3Dアクアテラリウム

立体写真による探訪記と恐竜ジオラマのアクアテラリウムと駄文のブログ

 

倭は国の真秀場

Edit Category ウォーキング
休日に仕事の都合で朝の7:00に所用ができ、すぐに用件は完了した。せっかくの早起きで天気も良かったので、嫁さんに電話してこのまま一緒に出掛けることにした。待合せた場所でコーヒーとモーニングサービスの朝食を済ませ、そのまま近鉄大阪線で奈良県桜井市を目指し、近鉄 桜井駅からはJR桜井線(万葉まほろば線)に乗り換え、一駅目の三輪駅で下車した。ここから、山の辺の道のスタート地点と設定し、約15kmの道程を歩くことにした。おそらく自身のウォーキング史上、最長距離になる。

万葉まほろば線 三輪駅(上)/大神神社アクセス路線図(下)
万葉まほろば線 三輪駅

大神神社アクセス路線図 JR万葉まほろば線 三輪駅

平城京の都が置かれた奈良から山沿いに南へ進んで桜井へ至る「山の辺の道」は、古い書物に記された現存する道としては、日本で最古の道と云われる。古代における細かいルートは不明だが、「日本書記」には “山邊道”として山の辺の道が記されており、縄文時代や弥生時代から利用された盆地東辺の道は、桜井市の纒向(まきむく)に誕生したヤマト王権の武器庫が石上神宮に置かれて以降、更に重要な道となったと思われる。中でも、大神神社(おおみわじんじゃ)から石上神宮(いそのかみじんぐう)までは、沿道にパワースポットが連なり、山々を眺めながら神話と伝説の世界に浸れる山の辺の道のハイライトコースとされる。

山の辺の道 南コース

現在は東海自然歩道の内、奈良市から桜井市までのルートを山の辺の道として、案内されており、石上神宮を起点に北の新薬師寺方面へ延びるルートを“山の辺の道(北ルート)”、南の桜井へ延びるルートを“山の辺の道(南ルート)”と呼び分けている。傾向として大神神社を経由して石上神宮まで行く南行きの方が盛んで歩く人も多いとのこと。全体が東海自然歩道となっており、道標も整備され、迷わないように配慮されている。山の辺の道沿いには古刹や初期の大和王権に関わる古い古墳などが所在し、周辺には水田、みかんや柿などの果樹園が広がっている。

(交差法)
万葉まほろば線 三輪駅(交差法)
(平行法)
万葉まほろば線 三輪駅(平行法)

(交差法)
三輪明神参道(交差法)
(平行法)
三輪明神参道(平行法)

(交差法)
大神神社 二の鳥居(交差法)
(平行法)
大神神社 二の鳥居(平行法)

三輪駅から東に向かって踏切を渡ると大神神社参道入口に達する。大神神社は、式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)の一社。三輪明神、三輪神社とも称され、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在するなど、日本最古の神社と云われる。背後の三輪山は、御諸山または神体山とも称され、国を開いた大物主大神(大国天と同一視神説がある)が御魂を留めたという霊山、聖なる山、神の山として崇められており、古くから一木一草に至るまで斧で伐採することを許されない。三輪山神話として記紀(古事記と日本書紀)にも多く登場している。

(交差法)
大神神社 参道①(交差法)
(平行法)
大神神社 参道①(平行法)

(交差法)
大神神社 参道②(交差法)
(平行法)
大神神社 参道②(平行法)

(交差法)
大神神社 参道③(交差法)
(平行法)
大神神社 参道③(平行法)

三輪山そのものをご神体として成立した神社であり、今日でも本殿を持たず、拝殿から三ツ鳥居を通して三輪山に向かって拝む古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズム(自然界のあらゆるものに固有の霊魂があるとする信仰で、宗教の原初的形態の一つ。精霊崇拝。霊魂信仰。)の特色により、三輪山信仰は縄文か弥生の時代にまで遡ると想像されている。三輪山は神々の宿る山を指す神奈備(かんなび)として太古の昔から崇められており、大物主神は蛇神であると考えられ、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。日本国の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方、祟りなす強力な神(霊異なる神)とも云われる。

(交差法)
大神神社 手水舎(交差法)
(平行法)
大神神社 手水舎(平行法)

(交差法)
大神神社 拝殿①(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿①(平行法)

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大神神社 拝殿②(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿②(平行法)

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大神神社 拝殿③(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿③(平行法)

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大神神社 拝殿④(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿④(平行法)

(交差法)
大神神社 神楽「うま酒みわの舞」(交差法)
(平行法)
大神神社 神楽「うま酒みわの舞」(平行法)

訪れたこの日は、第10代 崇神天皇(すじんてんのう ※実在する最古の天皇)の御代に始まる2000年来の伝統を誇る「秋の大神祭」が10:00から行われ、拝殿では、神楽「うま酒みわの舞」を4人の巫女により華麗に奉奏され、秋の収穫を感謝し氏子の安全を祈る伝統の祭典の様子を放送局のカメラも映像に捉えていた。午後からは、氏子区域34ヶ郷の里祭りとして、青年会の太鼓台や地元子供会の子供神輿が賑やかに三輪の町を巡る。午後3時には拝殿前にすべての太鼓台が集合してお祓いを受けた後、神前に供えられた紅白の餅が配られ、豊作・家業繁栄を祝うなど、社頭は大変な賑わいとなるとのこと。

