3Dアクアテラリウム

立体写真による探訪記と恐竜ジオラマのアクアテラリウムと駄文のブログ

 

倭は国の真秀場

Edit Category ウォーキング
休日に仕事の都合で朝の7:00に所用ができ、すぐに用件は完了した。せっかくの早起きで天気も良かったので、嫁さんに電話してこのまま一緒に出掛けることにした。待合せた場所でコーヒーとモーニングサービスの朝食を済ませ、そのまま近鉄大阪線で奈良県桜井市を目指し、近鉄 桜井駅からはJR桜井線(万葉まほろば線)に乗り換え、一駅目の三輪駅で下車した。ここから、山の辺の道のスタート地点と設定し、約15kmの道程を歩くことにした。おそらく自身のウォーキング史上、最長距離になる。

万葉まほろば線 三輪駅(上)/大神神社アクセス路線図(下)
万葉まほろば線 三輪駅

大神神社アクセス路線図 JR万葉まほろば線 三輪駅

平城京の都が置かれた奈良から山沿いに南へ進んで桜井へ至る「山の辺の道」は、古い書物に記された現存する道としては、日本で最古の道と云われる。古代における細かいルートは不明だが、「日本書記」には “山邊道”として山の辺の道が記されており、縄文時代や弥生時代から利用された盆地東辺の道は、桜井市の纒向(まきむく)に誕生したヤマト王権の武器庫が石上神宮に置かれて以降、更に重要な道となったと思われる。中でも、大神神社(おおみわじんじゃ)から石上神宮(いそのかみじんぐう)までは、沿道にパワースポットが連なり、山々を眺めながら神話と伝説の世界に浸れる山の辺の道のハイライトコースとされる。

山の辺の道 南コース

現在は東海自然歩道の内、奈良市から桜井市までのルートを山の辺の道として、案内されており、石上神宮を起点に北の新薬師寺方面へ延びるルートを“山の辺の道(北ルート)”、南の桜井へ延びるルートを“山の辺の道(南ルート)”と呼び分けている。傾向として大神神社を経由して石上神宮まで行く南行きの方が盛んで歩く人も多いとのこと。全体が東海自然歩道となっており、道標も整備され、迷わないように配慮されている。山の辺の道沿いには古刹や初期の大和王権に関わる古い古墳などが所在し、周辺には水田、みかんや柿などの果樹園が広がっている。

(交差法)
万葉まほろば線 三輪駅(交差法)
(平行法)
万葉まほろば線 三輪駅(平行法)

(交差法)
三輪明神参道(交差法)
(平行法)
三輪明神参道(平行法)

(交差法)
大神神社 二の鳥居(交差法)
(平行法)
大神神社 二の鳥居(平行法)

三輪駅から東に向かって踏切を渡ると大神神社参道入口に達する。大神神社は、式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)の一社。三輪明神、三輪神社とも称され、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在するなど、日本最古の神社と云われる。背後の三輪山は、御諸山または神体山とも称され、国を開いた大物主大神(大国天と同一視神説がある)が御魂を留めたという霊山、聖なる山、神の山として崇められており、古くから一木一草に至るまで斧で伐採することを許されない。三輪山神話として記紀(古事記と日本書紀)にも多く登場している。

(交差法)
大神神社 参道①(交差法)
(平行法)
大神神社 参道①(平行法)

(交差法)
大神神社 参道②(交差法)
(平行法)
大神神社 参道②(平行法)

(交差法)
大神神社 参道③(交差法)
(平行法)
大神神社 参道③(平行法)

三輪山そのものをご神体として成立した神社であり、今日でも本殿を持たず、拝殿から三ツ鳥居を通して三輪山に向かって拝む古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズム(自然界のあらゆるものに固有の霊魂があるとする信仰で、宗教の原初的形態の一つ。精霊崇拝。霊魂信仰。)の特色により、三輪山信仰は縄文か弥生の時代にまで遡ると想像されている。三輪山は神々の宿る山を指す神奈備(かんなび)として太古の昔から崇められており、大物主神は蛇神であると考えられ、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。日本国の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方、祟りなす強力な神(霊異なる神)とも云われる。

(交差法)
大神神社 手水舎(交差法)
(平行法)
大神神社 手水舎(平行法)

(交差法)
大神神社 拝殿①(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿①(平行法)

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大神神社 拝殿②(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿②(平行法)

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大神神社 拝殿③(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿③(平行法)

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大神神社 拝殿④(交差法)
(平行法)
大神神社 拝殿④(平行法)

(交差法)
大神神社 神楽「うま酒みわの舞」(交差法)
(平行法)
大神神社 神楽「うま酒みわの舞」(平行法)

訪れたこの日は、第10代 崇神天皇(すじんてんのう ※実在する最古の天皇)の御代に始まる2000年来の伝統を誇る「秋の大神祭」が10:00から行われ、拝殿では、神楽「うま酒みわの舞」を4人の巫女により華麗に奉奏され、秋の収穫を感謝し氏子の安全を祈る伝統の祭典の様子を放送局のカメラも映像に捉えていた。午後からは、氏子区域34ヶ郷の里祭りとして、青年会の太鼓台や地元子供会の子供神輿が賑やかに三輪の町を巡る。午後3時には拝殿前にすべての太鼓台が集合してお祓いを受けた後、神前に供えられた紅白の餅が配られ、豊作・家業繁栄を祝うなど、社頭は大変な賑わいとなるとのこと。

