歌山県)に幽閉の身となる。信繁は苦しい窮乏生活で老い、九度山で父の昌幸の病死を見届けた。

真田三代の略系図
六文銭幟 真田三代の略系図

真田三代(左から昌幸・信繁・幸隆)甲冑レプリカ(左)/真田父子犬伏密談図(右は昌幸、相向かいは信之、間で話を聞く信繁)(右)
真田三代甲冑レプリカ(上田市観光会館) 真田父子犬伏密談図 上田市博物館所蔵

1614年(慶長19年11月)大阪冬の陣は、天下を手中にした徳川家康が20万の大軍で豊臣秀吉が築いた大坂城に迫った。守るのは秀吉亡き後、豊臣家の当主となった秀頼と寄せ集め10万の兵では、誰の目にも家康の勝利は明らかに見えたが、大坂城の東南にそれまで存在しなかった砦が、徳川軍の前に忽然と立ちはだかっていた。関ヶ原の合戦に敗れた豊臣方に味方する武将は殆どいない状況下、高野山に追放されていた48歳の信繁が、三途の川の渡し賃を意味する六文銭を旗印に不惜身命の覚悟で馳せ参じたのである。

「真田十勇士」(2016年 松竹作品)で再現された真田丸
「真田十勇士」で再現された真田丸

大坂の陣で真田が入城したと聞いた徳川家康は、持っていた扇子を落として狼狽し、「籠城したのは親(昌幸)か?子(信繁)か?」と家臣に尋ねたと云う逸話があり、昌幸は既に死去し、息子の信繁が入城した旨の返答に家康は安堵したと云う。数に勝る徳川軍は力攻めを試みるが、一度の戦闘で一万を超える兵を失い大敗を喫した。徳川の大軍を僅か5千の兵で翻弄し震え上がらせた砦こそが、難攻不落の出城の要塞「真田丸」である。

NHK大河ドラマ「真田丸」再現CGシーン
NHK大河ドラマ「真田丸」再現CGシーン

信繁は、大坂冬の陣の軍議で積極的な出撃を主張するが、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派に聞きいれられず、辛うじて出丸を築いて戦うことは了承された。優劣明らかな「徳川vs豊臣」「江戸vs大坂」の戦いに臆することなく、不遇に耐えて心の刃を研いでいた信繁は、寄せ集められた浪人達の心を掴み、大坂城の南側の攻勢を想定して真田丸を築いた。徳川方を迎撃し、信繁の武名を天下に知らしめた出丸の謎は、想像を絶する規模、通説を覆す不思議な形、強力な仕掛けなど、戦国最大のミステリーの一つとされている。

大坂冬の陣絵図 ※上が東方向(左)/真田丸合戦布陣図(右)
大坂冬の陣絵図(大坂城近郊絵図) 真田丸合戦布陣図

信繁は、後藤又兵衛基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登という名高い浪人達と共に大坂五人衆を形成して徳川幕府に対抗した。豊臣方は豊臣秀頼が主君であり、その元で家臣や浪人達を纏める総司令官は大野治長である。その傘下に大坂五人衆が位置し、各々浪人達の軍団を率いるという体制となる。豊臣の直臣である治長の弟・大野治房や木村重成も軍団を率いたが、大坂五人衆とは別の指揮系統になり、豊臣家の直臣ではない大坂五人衆は、治長の直属部隊であった。

錦絵「大坂篭城真田幸村勇戦之図」 歌川芳虎 上田市立博物館蔵
「真田幸村勇戦之図」歌川芳虎

翌1615年(慶長20年5月)大坂夏の陣では、道明寺の戦い、天王寺口での戦いに出陣し、徳川方の圧倒的な兵力に対して果敢に攻め込んで本陣の馬印を倒し、家康に自害を覚悟させるほどであった奮戦ぶりが伝えられている。薩摩の島津家久は、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候」と書き残し、信繁を称えている。しかし信繁の奮戦も空しく大坂城は落城し、豊臣滅亡とともに信繁も49歳でその生涯を閉じた。