(交差法)
大神神社 巳の神杉(交差法)
(平行法)
大神神社 巳の神杉(平行法)

境内にあるご神木の杉は、江戸時代には「雨降杉」と称され、雨乞いの時に里の人々が集まり杉にお詣りした。いつの時代からか、杉の根本には、三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから「巳の神杉(みのかみすぎ)」と名付けられた。蛇の好物の卵が、参拝者によって酒とともにお供えされている。

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大神神社 生命を表した立体作品(交差法)
(平行法)
大神神社 生命を表した立体作品(平行法)

境内には、「魂」や「生命」などをテーマに独創的な作品を描き続けている田原本町在住の洋画家 柴田貴子さんの作品展が開かれていた。人の姿などをモチーフに空想的、独創的に表現され、気や生命を表した立体作品も並び、境内に不思議な空間が演出されていた。

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大神神社 自動車お祓所 子供神輿と太鼓台(交差法)
(平行法)
大神神社 自動車お祓所 子供神輿と太鼓台(平行法)

大鳥居の東側には、自動車お祓所がある。崇神天皇は支配圏を拡大するため、四方に日本書紀に登場する皇族の将軍である、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人の四道将軍(しどうしょうぐん)を派遣する際、道中の安全を三輪の大神様に祈念して無事に帰った事から、交通の御利益があるとされている。

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大神神社 酒栄講 奉献 樽酒(交差法)
(平行法)
大神神社 酒栄講 奉献 樽酒(平行法)

「三輪」の枕詞が「うまさけ」であり、酒造りは三輪の地が起源と云われる説があり、大神神社には、昭和29年に全国各地の酒造関係者で結成された「酒栄講」から樽酒が奉納されている。毎年11月14日には、杜氏の祖神である「高橋活日命(たかはしいくひのみこと)」を祀る摂社 活日神社に全国の酒造業者・蔵元・杜氏が集まり「醸造祈願祭(酒まつり)」が行われ、境内では振舞酒で多くの参拝客・観光客で賑わう。醸造祈願祭の後には全国中の蔵元へ醸造の御守として「志るしの杉玉」が下賜される。古来の人々は神様のことを“みわ”と読み、酒と神事の深い関わりの証として、大神神社は“おおみわじんじゃ”であり、“神酒=みわ=神”として、“酒・三輪・神”は深い関係であることが伺える。

神楽「うま酒みわの舞」(左)/「志るしの杉玉」下賜下(中)/「日本書紀」崇神天皇条 歌碑(右)
神楽「うま酒みわの舞」「志るしの杉玉」下賜『日本書紀』崇神天皇条

日本書紀によれば、崇神天皇時代、国は疫病が流行し混乱を極めていた。夢で大物主大神様から「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」との神の啓示を賜わり、崇神天皇は高橋活日命(たかはしいくひのみこと)に命じて酒を造らせて神酒を奉納すると疫病は去り国は栄えた。高橋活日命は、「此の神酒は我が神酒ならず倭なす 大物主の醸みし神酒 幾久幾久」(この神酒は私が醸したものではなく、大和の国をおつくりになった大物主神が醸された神酒である。幾世までも久しく栄えませ)と詠んだことで、杜氏の神様として活日神社に祀られ、新酒の醸造への守護を祈願して、酒が国を救ったことが伝えられてきた。

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今西酒造(交差法)
(平行法)
今西酒造(平行法)

大神神社のお膝元にある「今西酒造」は、350年以上続く1660年(万治3年)創業の老舗の酒蔵で、三輪山の別称「三諸」と、酒の神を祀る大神神社の御神木「杉」を合わせた銘柄の「三諸杉」で知られる。先代の急逝に伴い、急遽酒造り未経験で14代当主が務める蔵元は、本業である酒造業に加え、飲食業や宿泊業など幅広い事業を展開しつつ、大神神社の御神体である三輪山の伏流水で醸し、大和地方に古くから伝わる酒造好適米「露葉風」を用いるなど、地元の原料に拘わり、酒米の開発にも力を入れている。味わいの薄いタイプの日本酒が多い中、日本酒愛好家も好む濃醇旨口タイプの酒を信条とするとのこと。

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今西酒造 日本酒アイス(交差法)
(平行法)
今西酒造 日本酒アイス(平行法)

日本酒発祥の地とされる三輪麓にある今西酒造で、「三諸杉 純米吟醸 露葉風」が1.2%入った「日本酒アイス」(350円)を食べた。ソフトクリームというより、ジェラードのような食感で、日本酒の香りと酒粕の味わいを旨く引き出し、一口食べると思わずと唸ってしまうほど美味しい。日本酒が苦手な人も堪能できる逸品で、さっぱりとして風味も良く、口に甘さが残らないが、忘れられない美味しさが印象に残る。試飲を勧められ、午前中の時間帯で、且つまだ先の道程も長いので遠慮したが、少々後悔することになった。