(交差法)
大神神社 巳の神杉(交差法)
(平行法)
大神神社 巳の神杉(平行法)

境内にあるご神木の杉は、江戸時代には「雨降杉」と称され、雨乞いの時に里の人々が集まり杉にお詣りした。いつの時代からか、杉の根本には、三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから「巳の神杉(みのかみすぎ)」と名付けられた。蛇の好物の卵が、参拝者によって酒とともにお供えされている。

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大神神社 生命を表した立体作品(交差法)
(平行法)
大神神社 生命を表した立体作品(平行法)

境内には、「魂」や「生命」などをテーマに独創的な作品を描き続けている田原本町在住の洋画家 柴田貴子さんの作品展が開かれていた。人の姿などをモチーフに空想的、独創的に表現され、気や生命を表した立体作品も並び、境内に不思議な空間が演出されていた。

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大神神社 自動車お祓所 子供神輿と太鼓台(交差法)
(平行法)
大神神社 自動車お祓所 子供神輿と太鼓台(平行法)

大鳥居の東側には、自動車お祓所がある。崇神天皇は支配圏を拡大するため、四方に日本書紀に登場する皇族の将軍である、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人の四道将軍(しどうしょうぐん)を派遣する際、道中の安全を三輪の大神様に祈念して無事に帰った事から、交通の御利益があるとされている。

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大神神社 酒栄講 奉献 樽酒(交差法)
(平行法)
大神神社 酒栄講 奉献 樽酒(平行法)

「三輪」の枕詞が「うまさけ」であり、酒造りは三輪の地が起源と云われる説があり、大神神社には、昭和29年に全国各地の酒造関係者で結成された「酒栄講」から樽酒が奉納されている。毎年11月14日には、杜氏の祖神である「高橋活日命(たかはしいくひのみこと)」を祀る摂社 活日神社に全国の酒造業者・蔵元・杜氏が集まり「醸造祈願祭(酒まつり)」が行われ、境内では振舞酒で多くの参拝客・観光客で賑わう。醸造祈願祭の後には全国中の蔵元へ醸造の御守として「志るしの杉玉」が下賜される。古来の人々は神様のことを“みわ”と読み、酒と神事の深い関わりの証として、大神神社は“おおみわじんじゃ”であり、“神酒=みわ=神”として、“酒・三輪・神”は深い関係であることが伺える。

神楽「うま酒みわの舞」(左)/「志るしの杉玉」下賜下(中)/「日本書紀」崇神天皇条 歌碑(右)
神楽「うま酒みわの舞」「志るしの杉玉」下賜『日本書紀』崇神天皇条

日本書紀によれば、崇神天皇時代、国は疫病が流行し混乱を極めていた。夢で大物主大神様から「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」との神の啓示を賜わり、崇神天皇は高橋活日命(たかはしいくひのみこと)に命じて酒を造らせて神酒を奉納すると疫病は去り国は栄えた。高橋活日命は、「此の神酒は我が神酒ならず倭なす 大物主の醸みし神酒 幾久幾久」(この神酒は私が醸したものではなく、大和の国をおつくりになった大物主神が醸された神酒である。幾世までも久しく栄えませ)と詠んだことで、杜氏の神様として活日神社に祀られ、新酒の醸造への守護を祈願して、酒が国を救ったことが伝えられてきた。

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今西酒造(交差法)
(平行法)
今西酒造(平行法)

大神神社のお膝元にある「今西酒造」は、350年以上続く1660年(万治3年)創業の老舗の酒蔵で、三輪山の別称「三諸」と、酒の神を祀る大神神社の御神木「杉」を合わせた銘柄の「三諸杉」で知られる。先代の急逝に伴い、急遽酒造り未経験で14代当主が務める蔵元は、本業である酒造業に加え、飲食業や宿泊業など幅広い事業を展開しつつ、大神神社の御神体である三輪山の伏流水で醸し、大和地方に古くから伝わる酒造好適米「露葉風」を用いるなど、地元の原料に拘わり、酒米の開発にも力を入れている。味わいの薄いタイプの日本酒が多い中、日本酒愛好家も好む濃醇旨口タイプの酒を信条とするとのこと。

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今西酒造 日本酒アイス(交差法)
(平行法)
今西酒造 日本酒アイス(平行法)

日本酒発祥の地とされる三輪麓にある今西酒造で、「三諸杉 純米吟醸 露葉風」が1.2%入った「日本酒アイス」(350円)を食べた。ソフトクリームというより、ジェラードのような食感で、日本酒の香りと酒粕の味わいを旨く引き出し、一口食べると思わずと唸ってしまうほど美味しい。日本酒が苦手な人も堪能できる逸品で、さっぱりとして風味も良く、口に甘さが残らないが、忘れられない美味しさが印象に残る。試飲を勧められ、午前中の時間帯で、且つまだ先の道程も長いので遠慮したが、少々後悔することになった。

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山の辺の道A 「三輪素麺 そうめん處 森正」大黒天の屋根瓦(交差法)
(平行法)
山の辺の道A 「三輪素麺 そうめん處 森正」大黒天の屋根瓦(平行法)