NHK大河ドラマ「真田丸」真田丸「真田幸村の謀略」(1979年 東映作品)「真田十勇士」(2016年 松竹作品)
「真田太平記」NHKドラマ①(1985年~1986年放映)「真田太平記」NHKドラマ②(1985年~1986年放映)「戦国BASARA」の真田幸村「信長の野望 創造 戦国立志伝」の真田幸村「真田太平記」コミック版(2016年 朝日新聞作品)

信繁による真田十勇士を従えての奮戦ぶりは、軍記物や講談になって広く庶民に伝えられた。派閥に阻まれつつ孤軍奮闘した勇者として、男気に満ちた信繁の生き様は現在も多くの人々を魅了し続け、「戦国最後のヒーロー」として、多くの映画、アニメ、ゲームなどでも様々な信繁像が描かれている。

真田幸村の生涯 真田幸村の生涯②

通説では、信繁が幸村と称されたのは江戸時代の「難波戦記」からで、大坂の陣で徳川を最も困らせた信繁の名を偽名の幸村に差し替えたのが始まりとの説が今も有力とされる。関ケ原以降、真田昌幸との関係を徳川に咎められることを嫌った信幸は、その名を信幸から、信之に改めている。通り字を捨てることで昌幸との関係を表すとも考えられており、大坂城入城後、通り字の「幸」を信之とは逆に使って、信繁は幸村と名乗ることで昌幸との関係、真田の魂を表したという諸説もある。

真田丸復元ジオラマ
真田丸復元ジオラマ

空堀町交差点で長堀通を横断すると真田丸が実在した周辺地である玉造地区に至る。大河ドラマの影響で、本来は閑静な場所でありながら、直近にて来訪者が多くなっている様子が窺える。大坂の陣の古戦場や史跡を巡る幾つかの散策コースも紹介されており、真田丸があった処とされる玉造界隈は、三光神社や心眼寺など参拝者が後を絶たない。玉造は、約5千年前の古墳時代の曲(勾)玉、丸玉と管玉で作られた首飾り、玉の原石、曲玉などを製作する玉造部(たまつくりべ ※大和朝廷の職人集団)の民が暮らす難波・玉作部として「日本書紀」に記されており、大阪市内最古の地名の由来となっている。

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善福寺 どんどろ大師①(交差法)
(平行法)
善福寺 どんどろ大師①(平行法)

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善福寺 どんどろ大師②(交差法)
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善福寺 どんどろ大師②(平行法)

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善福寺~心眼寺坂(交差法)
(平行法)
善福寺~心眼寺坂(平行法)

心眼寺坂の入口地点とも云える場所にある「善福寺(どんどろ大師)」は、“真田丸の戦死者を弔った寺”とも云われる。現在、善福寺のある位置には鏡如庵大師堂(鏡如寺・通称 どんどろ大師:古河藩主の土井利位が深く帰依し、“どいどのの大師”が訛って、“どんどろ大師”と称された)が明治時代に廃寺になり、1909年(明治42年)大阪府豊能郡にあった如意山甘露院善福寺を現在地へ移転して現在に至っている。歌舞伎の「傾城阿波の鳴門」の「どんどろ大師門前の場」での「巡礼姿の娘・おつると母親お弓の愁嘆場」が有名である。

タモリ認定「心眼寺坂」

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心眼寺坂(交差法)
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心眼寺坂(平行法)

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心眼寺①(交差法)
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心眼寺①(平行法)

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心眼寺②(交差法)
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心眼寺②(平行法)

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心眼寺③(交差法)
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心眼寺③(平行法)

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心眼寺④(交差法)
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心眼寺④(平行法)

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心眼寺⑤(交差法)
(平行法)
心眼寺⑤(平行法)