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山の辺の道A 「三輪素麺 そうめん處 森正」大黒天の屋根瓦(交差法)
(平行法)
山の辺の道A 「三輪素麺 そうめん處 森正」大黒天の屋根瓦(平行法)

他にも特産品として、三輪はそうめん発祥の地とも云われる。794年(延暦13年)大神神社の大神主の大神朝臣狭井久佐(おおみわのあそんいくさ)の次男の穀主(たねぬし)が、小麦を石臼で挽いて癒しの湧き水で棒状に練り延ばして糸状にしたものが起源とされ、これを乾燥させた保存食により、飢餓に苦しむ人々を救ったと伝わる。三輪素麺はお伊勢参りの道中で人々を魅了し、手延べ製法播州小豆島島原へと伝わった。大神神社の二ノ鳥居に向かって左側には「そうめん處 森正」がある。大黒天(大国主命と同一視神説がある)の瓦の塀の出入り口となる風格ある門は、近松門左衛門の「冥土の飛脚」の忠兵衛と梅川が一泊した「三輪茶屋」に登場する旅館の門を移築したものである。

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大神神社 摂社 大直禰子神社(若宮社)(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 大直禰子神社(若宮社)(平行法)

「そうめん處 森正」を抜け、大神神社参道から北へ少し入った所にある大神神社の摂社大直禰子神社(若宮社)は、大神神社祭神の大物主命の神孫の大直禰子命(若宮様)を祀る。崇神天皇の勅により、大神神社の祭祀を司った神主であり、三輪氏の始祖として崇敬されている。奈良時代には「大神寺」、明治までは「大御輪寺」と呼ばれ、若宮神と十一面観音像(国宝・現在聖林寺奉安)が併せて祀られていた国重要文化財の古寺で、“若宮さん”の名で親しまれている。

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大神神社 末社 久延彦神社(交差法)
(平行法)
大神神社 末社 久延彦神社(平行法)

その先にある大神神社の末社 久延彦神社(知恵の神様)は、古事記に崩彦(くえびこ)の名で登場する久延毘古命を祀る。久延毘古命は山田のそほど(かかしの古名)として現れ、大神神社のご祭神・大国主神(大物主大神)が国造りを行った際、海の向こうからやってきた少彦名命(すくなひこなのみこと)の名を教えたことから、知識の神として崇敬されている。久延彦神社は、北野天満宮大阪天満宮湯島天神などと並ぶ“学問の神”として、“久延彦さん”の名で親しまれている。

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大神神社 摂社 狭井神社①(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 狭井神社①(平行法)

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大神神社 摂社 狭井神社②(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 狭井神社②(平行法)

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大神神社 摂社 狭井神社③(交差法)
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大神神社 摂社 狭井神社③(平行法)

三輪明神 御神水のペットボトル
三輪明神 御神水

大神神社の祈祷殿の横にある参道には多くの薬用植物が育ち「久すり(くすり)道」と称される。その石段を登り細い道を進むと右手に小さな石の鳥居が現れ、狭井神社が見えてくる。大物主神の荒魂(あらみたま)を祀る摂社である狭井神社は、病気平癒の神様として全国から健康祈願の参拝者が多く訪れる。社名の“狭井”は、神聖な井戸・泉・水源の意味で、拝殿の左横にある井戸は、万病に効くと云う水が湧き出すことから「薬井戸」と称され、三輪山を水源とするこの湧き水は、「御神水」として崇められている。先の道程の水分補給用と併せ、御利益に肖るために神社で販売されているペットボトルの御神水を購入した。

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大神神社 摂社 狭井神社 三島由紀夫「清明」石碑(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 狭井神社 三島由紀夫「清明」石碑(平行法)

狭井神社の石段の手前の池のほとりに、三島由紀夫の石碑がある。輪廻転生をモチーフにした長編大作「豊饒の海」の第二巻となる「奔馬」の取材として、1966年(昭和41年)8月大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれ座禅などを通じて感銘を受け、色紙に「清明」という文字をしたためている。後日「大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります」との感懐を大神神社に寄せた。

自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫(左)/三島由紀夫 割腹自殺 新聞記事 1970年11月25日 朝日新聞夕刊(右)
三島由紀夫 三島由紀夫 割腹自殺 新聞記事 1970年(昭和45年)年11月25日 朝日新聞夕刊

三島由紀夫の長編大作「豊饒の海」
春の雪 - 豊饒の海・第一巻 奔馬 - 豊饒の海・第二巻 暁の寺 - 豊饒の海・第三巻 天人五衰 - 豊饒の海・第四巻

3年後の1969年(昭和44年)には、腐敗した社会を改革するべく右翼思想に命を賭けて昇華する若者を描いた「奔馬(豊饒の海・第二巻)」が刊行され、三輪山信仰と大神神社の神事が書かれている。この「奔馬」のストーリーを自伝の如くなぞるように、三島由紀夫は翌1970年(昭和45年)年11月25日「天人五衰(豊饒の海・第四巻)」の入稿日に自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺した。