他にも特産品として、三輪はそうめん発祥の地とも云われる。794年(延暦13年)大神神社の大神主の大神朝臣狭井久佐(おおみわのあそんいくさ)の次男の穀主(たねぬし)が、小麦を石臼で挽いて癒しの湧き水で棒状に練り延ばして糸状にしたものが起源とされ、これを乾燥させた保存食により、飢餓に苦しむ人々を救ったと伝わる。三輪素麺はお伊勢参りの道中で人々を魅了し、手延べ製法播州小豆島島原へと伝わった。大神神社の二ノ鳥居に向かって左側には「そうめん處 森正」がある。大黒天(大国主命と同一視神説がある)の瓦の塀の出入り口となる風格ある門は、近松門左衛門の「冥土の飛脚」の忠兵衛と梅川が一泊した「三輪茶屋」に登場する旅館の門を移築したものである。

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大神神社 摂社 大直禰子神社(若宮社)(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 大直禰子神社(若宮社)(平行法)

「そうめん處 森正」を抜け、大神神社参道から北へ少し入った所にある大神神社の摂社大直禰子神社(若宮社)は、大神神社祭神の大物主命の神孫の大直禰子命(若宮様)を祀る。崇神天皇の勅により、大神神社の祭祀を司った神主であり、三輪氏の始祖として崇敬されている。奈良時代には「大神寺」、明治までは「大御輪寺」と呼ばれ、若宮神と十一面観音像(国宝・現在聖林寺奉安)が併せて祀られていた国重要文化財の古寺で、“若宮さん”の名で親しまれている。

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大神神社 末社 久延彦神社(交差法)
(平行法)
大神神社 末社 久延彦神社(平行法)

その先にある大神神社の末社 久延彦神社(知恵の神様)は、古事記に崩彦(くえびこ)の名で登場する久延毘古命を祀る。久延毘古命は山田のそほど(かかしの古名)として現れ、大神神社のご祭神・大国主神(大物主大神)が国造りを行った際、海の向こうからやってきた少彦名命(すくなひこなのみこと)の名を教えたことから、知識の神として崇敬されている。久延彦神社は、北野天満宮大阪天満宮湯島天神などと並ぶ“学問の神”として、“久延彦さん”の名で親しまれている。

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大神神社 摂社 狭井神社①(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 狭井神社①(平行法)

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大神神社 摂社 狭井神社②(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 狭井神社②(平行法)

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大神神社 摂社 狭井神社③(交差法)
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大神神社 摂社 狭井神社③(平行法)

三輪明神 御神水のペットボトル
三輪明神 御神水

大神神社の祈祷殿の横にある参道には多くの薬用植物が育ち「久すり(くすり)道」と称される。その石段を登り細い道を進むと右手に小さな石の鳥居が現れ、狭井神社が見えてくる。大物主神の荒魂(あらみたま)を祀る摂社である狭井神社は、病気平癒の神様として全国から健康祈願の参拝者が多く訪れる。社名の“狭井”は、神聖な井戸・泉・水源の意味で、拝殿の左横にある井戸は、万病に効くと云う水が湧き出すことから「薬井戸」と称され、三輪山を水源とするこの湧き水は、「御神水」として崇められている。先の道程の水分補給用と併せ、御利益に肖るために神社で販売されているペットボトルの御神水を購入した。

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大神神社 摂社 狭井神社 三島由紀夫「清明」石碑(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 狭井神社 三島由紀夫「清明」石碑(平行法)

狭井神社の石段の手前の池のほとりに、三島由紀夫の石碑がある。輪廻転生をモチーフにした長編大作「豊饒の海」の第二巻となる「奔馬」の取材として、1966年(昭和41年)8月大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれ座禅などを通じて感銘を受け、色紙に「清明」という文字をしたためている。後日「大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります」との感懐を大神神社に寄せた。

自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫(左)/三島由紀夫 割腹自殺 新聞記事 1970年11月25日 朝日新聞夕刊(右)
三島由紀夫 三島由紀夫 割腹自殺 新聞記事 1970年(昭和45年)年11月25日 朝日新聞夕刊

三島由紀夫の長編大作「豊饒の海」
春の雪 - 豊饒の海・第一巻 奔馬 - 豊饒の海・第二巻 暁の寺 - 豊饒の海・第三巻 天人五衰 - 豊饒の海・第四巻

3年後の1969年(昭和44年)には、腐敗した社会を改革するべく右翼思想に命を賭けて昇華する若者を描いた「奔馬(豊饒の海・第二巻)」が刊行され、三輪山信仰と大神神社の神事が書かれている。この「奔馬」のストーリーを自伝の如くなぞるように、三島由紀夫は翌1970年(昭和45年)年11月25日「天人五衰(豊饒の海・第四巻)」の入稿日に自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺した。

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山の辺の道A-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-①(平行法)

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山の辺の道A 「山の辺の道 花もり」(交差法)
(平行法)
山の辺の道A 「山の辺の道 花もり」(平行法)

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山の辺の道A-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-②(平行法)

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山の辺の道A-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-③(平行法)

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山の辺の道A-④(交差法)
(平行法)
山の辺の道A-④(平行法)

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山の辺の道B 玄賓庵(交差法)
(平行法)
山の辺の道B 玄賓庵(平行法)