どんどろ大師の先に見える心眼寺坂は、「日本坂道学会」副会長のタモリ認定の良い坂として「ブラタモリ」で紹介された。この坂に差し掛かると一気に人が増え、訪れる人の数で心眼寺の位置が判る。「心眼寺」は、1622年(元和8年)白牟上人が、真田信繁と真田大助の父子の冥福を祈るために創建された。白牟上人は滋野氏の一族であるとの説もあり、創建から寺の定紋は六文銭で、山号は真田山と称する。

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真田丸顕彰碑(交差法)
(平行法)
真田丸顕彰碑(平行法)

真田丸顕彰碑除幕式(2016年2月1日)
真田丸顕彰碑除幕式(2016年2月1日)

心眼寺には真田出丸跡と記されており、心眼寺の前には心眼寺坂を隔てて「大阪明星学園」がある。真田出丸跡と記された古地図「大坂三郷町絵図」や当時の史料、地形などから見て、大阪明星学園の場所に真田丸があったとする説が有力とされている。心眼寺坂周辺の餌差(えさし)町は、城下町の東の出入り口に当り、町名は藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の餌差を置いたことに由来する。大阪明星学園のテニスコート東側にある「真田丸顕彰碑」は、同学園が設置スペースを提供して建立され、今年2016年2月1日に除幕式が行われた。

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興徳寺①(交差法)
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興徳寺①(平行法)

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興徳寺②(交差法)
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興徳寺②(平行法)

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大應寺(交差法)
(平行法)
大應寺(平行法)

(交差法)
円珠庵鎌八幡(交差法)
(平行法)
円珠庵鎌八幡(平行法)

「真田丸顕彰碑」から、高さ10mの准提観音がある「興徳寺」、鉄筋コンクリート造の個性的な本堂の「大應寺」と続く寺院群を通過し、右折して「円珠庵(鎌八幡)」に向かった。境内での撮影は禁止されている円珠庵は、冬の陣で陣を張った信繁が、境内にある榎(えのき)の霊木に鎌を勢いよく打ちつけ「鎌八幡大菩薩」と祈願し、戦勝したと伝えられる。その後の江戸時代初期、真言宗の高僧であり国文学者の契沖(けいちゅう)が、和泉の伏屋家にあった養寿庵を譲り受け、鎌八幡の境内に移築して円珠庵を開き、鎌八幡を深く信仰した。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、円珠庵は「祈祷寺」「悪縁を断つ寺 鎌八幡」として信仰を集めている。

(交差法)
大阪明星学園①(交差法)
(平行法)
大阪明星学園①(平行法)

(交差法)
大阪明星学園②(交差法)
(平行法)
大阪明星学園②(平行法)

円珠庵から北方向へは、前述の大阪明星学園の校門に続く道となる。男子修道会であるマリア会母体のカトリック・ミッションスクールの最上階にはマリア像があり、シンボルとして夜はライトアップされ、暗闇の中に神々しい姿が浮かび上がる。学園がある餌差町交差点付近は玉造で最も高い場所に位置し、大阪城の方向に向かうマリア像は、壮絶な戦場であった真田丸跡地を恰も鎮魂するかの如くに映る。

(交差法)
大阪明星学園③(交差法)
(平行法)
大阪明星学園③(平行法)

(交差法)
清水谷公園(交差法)
(平行法)
清水谷公園(平行法)

(交差法)
天王寺区空清町(交差法)
(平行法)
天王寺区空清町(平行法)

(交差法)
天王寺区空堀町(交差法)
(平行法)
天王寺区空堀町(平行法)

(交差法)
心眼寺境内墓地①(交差法)
(平行法)
心眼寺境内墓地①(平行法)

(交差法)
心眼寺境内墓地②(交差法)
(平行法)
心眼寺境内墓地②(平行法)

(交差法)
天王寺区真田山町①(交差法)
(平行法)
天王寺区真田山町①(平行法)

(交差法)
天王寺区真田山町②(交差法)
(平行法)
天王寺区真田山町②(平行法)