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山の辺の道A-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-①(平行法)

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山の辺の道A 「山の辺の道 花もり」(交差法)
(平行法)
山の辺の道A 「山の辺の道 花もり」(平行法)

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山の辺の道A-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-②(平行法)

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山の辺の道A-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-③(平行法)

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山の辺の道A-④(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-④(平行法)

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山の辺の道B 玄賓庵(交差法)
(平行法)
山の辺の道B 玄賓庵(平行法)


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山の辺の道B 玄賓庵前の石灯篭(交差法)
(平行法)
山の辺の道B 玄賓庵前の石灯篭(平行法)

松林の中に荒涼感ある長土塀が続き、隔世感が溢れた古刹の玄賓庵は、本尊は木造不動明王坐像で、国の重要文化財に指定されている。9世紀、桓武天皇・嵯峨天皇から厚い信任を得ていた玄賓僧都(げんぴんそうず)が俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲し、草庵を結んで世を忍んだと云われる。三輪山奥ノ院と称され、世阿弥の作と伝えられる謡曲「三輪」に登場している。以前は山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在の地に移された。

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大神神社 摂社 桧原神社①(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 桧原神社①(平行法)

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大神神社 摂社 桧原神社②(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 桧原神社②(平行法)

檜原台地に建つ桧原神社は、大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され祭祀されていた時代がある。伊勢神宮へ遷された後は神蹟を尊崇し、檜原神社として引き続き天照大神を祀り、元伊勢と称される。中央と左右に脇鳥居がある三つ鳥居とその奥にある神籬(ひもろぎ=神霊が降臨する時の臨時の宿り場所)などが再建されている。

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大神神社 摂社 桧原神社③(交差法)
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大神神社 摂社 桧原神社③(平行法)

周辺には川端康成、東山魁偉などの万葉歌碑が立ち、数多くの歌が詠まれた大和国中が一望できる絶好の場所に位置している。嘗てこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれ、境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と記された大きな石碑が立っている。西側には柿畑や桃畑が広がり、鳥居の間から望む二上山への落日が美しいとされる。

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山の辺の道B-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道B-①(平行法)

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山の辺の道B-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道B-②(平行法)

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山の辺の道B-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道B-③(平行法)

山の辺の道沿いにはみかんや柿などの農作物の無人販売所が散見される。殆どが100円で価格設定され、小銭を投入する箱が置かれている。興味津々ではあるのだが、先の道中の荷物を考えると、購入を躊躇してしまう。果実を頬張りながら歩く人もいるが、食べながら歩くのは慣れてないので少し抵抗がある。あまり重くなくて日持ちするもの、と考え、にんにくと黒豆のみ購入した。

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山の辺の道B-④(交差法)
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山の辺の道B-④(平行法)

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山の辺の道B-⑤(交差法)
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山の辺の道B-⑤(平行法)

このあたりから道幅の変化が激しくなり、幅の狭い道では逆方向に進行する人との距離が近くなり、道を譲ったり譲られたりしながら、擦れ違う際、「こんにちは。」とお互いに挨拶する回数が増えてきた。最初は慣れなくて照れもあったのだが、頻度が増すごとに段々心地良くなっていった。都会生活に於いては味わうことのない開放感と、田舎の道を歩くことを堪能する人に悪い人などいない、という感覚が相乗効果となり、自然と足取りも軽やかになる。

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山の辺の道B 神籬①(交差法)
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山の辺の道B 神籬①(平行法)

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山の辺の道B 神籬②(交差法)
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山の辺の道B 神籬②(平行法)

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山の辺の道B 神籬③(交差法)
(平行法)
山の辺の道B 神籬③(平行法)

景行天皇陵から300m南、山の辺の道沿いの一画の小字(こあざ)名である「ヒモロギ」は、神祭りの施設で神霊の降臨する依代(よりしろ)であった「神籬(ひもろぎ)」に由来すると考えられる。この場所に神籬を設け神霊を迎えて神祭りが執り行われたとされ、一帯は邪馬臺国の有力候補地である纒向遺跡(まきむくいせき)に含まれ、倭笠縫邑と伝承される檜原神社にも近く、古代祭祀を考える上で注目される。

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山の辺の道C-①(交差法)
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山の辺の道C-①(平行法)

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山の辺の道C-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-②(平行法)

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山の辺の道C-③(交差法)
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山の辺の道C-③(平行法)

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山の辺の道C-④(交差法)
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山の辺の道C-④(平行法)

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山の辺の道C-⑤(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑤(平行法)

大和神社から東方の山麓(萱生町近辺から桜井市の箸墓古墳を含む一帯)は、奈良県でも有数の前方後円墳が所在する地域で、大和(おおやまと)古墳群と称されている。この古墳群には4世紀初めの前方後円墳が数多くあり、ヤマト王権成立期に主要な地位を占めた人達の墓と考えられている。奈良盆地東南部は、古来から“倭(やまと)”、“大和(おおやまと)”と称されている地域で、古墳時代前期に属する約40基の前方後円墳・前方後方墳などがあり、邪馬臺国の都の所在地として有力視されている。