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山の辺の道B 玄賓庵前の石灯篭(交差法)
(平行法)
山の辺の道B 玄賓庵前の石灯篭(平行法)

松林の中に荒涼感ある長土塀が続き、隔世感が溢れた古刹の玄賓庵は、本尊は木造不動明王坐像で、国の重要文化財に指定されている。9世紀、桓武天皇・嵯峨天皇から厚い信任を得ていた玄賓僧都(げんぴんそうず)が俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲し、草庵を結んで世を忍んだと云われる。三輪山奥ノ院と称され、世阿弥の作と伝えられる謡曲「三輪」に登場している。以前は山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在の地に移された。

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大神神社 摂社 桧原神社①(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 桧原神社①(平行法)

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大神神社 摂社 桧原神社②(交差法)
(平行法)
大神神社 摂社 桧原神社②(平行法)

檜原台地に建つ桧原神社は、大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され祭祀されていた時代がある。伊勢神宮へ遷された後は神蹟を尊崇し、檜原神社として引き続き天照大神を祀り、元伊勢と称される。中央と左右に脇鳥居がある三つ鳥居とその奥にある神籬(ひもろぎ=神霊が降臨する時の臨時の宿り場所)などが再建されている。

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大神神社 摂社 桧原神社③(交差法)
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大神神社 摂社 桧原神社③(平行法)

周辺には川端康成、東山魁偉などの万葉歌碑が立ち、数多くの歌が詠まれた大和国中が一望できる絶好の場所に位置している。嘗てこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれ、境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と記された大きな石碑が立っている。西側には柿畑や桃畑が広がり、鳥居の間から望む二上山への落日が美しいとされる。

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山の辺の道B-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道B-①(平行法)

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山の辺の道B-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道B-②(平行法)

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山の辺の道B-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道B-③(平行法)

山の辺の道沿いにはみかんや柿などの農作物の無人販売所が散見される。殆どが100円で価格設定され、小銭を投入する箱が置かれている。興味津々ではあるのだが、先の道中の荷物を考えると、購入を躊躇してしまう。果実を頬張りながら歩く人もいるが、食べながら歩くのは慣れてないので少し抵抗がある。あまり重くなくて日持ちするもの、と考え、にんにくと黒豆のみ購入した。

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山の辺の道B-④(交差法)
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山の辺の道B-④(平行法)

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山の辺の道B-⑤(交差法)
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山の辺の道B-⑤(平行法)

このあたりから道幅の変化が激しくなり、幅の狭い道では逆方向に進行する人との距離が近くなり、道を譲ったり譲られたりしながら、擦れ違う際、「こんにちは。」とお互いに挨拶する回数が増えてきた。最初は慣れなくて照れもあったのだが、頻度が増すごとに段々心地良くなっていった。都会生活に於いては味わうことのない開放感と、田舎の道を歩くことを堪能する人に悪い人などいない、という感覚が相乗効果となり、自然と足取りも軽やかになる。

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山の辺の道B 神籬①(交差法)
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山の辺の道B 神籬①(平行法)

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山の辺の道B 神籬②(交差法)
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山の辺の道B 神籬②(平行法)

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山の辺の道B 神籬③(交差法)
(平行法)
山の辺の道B 神籬③(平行法)

景行天皇陵から300m南、山の辺の道沿いの一画の小字(こあざ)名である「ヒモロギ」は、神祭りの施設で神霊の降臨する依代(よりしろ)であった「神籬(ひもろぎ)」に由来すると考えられる。この場所に神籬を設け神霊を迎えて神祭りが執り行われたとされ、一帯は邪馬臺国の有力候補地である纒向遺跡(まきむくいせき)に含まれ、倭笠縫邑と伝承される檜原神社にも近く、古代祭祀を考える上で注目される。

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山の辺の道C-①(交差法)
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山の辺の道C-①(平行法)

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山の辺の道C-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-②(平行法)

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山の辺の道C-③(交差法)
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山の辺の道C-③(平行法)

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山の辺の道C-④(交差法)
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山の辺の道C-④(平行法)

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山の辺の道C-⑤(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑤(平行法)

大和神社から東方の山麓(萱生町近辺から桜井市の箸墓古墳を含む一帯)は、奈良県でも有数の前方後円墳が所在する地域で、大和(おおやまと)古墳群と称されている。この古墳群には4世紀初めの前方後円墳が数多くあり、ヤマト王権成立期に主要な地位を占めた人達の墓と考えられている。奈良盆地東南部は、古来から“倭(やまと)”、“大和(おおやまと)”と称されている地域で、古墳時代前期に属する約40基の前方後円墳・前方後方墳などがあり、邪馬臺国の都の所在地として有力視されている。

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崇神天皇陵①(交差法)
(平行法)
崇神天皇陵①(平行法)

(交差法)
崇神天皇陵②(交差法)
(平行法)
崇神天皇陵②(平行法)

崇神天皇陵は、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の陵墓「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ)」として陵墓に指定され、宮内庁が管理しており、地域の名を取って「行燈山(あんどんやま)古墳」とも呼ばれている。周濠に沿う緑が美しく、展望も良いことから、山の辺の道を歩く人達にとって、絶好の休憩場所となっている。