学園周囲を回るとグラウンドの地面が二階建て相当の高さにあり、著しく起伏に富んだ地域にある清水谷公園から、心眼寺坂に戻った交差地点の心眼寺境内墓地は、更に高低差の著しい絶壁の上にあることが判る。真田山小学校と天王寺スポーツセンターに挟まれた坂道はかなりの傾斜がある。

真田丸推定復元図
真田丸復元図 真田丸の構造推定図

2016年7月12日 松江歴史館(松江市)所蔵の史料を再調査したところ、各地の城の絵図を集めた「極秘諸国古城之図」の中から「大坂 真田丸」と表題が付いた絵図を発見した。1690年頃の制作と推測され、既に遺構となり、寺などが立ち並んでいた真田丸跡を描いている。南側の堀に下る傾斜路(スロープ)や、周囲の崖の外側に堀が回り込む惣構堀(そうかまえぼり)構造など、細部も新たに判明した。北側にあった小さな曲輪(くるわ)が真田丸の出城であったことも判明した。松江市民が1953年に市に寄贈した「極秘諸国古城之図」に松江城の図が無かったので、詳細な調査に至らなかったというから驚きである。

松江歴史館が所蔵する「極秘諸国城図」から発見された真田丸(左)/カシミール3Dとの照合(右)
松江歴史館が所蔵する「極秘諸国城図」から発見された真田丸 真田丸絵図とカシミール3Dとの照合
真田丸跡地周辺MAP
真田丸跡地周辺MAP
「極秘諸国古城之図」には寺が3つ並んで記載されており、現在の心眼寺・興徳寺・大應寺と続く寺院群だと考えられ、真田丸に入って行く道は心眼寺坂と考えられる。その道を守るため、すぐ横に小さな曲輪が設けられ、本丸との間には堀で切られ、おそらく大阪明星学園グラウンドの一角を含むその北側に小さな曲輪と堀が作られたと推測する。3D風景図や鳥瞰図を作成するフリーソフト「カシミール3D」による現地図と「極秘諸国古城之図」を照合すると驚く程一致する。更に真田丸跡地周辺の「Google Earth」を見ればリアルに把握できる。

「摂津名所図会」嬪山稲荷社・真田山(左)/「浪花百景 」佐奈田山三光宮(右)
「摂津名所図会」嬪山稲荷社・真田山 「浪花百景 」佐奈田山三光宮

真田山は大坂市中と小橋村の境の宰相山とも称する小高い山で、狐が多いことで御利益があるとして参詣者が増え、1706年(宝永3年)嬪山稲荷社の源流となった。摂津国の名所を絵画と文章で紹介した地誌として、京都の町人・吉野屋為八が、1796年~1798年(寛政8年~10年)に刊行された「摂津名所図会」には「嬪山稲荷祠(ひめやまいなりのやしろ)」と記載され、本殿に仁徳天皇、側に稲荷神を祀ると記され、嬪山稲荷社の境内の下の崖に“狐穴多し”との記述がある。

(交差法)
三光神社⑧(交差法)
(平行法)
三光神社⑧(平行法)

(交差法)
三光神社①(交差法)
(平行法)
三光神社①(平行法)

(交差法)
三光神社②(交差法)
(平行法)
三光神社②(平行法)

嬪山稲荷社は境内にあった末社の一つで天照大神・月読尊(つきよみのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る三光宮を合祀して姫山神社という社号となる。大坂の名所旧跡を三人の浮世絵師が描いて安政年間(1854年~1860年)に出版された「浪花百景」には「佐奈田山三光宮」と記されるなど三光宮の名が知られ、1908年(明治41年)末社から昇格する形で「三光神社」という社号となった。江戸時代前期の摂津名所図会で記載されなかった三光宮は、幕末には大坂を代表する名所になった。1945年6月の大阪空襲で社殿を焼失したが、戦後に再建された。

(交差法)
三光神社 寿老神像(交差法)
(平行法)
三光神社 寿老神像(平行法)