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崇神天皇陵①(交差法)
(平行法)
崇神天皇陵①(平行法)

(交差法)
崇神天皇陵②(交差法)
(平行法)
崇神天皇陵②(平行法)

崇神天皇陵は、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の陵墓「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ)」として陵墓に指定され、宮内庁が管理しており、地域の名を取って「行燈山(あんどんやま)古墳」とも呼ばれている。周濠に沿う緑が美しく、展望も良いことから、山の辺の道を歩く人達にとって、絶好の休憩場所となっている。

第10代 崇神天皇(左)/崇神天皇陵 行燈山古墳(右)
第10代 崇神天皇 崇神天皇陵 行燈山古墳

盆地東南部で造られ始めた大規模な古墳は、その後、造墓の中心は盆地北部(佐紀)や西南部(馬見)に移り、更に大阪の東部(古市)や南部(百舌鳥)が中心となり、古墳時代後期には明日香の地へと移る。王権誕生以降、この地域が再び権力の中心地には成り得なかったが、大和古墳群を訪ねると、国家形成へと突き進んだ人々のエネルギーや躍動感によるパワーを授かるかも知れない。しかし、古墳は側面から見れば単なる小高い山にしか見えず、空撮で見ないとよく判らないもので、気付かずに素通りしてしまうものである。

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山の辺の道C-⑥(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑥(平行法)

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山の辺の道C-⑦(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑦(平行法)

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トレイル青垣 山の辺の道模型(交差法)
(平行法)
トレイル青垣 山の辺の道模型(平行法)

崇仁天皇陵と櫛山古墳の間の道を下り、集落の中を進んでいくと、真新しい「トレイル青垣」の建物が目に入る。ここは天理市商工観光課が管理している施設で、館内には、山の辺の道や東海自然歩道・古墳・天理市の文化財などをパネルや模型などで展示説明している。黒塚古墳の石室模型など、天理での出土品なども見る事ができる。ゆったりとした静かなスペースで、疲労を癒す休憩所には恰好の場所で、熱いお茶なども飲む事も出来る。

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長岳寺①(交差法)
(平行法)
長岳寺①(平行法)

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長岳寺②(交差法)
(平行法)
長岳寺②(平行法)

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長岳寺③(交差法)
(平行法)
長岳寺③(平行法)

柳本の東方の釜口山にあり、釜口大師の名で親しまれる「長岳寺」は、山の辺の道のほぼ中間点に位置しており、824年(天長元年)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社の神宮寺として創建された。1349年(貞和5年)建立の四脚門の山門は、昔は梁の付き出した部分の肘に刀傷があり、僧兵が注文した刀に不満を漏らしたことに腹を立てた刀鍛冶が、肘木を切り落として刀の切れ味を証明したことから、別名を「肘切り門」と称する。毎年10月23日から11月30日まで、「極楽地獄図」が本堂に掛けられ、住職による現代風絵解き「閻魔の嘆き」が行われる。

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そば処「千古」(交差法)
(平行法)
そば処「千古」(平行法)

長岳寺の山門前に新しくて和風な建物「そば処 千古」を見つけ、昼食を摂ることにした。道中に殆ど飲食店がなかったこともあり、店内は結構混んでいたが、少々待ってでもという気構えで店に入ることにした。運ばれてきた白糸そばは、細く長く白いお蕎麦で、コシがあって喉ごしも良く、更級蕎麦の様でもあるが、何気に素麺のような感覚でもある。天ぷらも価格の割にボリュームがあって、ツルツルっとした蕎麦の軽さと対照的で相性が良い。待つ時間が足を休める丁度良い休憩にもなり、この店で昼食を食べたのは大正解だった。

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山の辺の道C-⑧(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑧(平行法)

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山の辺の道C-⑨(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑨(平行法)

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山の辺の道C-⑩(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑩(平行法)

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柿本人麻呂歌碑前 休憩所①(交差法)
(平行法)
柿本人麻呂歌碑前 休憩所①(平行法)

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柿本人麻呂歌碑前 休憩所②(交差法)
(平行法)
柿本人麻呂歌碑前 休憩所②(平行法)

山の辺の道は、概ね三輪山、巻向山、龍王山などの山麓を辿る道で、みかん畑があったり、田畑があったり、ビニールハウスがあったりなど、のどかな田舎の風景を満喫出来る。柿本人麻呂の歌碑の前の田んぼの中にウッドデッキの休憩所があり、色鮮やかなコスモス畑に魅せられ、ひと時の癒しの時間を過した。コスモスの美しい光景を観ながら、何故か、農作物が豊富なこの地域の家庭では、御飯、漬物、味噌汁の具など、極めて美味しい献立の朝ごはんに違いない、などの想像が巡った。

(交差法)
中山廃寺(交差法)
(平行法)
中山廃寺(平行法)

緩やかな坂道を上って行くと中山廃寺があり、石畳の道沿いに白いよだれ掛けをした地蔵像が数多く並ぶ。745年(天平17年)行基僧正が開基した「中山中楽寺」は、数多くの堂塔が立ち並ぶ大寺であったが、1576年(天正4年)兵火によって滅亡した。