第10代 崇神天皇(左)/崇神天皇陵 行燈山古墳(右)
第10代 崇神天皇 崇神天皇陵 行燈山古墳

盆地東南部で造られ始めた大規模な古墳は、その後、造墓の中心は盆地北部(佐紀)や西南部(馬見)に移り、更に大阪の東部(古市)や南部(百舌鳥)が中心となり、古墳時代後期には明日香の地へと移る。王権誕生以降、この地域が再び権力の中心地には成り得なかったが、大和古墳群を訪ねると、国家形成へと突き進んだ人々のエネルギーや躍動感によるパワーを授かるかも知れない。しかし、古墳は側面から見れば単なる小高い山にしか見えず、空撮で見ないとよく判らないもので、気付かずに素通りしてしまうものである。

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山の辺の道C-⑥(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑥(平行法)

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山の辺の道C-⑦(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑦(平行法)

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トレイル青垣 山の辺の道模型(交差法)
(平行法)
トレイル青垣 山の辺の道模型(平行法)

崇仁天皇陵と櫛山古墳の間の道を下り、集落の中を進んでいくと、真新しい「トレイル青垣」の建物が目に入る。ここは天理市商工観光課が管理している施設で、館内には、山の辺の道や東海自然歩道・古墳・天理市の文化財などをパネルや模型などで展示説明している。黒塚古墳の石室模型など、天理での出土品なども見る事ができる。ゆったりとした静かなスペースで、疲労を癒す休憩所には恰好の場所で、熱いお茶なども飲む事も出来る。

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長岳寺①(交差法)
(平行法)
長岳寺①(平行法)

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長岳寺②(交差法)
(平行法)
長岳寺②(平行法)

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長岳寺③(交差法)
(平行法)
長岳寺③(平行法)

柳本の東方の釜口山にあり、釜口大師の名で親しまれる「長岳寺」は、山の辺の道のほぼ中間点に位置しており、824年(天長元年)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社の神宮寺として創建された。1349年(貞和5年)建立の四脚門の山門は、昔は梁の付き出した部分の肘に刀傷があり、僧兵が注文した刀に不満を漏らしたことに腹を立てた刀鍛冶が、肘木を切り落として刀の切れ味を証明したことから、別名を「肘切り門」と称する。毎年10月23日から11月30日まで、「極楽地獄図」が本堂に掛けられ、住職による現代風絵解き「閻魔の嘆き」が行われる。

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そば処「千古」(交差法)
(平行法)
そば処「千古」(平行法)

長岳寺の山門前に新しくて和風な建物「そば処 千古」を見つけ、昼食を摂ることにした。道中に殆ど飲食店がなかったこともあり、店内は結構混んでいたが、少々待ってでもという気構えで店に入ることにした。運ばれてきた白糸そばは、細く長く白いお蕎麦で、コシがあって喉ごしも良く、更級蕎麦の様でもあるが、何気に素麺のような感覚でもある。天ぷらも価格の割にボリュームがあって、ツルツルっとした蕎麦の軽さと対照的で相性が良い。待つ時間が足を休める丁度良い休憩にもなり、この店で昼食を食べたのは大正解だった。

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山の辺の道C-⑧(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑧(平行法)

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山の辺の道C-⑨(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑨(平行法)

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山の辺の道C-⑩(交差法)
(平行法)
山の辺の道C-⑩(平行法)

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柿本人麻呂歌碑前 休憩所①(交差法)
(平行法)
柿本人麻呂歌碑前 休憩所①(平行法)

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柿本人麻呂歌碑前 休憩所②(交差法)
(平行法)
柿本人麻呂歌碑前 休憩所②(平行法)

山の辺の道は、概ね三輪山、巻向山、龍王山などの山麓を辿る道で、みかん畑があったり、田畑があったり、ビニールハウスがあったりなど、のどかな田舎の風景を満喫出来る。柿本人麻呂の歌碑の前の田んぼの中にウッドデッキの休憩所があり、色鮮やかなコスモス畑に魅せられ、ひと時の癒しの時間を過した。コスモスの美しい光景を観ながら、何故か、農作物が豊富なこの地域の家庭では、御飯、漬物、味噌汁の具など、極めて美味しい献立の朝ごはんに違いない、などの想像が巡った。

(交差法)
中山廃寺(交差法)
(平行法)
中山廃寺(平行法)

緩やかな坂道を上って行くと中山廃寺があり、石畳の道沿いに白いよだれ掛けをした地蔵像が数多く並ぶ。745年(天平17年)行基僧正が開基した「中山中楽寺」は、数多くの堂塔が立ち並ぶ大寺であったが、1576年(天正4年)兵火によって滅亡した。

(交差法)
念仏寺①(交差法)
(平行法)
念仏寺①(平行法)

(交差法)
念仏寺②(交差法)
(平行法)
念仏寺②(平行法)

(交差法)
念仏寺③(交差法)
(平行法)
念仏寺③(平行法)

門前の大きな一休さんの石像が目印の古刹、大塚山寳性院「念佛寺」は、廃寺となった前出の中山寺の一坊であったとされ、行基僧正が中楽寺の十一面観音を参籠された時に土の中に光る1本の朽ち木を彫って本尊とし、寺の名を「念佛寺」としたとのこと。1652年(承応元年)直至上人のときに真言宗から浄土宗に改められ、室町時代の1498年(明応7年)地震で炎上、1550年(天文19年)十市城主・十市遠忠(とおちのとおただ)による再興、1709年(宝永6年)再び焼失を経て、同年沢公により再建された。境内には、高さ2mの坂上田村麿の墓(首塚)、南北朝時代の地蔵石仏、9400基の石塔がある。