武内宿禰と応神天皇(歌川国芳画)/武内宿禰と神功皇后(歌川国貞画)/紙幣の武内宿禰・寿老人の肖像画/大阪七福神
武内宿禰と応神天皇(歌川国芳画) 武内宿禰と神功皇后(歌川国貞画) 紙幣に描かれた武内宿禰・寿老人の肖像画 大阪七福神めぐり

三光神社の創立は、仁徳天皇から三代後の反正(はんぜい)天皇の御宇と言い伝えられ、4世紀末の創建以後、天皇家の外戚として国を動かす神職を長く務めた武内宿禰の末裔武川氏(八十六代)にして今に至るとされる。三光神社は、大阪七福神めぐりの一つとして寿老人(寿老神)の参拝所である。江戸時代に始まった七福神めぐりを大正時代に復活させたことを機に、神仏分離以後の道教系の神として、5代の天皇に仕えたという古来稀な長寿を得た伝説上の武内宿禰と南極星の化身の寿老神を結びつけている。

(交差法)
三光神社③(交差法)
(平行法)
三光神社③(平行法)

(交差法)
三光神社④(交差法)
(平行法)
三光神社④(平行法)

(交差法)
三光神社⑤(交差法)
(平行法)
三光神社⑤(平行法)

真田幸村の銅像と〝真田の抜け穴〟で全国に名を馳せ、熱心な幸村ファンには聖地となる。銅像の横にあるのが「真田の抜け穴」は、信繁が真田丸から当地までの抜け穴を掘り、更には大坂城まで地下のトンネルで繋がっていたと伝えられて社殿の下に残る。地元の玉造では、嘗て三光神社以外にも7つか8つ抜け穴があり、抜け穴が互いに地下で繋がっていて、信繁は茶臼山や真田山へと穴伝いに現れる神出鬼没の活躍で敵方を撹乱したと云われていた。

(交差法)
三光神社⑥(交差法)
(平行法)
三光神社⑥(平行法)

(交差法)
三光神社⑦(交差法)
(平行法)
三光神社⑦(平行法)

抜け穴は普段は鉄格子の扉で閉ざされているが、3年前から三光神社が開催する「真田まつり」の日に限って抜け穴を公開しており、全国から幸村ファンが詰めかける。穴は7mほど先で崩落のため行き止まりで、その先は謎とされている。穴のある場所は真田丸の中心から数百m離れた地点であり、実際には真田丸の外側に位置している。現在では、冬の陣で籠城する豊臣方を牽制するため、徳川家康が掘らせたとする説が有力となっているとのことだが、幸村ファンのロマンを壊さぬよう“真田の抜け穴”の呼称のままで良い。

(交差法)
玉造駅前(交差法)
(平行法)
玉造駅前(平行法)

(交差法)
玉造筋(交差法)
(平行法)
玉造筋(平行法)

三光神社から玉造駅までは徒歩2~3分程度の距離になる。昨年秋から幸村ゆかりの地をアピールした地域興しの取り組みとして、JR玉造駅西側にある100m程の通称「玉造幸村ロード」では、真田幸村や真田十勇士のパネル人形、真田家の家紋「六文銭」が描かれた真っ赤な幟旗が狭い通りに並べられ、休日ともなれば幸村ファンで賑わう。

(交差法)
大阪城夕景(交差法)
(平行法)
大阪城夕景(平行法)

(交差法)
大阪ビジネスパーク夕景①(交差法)
(平行法)
大阪ビジネスパーク夕景①(平行法)

(交差法)
大阪ビジネスパーク夕景②(交差法)
(平行法)
大阪ビジネスパーク夕景②(平行法)

(交差法)
大阪ビジネスパーク夕景③(交差法)
(平行法)
大阪ビジネスパーク夕景③(平行法)