(交差法)
念仏寺①(交差法)
(平行法)
念仏寺①(平行法)

(交差法)
念仏寺②(交差法)
(平行法)
念仏寺②(平行法)

(交差法)
念仏寺③(交差法)
(平行法)
念仏寺③(平行法)

門前の大きな一休さんの石像が目印の古刹、大塚山寳性院「念佛寺」は、廃寺となった前出の中山寺の一坊であったとされ、行基僧正が中楽寺の十一面観音を参籠された時に土の中に光る1本の朽ち木を彫って本尊とし、寺の名を「念佛寺」としたとのこと。1652年(承応元年)直至上人のときに真言宗から浄土宗に改められ、室町時代の1498年(明応7年)地震で炎上、1550年(天文19年)十市城主・十市遠忠(とおちのとおただ)による再興、1709年(宝永6年)再び焼失を経て、同年沢公により再建された。境内には、高さ2mの坂上田村麿の墓(首塚)、南北朝時代の地蔵石仏、9400基の石塔がある。

(交差法)
波多子塚古墳(交差法)
(平行法)
波多子塚古墳(平行法)

この辺りは、「萱生の千塚」と呼ばれ、山の辺の道沿いの西側に段々畑のような形状の「波多子塚古墳」がある。後円部に細長い前方部が付く特異な形態の古墳とされてきたが、1998年(平成10年)の発掘調査と電磁波による探査の結果、前方部が後の時代に大幅に削られた前方後方墳であることが判明した。後円部の北側に濠の跡が見つかり、葺石(ふきいし)と多量の埴輪も発見され、3世紀後半築造で初期の古墳と推定されている。

(交差法)
萱生環濠集落①(交差法)
(平行法)
萱生環濠集落①(平行法)

(交差法)
萱生環濠集落②(交差法)
(平行法)
萱生環濠集落②(平行法)

(交差法)
萱生環濠集落③(交差法)
(平行法)
萱生環濠集落③(平行法)

(交差法)
竹之内環濠集落(交差法)
(平行法)
竹之内環濠集落(平行法)

(交差法)
山の辺の道D-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道D-①(平行法)

(交差法)
山の辺の道D-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道D-②(平行法)

(交差法)
山の辺の道D-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道D-③(平行法)

南北朝時代から統一まで大和の戦国乱世は長く、自衛策として村の周囲に濠を築いて外敵を防いだ環濠集落が、奈良盆地においては多く見られる。竹之内や萱生の環濠集落には、今も濠の一部と竹藪が残り、昔の面影が残る。奈良盆地の東麓、標高約100mの高さに位置し、盆地内に所在する環濠集落の多くは、鎌倉・室町時代から続くものが多く、その大半が環濠で囲まれていたと考えられ、今でも環濠の痕跡が認められる。

(交差法)
夜都伎神社①(交差法)
(平行法)
夜都伎神社①(平行法)

(交差法)
夜都伎神社②(交差法)
(平行法)
夜都伎神社②(平行法)

乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する夜都伎神社は、夜都伎神社とも書かれ、“やつき”や“やとぎ”とも読まれる。夜都岐は、於都岐(乙木)の誤写とする説もある。夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社一社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられ、本殿は春日造りで桧皮葺きのものが左右に6棟。拝殿が本殿とは雰囲気が違い珍しい茅葺きの神社様式の建物で、鳥居は明治時期の春日若宮から移設された。

(交差法)
山の辺の道E-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道E-①(平行法)

(交差法)
山の辺の道E-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道E-②(平行法)

山の辺の道E-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道E-③(平行法)

(交差法)
天理観光農園「峠の茶屋」①(交差法)
(平行法)
天理観光農園「峠の茶屋」①(平行法)

(交差法)
天理観光農園「峠の茶屋」②(交差法)
(平行法)
天理観光農園「峠の茶屋」②(平行法)

石上神社まで残り2kmの地点にある天理観光農園「峠の茶屋」には、無料休憩所があり、バーベキュー施設や雑貨などの土産物も取り扱い、ギャラリーなどもあり、カフェでは農園で取れた山の幸を使った料理が楽しめたりなど、自然を満喫しながらゆったりとした時間を過ごすことが出来る施設となっている。天理市街地を眺めながら、心地良い風を浴びて少し休憩し、ゴールまであと僅かと迫った石上神宮を目指すため、英気を養うことにした。

(交差法)
山の辺の道F-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-①(平行法)

(交差法)
山の辺の道F-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-②(平行法)

(交差法)
山の辺の道F-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-③(平行法)

(交差法)
山の辺の道F-④(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-④(平行法)

暫しの休憩を終え、天理観光農園「峠の茶屋」を出発して石上神社を示す道を進んだが、山の辺の道で初めてコースを間違えてしまった。まさかこんな急な勾配の道を指す筈がないと思って、平坦で広い道を進んだのだが民家で行止まりとなった。引き返して道標をあらためて見るとどうやら急な勾配の道が正解だったようである。暫く道幅が狭くて険しい道が続くと果樹畑に続く道に変わっていく。あちこちで柿の収穫作業が散見され、この場所にまで運搬用の軽自動車が乗り入れしていることに少々驚いた。