(交差法)
波多子塚古墳(交差法)
(平行法)
波多子塚古墳(平行法)

この辺りは、「萱生の千塚」と呼ばれ、山の辺の道沿いの西側に段々畑のような形状の「波多子塚古墳」がある。後円部に細長い前方部が付く特異な形態の古墳とされてきたが、1998年(平成10年)の発掘調査と電磁波による探査の結果、前方部が後の時代に大幅に削られた前方後方墳であることが判明した。後円部の北側に濠の跡が見つかり、葺石(ふきいし)と多量の埴輪も発見され、3世紀後半築造で初期の古墳と推定されている。

(交差法)
萱生環濠集落①(交差法)
(平行法)
萱生環濠集落①(平行法)

(交差法)
萱生環濠集落②(交差法)
(平行法)
萱生環濠集落②(平行法)

(交差法)
萱生環濠集落③(交差法)
(平行法)
萱生環濠集落③(平行法)

(交差法)
竹之内環濠集落(交差法)
(平行法)
竹之内環濠集落(平行法)

(交差法)
山の辺の道D-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道D-①(平行法)

(交差法)
山の辺の道D-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道D-②(平行法)

(交差法)
山の辺の道D-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道D-③(平行法)

南北朝時代から統一まで大和の戦国乱世は長く、自衛策として村の周囲に濠を築いて外敵を防いだ環濠集落が、奈良盆地においては多く見られる。竹之内や萱生の環濠集落には、今も濠の一部と竹藪が残り、昔の面影が残る。奈良盆地の東麓、標高約100mの高さに位置し、盆地内に所在する環濠集落の多くは、鎌倉・室町時代から続くものが多く、その大半が環濠で囲まれていたと考えられ、今でも環濠の痕跡が認められる。

(交差法)
夜都伎神社①(交差法)
(平行法)
夜都伎神社①(平行法)

(交差法)
夜都伎神社②(交差法)
(平行法)
夜都伎神社②(平行法)

乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する夜都伎神社は、夜都伎神社とも書かれ、“やつき”や“やとぎ”とも読まれる。夜都岐は、於都岐(乙木)の誤写とする説もある。夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社一社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられ、本殿は春日造りで桧皮葺きのものが左右に6棟。拝殿が本殿とは雰囲気が違い珍しい茅葺きの神社様式の建物で、鳥居は明治時期の春日若宮から移設された。

(交差法)
山の辺の道E-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道E-①(平行法)

(交差法)
山の辺の道E-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道E-②(平行法)

山の辺の道E-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道E-③(平行法)

(交差法)
天理観光農園「峠の茶屋」①(交差法)
(平行法)
天理観光農園「峠の茶屋」①(平行法)

(交差法)
天理観光農園「峠の茶屋」②(交差法)
(平行法)
天理観光農園「峠の茶屋」②(平行法)

石上神社まで残り2kmの地点にある天理観光農園「峠の茶屋」には、無料休憩所があり、バーベキュー施設や雑貨などの土産物も取り扱い、ギャラリーなどもあり、カフェでは農園で取れた山の幸を使った料理が楽しめたりなど、自然を満喫しながらゆったりとした時間を過ごすことが出来る施設となっている。天理市街地を眺めながら、心地良い風を浴びて少し休憩し、ゴールまであと僅かと迫った石上神宮を目指すため、英気を養うことにした。

(交差法)
山の辺の道F-①(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-①(平行法)

(交差法)
山の辺の道F-②(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-②(平行法)

(交差法)
山の辺の道F-③(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-③(平行法)

(交差法)
山の辺の道F-④(交差法)
(平行法)
山の辺の道F-④(平行法)

暫しの休憩を終え、天理観光農園「峠の茶屋」を出発して石上神社を示す道を進んだが、山の辺の道で初めてコースを間違えてしまった。まさかこんな急な勾配の道を指す筈がないと思って、平坦で広い道を進んだのだが民家で行止まりとなった。引き返して道標をあらためて見るとどうやら急な勾配の道が正解だったようである。暫く道幅が狭くて険しい道が続くと果樹畑に続く道に変わっていく。あちこちで柿の収穫作業が散見され、この場所にまで運搬用の軽自動車が乗り入れしていることに少々驚いた。

(交差法)
内山永久寺跡(交差法)
(平行法)
内山永久寺跡(平行法)

のどかな果樹畑を抜けると内山永久寺跡を示す説明板がある。内山永久寺は、1114年(永久2年)鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建し、石上神宮の神宮寺として盛時には50以上の堂塔を誇った真言宗の大寺院で、山号を内山、院号を金剛乗院とし、大和では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ大寺とされた。規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には“大和の日光”と称されたが、明治初期の廃仏毀釈で寺領を没収され廃寺となり、堂宇や什宝も散逸した。国内に残存した宝物の大半が、重要文化財・国宝指定を受け、富が如何に巨大であったかを物語る。今では僅かに萱御所跡の碑が往時を偲ぶだけとなる。