陽も傾きかけたが、この季節故にまだまだ早い時刻だったので、玉造筋を北方面に直進して森ノ宮まで行き、そこからは大阪城公園内を通って京橋まで歩くことにした。帰り道は上町台地を外れて平地を歩いたのだが、刻々と暮れゆく景色に時間の経過が顕著に映り、あらためて真田丸と大阪城の距離感が感じられた。

(交差法)
若宮八幡大神宮①(交差法)
(平行法)
若宮八幡大神宮①(平行法)

(交差法)
若宮八幡大神宮②(交差法)
(平行法)
若宮八幡大神宮②(平行法)

(交差法)
若宮八幡大神宮③(交差法)
(平行法)
若宮八幡大神宮③(平行法)

我家から徒歩10分程度の場所に木村重成軍と戦った佐竹義宣の本陣跡と伝わる「若宮八幡大神宮」があり、後日、あらためて訪れた。慶長19年(1614)11月26日、徳川方の上杉景勝軍と佐竹義宣軍がそれぞれ鴫野砦、今福砦を攻めた。境内に「由緒之碑」があり、大坂夏の陣(冬の陣とする説もある)で佐竹義宣が境内に陣を張り、戦勝祈願したという記録が「難波戦記」に残る。400年前は、鴫野村と今福村の間に巨大な旧大和川(1704年に改修、現在の大和川は大阪市の南側と堺市の間を流れる)があり、現在でもこの場所から旧今福堤を歩いて30分もあれば大阪城に到達する。

大坂冬の陣 鴫野・今福の戦い(左)/佐竹義宣(中)/大坂冬の陣図屏風 鴫野・今福合戦部分(右)
大坂冬の陣 鴫野・今福の戦い 佐竹義宣 大坂冬の陣図屏風 鴫野・今福の合戦部分

佐竹義宣は、家康の呼びかけで大坂の陣に参戦し、鴫野方面に向かう上杉景勝と同時に豊臣軍の今福砦を攻めることを命じられたが、様子を城内で聞いた木村重成軍により押し戻される。対岸の上杉軍に援軍を求めるが、旧大和川に阻まれて合流できずに苦戦したが、川の中州に出た上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢による銃撃により豊臣軍を撤退した。今福は水田地帯のため堤防上(今福堤や蒲生堤)の戦さとなり、死体で川が真っ赤に染まり、紅葉が流れているようであったと伝わる。佐竹軍側は義宣をかばった渋江政光が被弾して戦死するなど被害も多く、今福・鴫野の戦いは、冬の陣で最大の野戦と云われる。

大坂の陣400年天下一祭 ポスター(左)/イベントイメージ(右)
大坂の陣400年天下一祭ポスター 大坂の陣400年天下一祭のイメージ

大阪市では2014年・2015年に大坂冬の陣(1615年)・大坂夏の陣(1615年)から400年を迎えることを機に、「大坂の陣400年天下一祭」では「真田の赤備え」と称する真っ赤な甲冑を身に纏った様々なイベントが催されている。戦国時代、鎧兜(よろいかぶと)などの具足、旗指物(はたさしもの)、槍(やり)、太刀などあらゆる武具を朱塗りにした部隊「赤備え」は、特に武勇に優れた名将がこれを率いた。鋭い錐のように赤備えが襲いかかると、敵は戦線を維持できずに崩壊したと云われる。

真田の赤備え広島東洋カープ 25年振りの悲願達成
井伊直政の赤備えローマ軍団の基幹戦闘単位・百人隊(ケントゥリア)を率いた指揮官ファーストレギオン 中世の騎士(十字軍)英国の歩兵隊ドイツの撃墜王フォン・リヒトホーフェンの異名レッドバロン(赤い男爵)
シャア・アズナブル    シャア専用MSモノアイ