(交差法)
内山永久寺跡(交差法)
(平行法)
内山永久寺跡(平行法)

のどかな果樹畑を抜けると内山永久寺跡を示す説明板がある。内山永久寺は、1114年(永久2年)鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建し、石上神宮の神宮寺として盛時には50以上の堂塔を誇った真言宗の大寺院で、山号を内山、院号を金剛乗院とし、大和では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ大寺とされた。規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には“大和の日光”と称されたが、明治初期の廃仏毀釈で寺領を没収され廃寺となり、堂宇や什宝も散逸した。国内に残存した宝物の大半が、重要文化財・国宝指定を受け、富が如何に巨大であったかを物語る。今では僅かに萱御所跡の碑が往時を偲ぶだけとなる。

(交差法)
石上神宮 蓮池(交差法)
(平行法)
石上神宮 蓮池(平行法)

(交差法)
石上神宮 鶏①(交差法)
(平行法)
石上神宮 鶏①(平行法)

道標によれば、石上神宮も残り僅かの距離となり、暫く進むと蓮池が見えてきた。山辺の道もそろそろ終わり近づき、池の脇から入る小径は豊かな常緑樹に囲まれ、石上神宮へと続く鬱蒼とした杉木立に囲まれた参道を過ぎると、放し飼いにされた鶏の鳴き声が響き渡る。境内に入ると、約30羽の様々な色と柄の鶏に迎えられ、最終目的地の石上神宮にようやく到着したことを実感した。

(交差法)
石上神宮 鶏②(交差法)
(平行法)
石上神宮 鶏②(平行法)

(交差法)
石上神宮 鶏③(交差法)
(平行法)
石上神宮 鶏③(平行法)

石上神宮の鶏は、古事記や日本書紀にも登場し、暁に時を告げる鳥として神聖視されており、鶏は木の枝に止まって眠っても決して落ちないことから、 受験・人気・業績が “落ちない”として、神様のお使いである御神鶏として崇められている。日本神話では常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)とも呼ばれ、天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの際の儀式にも登場している。石上神宮に生息している鶏は、約40年前に奉納されたものが自然繁殖したものとのこと。

(交差法)
石上神宮 牛像(交差法)
(平行法)
石上神宮 牛像(平行法)

境内にある由緒がありそうな牛像は力感に溢れているが、石上神宮の由緒とは関係なく、崇敬者が寄進したもので、おそらく奉納した年度か、寄進者の干支に因んだものとのこと。牛像と云えば藤原道真公と馴染み深い天満宮、天神社を連想するが、この牛像も不思議に石上神宮境内に馴染んでおり、何故か鼻の部分が撫でられて色艶がそこだけ顕著に目立っている。果たして御利益はあったのかな?

(交差法)
石上神宮 楼門①(交差法)
(平行法)
石上神宮 楼門①(平行法)

石上神宮は、式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。日本書紀に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮のみで日本最古設立の神宮となる。崇神天皇7年に飛鳥時代の豪族の物部氏が祭祀し、ヤマト王権の武器庫としての役割も果たしてきた。御祭神の布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は武御雷神(たけみかづちのかみ)が帯びていた神剣に宿る神で、ともに祀られている布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)は死人をも蘇らせる霊力を持つ神とされ、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)はスサノオノミコト(須佐之男命)がヤマタノオロチ(八岐大蛇)を成敗した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿る神として、三柱の神の霊威を称えて主祭神とする。八岐大蛇の尻尾から産まれた三種の神器「草那芸之大刀(くさなぎのつるぎ)」「八尺勾玉(やさかのまがたま)」「八咫鏡 (やたのかがみ)」も奉祀されたと伝えられる。

(交差法)
石上神宮 摂社 出雲建雄神社(交差法)
(平行法)
石上神宮 摂社 出雲建雄神社(平行法)

物部氏が没落した以降では、日本書記では天武天皇が天叢雲剣の祟りが原因で崩御、日本後紀には桓武天皇が十握剣(前出のヤマタノオロチを退治した宝剣)の祟りが原因で崩御したとあり、神剣の祟りは相当なものと認識されていた。戦国時代には織田信長の侵攻に屈するなど、歴史の表舞台からは徐々に消えていくも、氏子を中心とした信仰は脈々と続き、朝廷からも一貫して高い尊崇を受け続け、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。

(交差法)
石上神宮 拝殿(交差法)
(平行法)
石上神宮 拝殿(平行法)

国内最古とされる拝殿は、平安時代後期、当神宮を崇敬する第72代白河天皇が、1081年(永保元年)鎮魂祭のために宮中の神嘉殿(しんかでん)を移したものとされ、七支刀摂社 出雲建雄神社拝殿とともに国宝に指定されている。拝殿の奥の聖地は禁足地とされ、「石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)」と称して2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年(明治4年)禁足地を発掘して出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、御神体が鎮まる最も神聖な霊域とされている。