(交差法)
石上神宮 蓮池(交差法)
(平行法)
石上神宮 蓮池(平行法)

(交差法)
石上神宮 鶏①(交差法)
(平行法)
石上神宮 鶏①(平行法)

道標によれば、石上神宮も残り僅かの距離となり、暫く進むと蓮池が見えてきた。山辺の道もそろそろ終わり近づき、池の脇から入る小径は豊かな常緑樹に囲まれ、石上神宮へと続く鬱蒼とした杉木立に囲まれた参道を過ぎると、放し飼いにされた鶏の鳴き声が響き渡る。境内に入ると、約30羽の様々な色と柄の鶏に迎えられ、最終目的地の石上神宮にようやく到着したことを実感した。

(交差法)
石上神宮 鶏②(交差法)
(平行法)
石上神宮 鶏②(平行法)

(交差法)
石上神宮 鶏③(交差法)
(平行法)
石上神宮 鶏③(平行法)

石上神宮の鶏は、古事記や日本書紀にも登場し、暁に時を告げる鳥として神聖視されており、鶏は木の枝に止まって眠っても決して落ちないことから、 受験・人気・業績が “落ちない”として、神様のお使いである御神鶏として崇められている。日本神話では常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)とも呼ばれ、天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの際の儀式にも登場している。石上神宮に生息している鶏は、約40年前に奉納されたものが自然繁殖したものとのこと。

(交差法)
石上神宮 牛像(交差法)
(平行法)
石上神宮 牛像(平行法)

境内にある由緒がありそうな牛像は力感に溢れているが、石上神宮の由緒とは関係なく、崇敬者が寄進したもので、おそらく奉納した年度か、寄進者の干支に因んだものとのこと。牛像と云えば藤原道真公と馴染み深い天満宮、天神社を連想するが、この牛像も不思議に石上神宮境内に馴染んでおり、何故か鼻の部分が撫でられて色艶がそこだけ顕著に目立っている。果たして御利益はあったのかな?

(交差法)
石上神宮 楼門①(交差法)
(平行法)
石上神宮 楼門①(平行法)

石上神宮は、式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。日本書紀に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮のみで日本最古設立の神宮となる。崇神天皇7年に飛鳥時代の豪族の物部氏が祭祀し、ヤマト王権の武器庫としての役割も果たしてきた。御祭神の布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は武御雷神(たけみかづちのかみ)が帯びていた神剣に宿る神で、ともに祀られている布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)は死人をも蘇らせる霊力を持つ神とされ、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)はスサノオノミコト(須佐之男命)がヤマタノオロチ(八岐大蛇)を成敗した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿る神として、三柱の神の霊威を称えて主祭神とする。八岐大蛇の尻尾から産まれた三種の神器「草那芸之大刀(くさなぎのつるぎ)」「八尺勾玉(やさかのまがたま)」「八咫鏡 (やたのかがみ)」も奉祀されたと伝えられる。

(交差法)
石上神宮 摂社 出雲建雄神社(交差法)
(平行法)
石上神宮 摂社 出雲建雄神社(平行法)

物部氏が没落した以降では、日本書記では天武天皇が天叢雲剣の祟りが原因で崩御、日本後紀には桓武天皇が十握剣(前出のヤマタノオロチを退治した宝剣)の祟りが原因で崩御したとあり、神剣の祟りは相当なものと認識されていた。戦国時代には織田信長の侵攻に屈するなど、歴史の表舞台からは徐々に消えていくも、氏子を中心とした信仰は脈々と続き、朝廷からも一貫して高い尊崇を受け続け、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。

(交差法)
石上神宮 拝殿(交差法)
(平行法)
石上神宮 拝殿(平行法)

国内最古とされる拝殿は、平安時代後期、当神宮を崇敬する第72代白河天皇が、1081年(永保元年)鎮魂祭のために宮中の神嘉殿(しんかでん)を移したものとされ、七支刀摂社 出雲建雄神社拝殿とともに国宝に指定されている。拝殿の奥の聖地は禁足地とされ、「石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)」と称して2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年(明治4年)禁足地を発掘して出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、御神体が鎮まる最も神聖な霊域とされている。

(交差法)
石上神宮 楼門②(交差法)
(平行法)
石上神宮 楼門②(平行法)

(交差法)
石上神宮 廻廊と神杉(交差法)
(平行法)
石上神宮 廻廊と神杉(平行法)

(交差法)
石上神宮 大鳥居(交差法)
(平行法)
石上神宮 大鳥居(平行法)

楼門は、鎌倉時代末期1318年(文保2年)の建立で、重要文化財に指定されている。明治時代以前は、上層に鐘が吊るされ鐘楼門(しょうろうもん)とも称された。左右には回廊が続き、塗り変えられた朱色が周囲の緑の中で際立つ。参道の入口に建つ現在の大鳥居は、昭和3年の昭和天皇の御大典を記念して建立された。すぐ脇には、「万葉集」の柿本人麻呂の歌碑がある。

(交差法)
天理教本部 神殿(交差法)
(平行法)
天理教本部 神殿(平行法)

(交差法)
天理教本部 南門(交差法)
(平行法)
天理教本部 南門(平行法)

(交差法)
天理教本部 信者詰所(交差法)
(平行法)
天理教本部 信者詰所(平行法)