最初に赤備えを考案したのは甲斐の武田信玄とされ、武田氏の滅亡後にその旧臣を召し抱えた徳川氏譜代の井伊直政は、武田にあやかった井伊の赤備えを編成し、井伊の赤鬼と恐れられた。ローマ軍団の指揮官は真紅のマント、白銀の鎧に赤の盾や旗指物を翻した中世の騎士、英国の歩兵隊、戦闘機を赤色に塗装したドイツの撃墜王フォン・リヒトホーフェンの異名レッドバロン(赤い男爵)、シャア・アズナブル専用モビルスーツを“赤い彗星”と称された設定も同様の発想と想像する。NHKの大河ドラマ「真田丸」が放映された2016年、奇しくも広島東洋カープ“赤ヘル軍団”が躍動し25年振りに悲願のリーグ優勝を果たした。

上町台地

上町台地は、遥か昔は沈まぬ島だったと云う説もあり、縄文時代から生駒山麓に住む大阪先住民には、太陽が沈んでゆく神秘的な聖地と考えられていた。大阪は、明治の頃には“水の都”と呼ばれ、古くは難波津と呼ばれた港が大陸、諸国との交易拠点として栄えた飛鳥時代まで遡る。大阪(大坂)の歴史発祥の要所として聖なるパワーや水運に支えられた上町台地は、政治・行政、信仰、文化の中心地となり、都市の発達の基礎をなす土台となった。大阪の母なる台地には、スピリチュアルな神秘が宿っており、歴史の跡地を巡れば、時代の息吹が感じられる。

歴史巡礼 上町台地 探訪MAP
上町台地探訪MAP
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Comments
 
ブログ拝見しました
波にさらされる土地”は浪速・・・初めて知りました”成程”
信繁が幸村と呼ばれた理由”納得”
真田丸・・昨日で終わりましたが”面白そう”ですね〜”・・・全く見てません

現在の真田丸の画像ありがとうございました。
 
Re: タイトルなし 
KIMさん、毎度です。

今回、写真撮影後にブラタモリをはじめ、
幾つかの歴史番組での現地取材や新説解明
により、完全にのめり込んで記事の作成に
時間が掛かってしまいました。

実は病院の屋上からの遺跡発掘現場の発見も
偶然観に来ていた老夫婦に教えて戴いた
偶然の賜物でした。

関西地区は、日本の歴史を訪ねるには宝庫と
言っても過言ではありません。

大げさに申せば、今回の記事は”やりがい”
がありました。

いつもコメント戴きまして励まされます!
 
MOTOさんへ!! 
おばんです!
今年もわずかになりましたが、色々参考になり感謝でいっぱいです。☆
今年は野球優勝で、一気に広島の町が太陽のように輝きましたねー☆
昨夜はゆず湯に入られて健康を保たれたと思います。私は普通温泉でした。今夜も断酒です。糸魚川で大火事発生してまだ延焼中です。今年は災害の歳でしたねー。泣き)
MOTOさんにおかれましてはお元気でお暮らしされよき大晦日をお迎えさらによき新年を迎えられますことをお祈りいたします。☆!
来年も末永く宜しくお願いいたします。!
 
良いお年を 
荒野鷹虎さん、毎度です!

当ブログ継続中に我が広島東洋カープは、果たして優勝できるのだろうか?
と、長い間 真剣に悩んでおりましたが、今年遂に悲願達成となりました。

しかし....、益々世の中は混迷の一途を辿り、不安が拭えない心理が漂う
世相になっていくような気がしてます。

だからこそ、好きなこと、興味あること、充実できることに没頭できるよう
ブログを楽しんでいけたら、と思っております。

荒野鷹虎さんが良い年を迎えられることを祈願しております。
来年も宜しくお願い申しあげます。
 
 
ちよっと早いですが・・・今年はお世話になりました、来年も宜しくお願いします。
 
Re: タイトルなし 
KIMさん、こちらこそ、今年一年お世話になりました。

野球記事が多かった今年ですが、来年も熱中できたら幸いです。

KIMさんが良いお年を迎えられることを祈願しております。

来年も宜しくお願い申しあげます。_(._.)_
 


 
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MOTO

Author:MOTO
広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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