(交差法)
石上神宮 楼門②(交差法)
(平行法)
石上神宮 楼門②(平行法)

(交差法)
石上神宮 廻廊と神杉(交差法)
(平行法)
石上神宮 廻廊と神杉(平行法)

(交差法)
石上神宮 大鳥居(交差法)
(平行法)
石上神宮 大鳥居(平行法)

楼門は、鎌倉時代末期1318年(文保2年)の建立で、重要文化財に指定されている。明治時代以前は、上層に鐘が吊るされ鐘楼門(しょうろうもん)とも称された。左右には回廊が続き、塗り変えられた朱色が周囲の緑の中で際立つ。参道の入口に建つ現在の大鳥居は、昭和3年の昭和天皇の御大典を記念して建立された。すぐ脇には、「万葉集」の柿本人麻呂の歌碑がある。

(交差法)
天理教本部 神殿(交差法)
(平行法)
天理教本部 神殿(平行法)

(交差法)
天理教本部 南門(交差法)
(平行法)
天理教本部 南門(平行法)

(交差法)
天理教本部 信者詰所(交差法)
(平行法)
天理教本部 信者詰所(平行法)

山辺の道も石上神宮で終り、天理駅までの約2km歩く道の先の広い敷地に天理教の教会本部が見えてきた。巨大な建造物は、神殿中央にある「甘露台(礼拝の目標)」を取り囲むようにして建てられた総桧造りで、本殿ではなく天理教では神殿と称する。鳥居のような形の物は南門と云う。周囲には入母屋造・瓦葺という独特の雰囲気の信者詰所が並んでいる。各々の規模の大きさに驚愕し、市街地は異国に迷い込んだような光景に映る。近鉄「天理駅」に続く天理本通りは、天理教本部への門前町のような賑わいがあった。天理からの帰路では、ある種の目標達成感によって“心地良い疲労”という印象を齎した。
やまとは國のまほろば たたなづく青垣 山こもれる やまとしうるはし

「 倭(やまと)は国の真秀場(まほろば) 畳な付(たたなづ)く青垣(あをかき) 山籠(こも)れる 倭(やまと)し麗(うるは)し 」
(大和の国は最も素晴らしい国だ。幾重にも青々とした垣根の如く 四方を山々に囲まれ 故郷の大和は何と美しい国だろう!)

これは、古事記に伝わる古代伝説上の英雄である倭建命(ヤマトタケルノミコトとも呼ばれる。日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命、諱は小碓命(オウスノミコト)と異なる)が、父である景行天皇の命による西征において隈曾を打ち果たし、続いて東征により蛮族の討伐を無事果たしたが、東国平定から故郷の大和を目指す帰路で病に倒れ、伊勢の能褒野で没する折、遥かなる大和への想いを馳せて詠んだ歌と云われる。他に日本書記では景行天皇が日向で詠んだ望郷歌とする諸説もある。真偽は定かでないが、大和の国、即ち奈良が由緒ある聖域として、日本の歴史の黎明の地とする古代史を偲ばせ、奈良の魅力を言い得た歌の響きを感じる。

故 三船敏郎が倭建命と須佐之男の二役を演じた 「日本誕生」(昭和34年東宝作品)
「日本誕生」(昭和34年東宝作品) 「日本誕生」(昭和34年東宝作品)

奈良盆地の東に連なる山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、古事記や日本書紀にその名が残る山の辺の道沿いは、大和の古代道路として、訪れる人を日本神話の古(いにしえ)が漂うロマンの世界へと誘う。奈良盆地(大和平野)を見渡しながら、桜井市の大神神社から天理市の石上神宮までの約15kmの道程は、のどかな田園風景や山村風景に癒され、魂の洗濯によってペースを乱すこともなかった。スタート地点において見覚えのある御年配の人もゴールで再会するなど、山の辺の道には人々を惹きつける魅力のみならず、直向きに歩かせるパワーに満ちた道なのかも知れない。

三輪山
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Comments
ブログ拝見しました 
ブログ拝見しました

15KMもよく歩けましたね私は絶対無理・・・
秋の風が感じられそうなスナップ、のんびり拝見しました

酒アイス・・・・食べたい
 
 
私は歩いてみるのは無理だわ
凄いな~
足にマメが出来なかった?
ブログの中で、じっくり拝見は楽ちん(^^♪
 
Re: ブログ拝見しました 
KIMさん、毎度です。

歩く前には行けるところまで、と思ってましたが、
最後の石上神宮までの険しい道以外は、特には
厳しいと感じれませんでした。

少しは自信になったのかも....。

日本酒アイスは本当にお勧めです!!
 
Re: タイトルなし 
みゆきんさん、毎度です。

トレッキングシューズは、少々高価なものでも
足にフィットするものを選べば、足の疲労度に
顕著な差が生じます。

その意味では、足のマメは何年も縁がありません。
個人的にメレルのシューズと相性が良いようです。
※ご参照⇒ http://www.merrell.jp/

歩くことに対して益々自信が持てました。
ご年配の方々には負けられないですし....。

 
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広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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