山辺の道も石上神宮で終り、天理駅までの約2km歩く道の先の広い敷地に天理教の教会本部が見えてきた。巨大な建造物は、神殿中央にある「甘露台(礼拝の目標)」を取り囲むようにして建てられた総桧造りで、本殿ではなく天理教では神殿と称する。鳥居のような形の物は南門と云う。周囲には入母屋造・瓦葺という独特の雰囲気の信者詰所が並んでいる。各々の規模の大きさに驚愕し、市街地は異国に迷い込んだような光景に映る。近鉄「天理駅」に続く天理本通りは、天理教本部への門前町のような賑わいがあった。天理からの帰路では、ある種の目標達成感によって“心地良い疲労”という印象を齎した。
やまとは國のまほろば たたなづく青垣 山こもれる やまとしうるはし

「 倭(やまと)は国の真秀場(まほろば) 畳な付(たたなづ)く青垣(あをかき) 山籠(こも)れる 倭(やまと)し麗(うるは)し 」
(大和の国は最も素晴らしい国だ。幾重にも青々とした垣根の如く 四方を山々に囲まれ 故郷の大和は何と美しい国だろう!)

これは、古事記に伝わる古代伝説上の英雄である倭建命(ヤマトタケルノミコトとも呼ばれる。日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命、諱は小碓命(オウスノミコト)と異なる)が、父である景行天皇の命による西征において隈曾を打ち果たし、続いて東征により蛮族の討伐を無事果たしたが、東国平定から故郷の大和を目指す帰路で病に倒れ、伊勢の能褒野で没する折、遥かなる大和への想いを馳せて詠んだ歌と云われる。他に日本書記では景行天皇が日向で詠んだ望郷歌とする諸説もある。真偽は定かでないが、大和の国、即ち奈良が由緒ある聖域として、日本の歴史の黎明の地とする古代史を偲ばせ、奈良の魅力を言い得た歌の響きを感じる。

故 三船敏郎が倭建命と須佐之男の二役を演じた 「日本誕生」(昭和34年東宝作品)
「日本誕生」(昭和34年東宝作品) 「日本誕生」(昭和34年東宝作品)

奈良盆地の東に連なる山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、古事記や日本書紀にその名が残る山の辺の道沿いは、大和の古代道路として、訪れる人を日本神話の古(いにしえ)が漂うロマンの世界へと誘う。奈良盆地(大和平野)を見渡しながら、桜井市の大神神社から天理市の石上神宮までの約15kmの道程は、のどかな田園風景や山村風景に癒され、魂の洗濯によってペースを乱すこともなかった。スタート地点において見覚えのある御年配の人もゴールで再会するなど、山の辺の道には人々を惹きつける魅力のみならず、直向きに歩かせるパワーに満ちた道なのかも知れない。

三輪山
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大坂を偲ぶ場所

Edit Category 模型
以前、「大阪歴史博物館」を訪れ、記事を整理する際にその存在を知ることになった「大阪くらしの今昔館」を今回あらためて訪れてみた。初めてその存在を認識したときには、その野暮ったい名称に展示イメージが湧かなかったが、あらためてWEBで確認してみると、学術的考証に基づき、伝統的工法で精巧に実物大で復元された江戸時代の大坂の町の商家、路地の奥の長屋、家具・調度品等が秀逸で、私の大好物である精巧なジオラマ模型なども数多く設置され、昔懐かしレトロなミシンや炊飯器、テレビや冷蔵庫も展示され、大阪の個性的な観光スポットとして外国人に人気を博しているとのこと。

大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館

1990年(平成2年)に「大阪市内の住宅に関する情報サービスや相談、さらに新しい住まいや大阪の都市居住の歴史などについても知ることができる総合的な住情報拠点」として、1999年(平成11年)11月「大阪市立住まいの情報センター」が開設され、1年半後の2001年(平成13年)4月「大阪市立住まいのミュージアム」が誕生した。大阪の都市居住の歴史を楽しく学ぶ中核施設、“大阪のくらし”に対する愛着とイメージアップを図る住情報の拠点として、住まい情報センターの活動の一翼を担っている。2002年(平成14年)4月には、愛称として「大阪くらしの今昔館」が決定した。

大阪くらしの今昔館

博物館は一般的に教育委員会の管轄下にあるが、大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」は、大阪の都市居住に関する歴史と文化をテーマとした日本初の専門博物館である。江戸時代後期から戦後にかけての住居に関する資料や模型が展示されており、見せる展示を超えた「体感する」展示を目的とし、「住まいと暮らし」の情報交流拠点としての集客型ミュージアムを基本理念としている。開館した2001年以来、緩やかに右肩上がりだった入館者数は、近年の訪日外国人旅行者数増加を追い風に、2014年度は過去最高の35万3千人を記録した。2015年もそれを上回るペースで入館者数が推移している。

大阪くらしの今昔館 アクセス 大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記 大阪市立住まい情報センター大阪くらしの今昔館 フロア図

晴天の休日、地下鉄谷町線・堺筋線、阪急線「天神橋筋六丁目」駅の改札口フロアに直結した「大阪市立住まい情報センター」から地上に出ることなく、エレベーターで8階に上って「大阪くらしの今昔館」の入り口に到着した。エントランスにはメイン展示である「なにわ町家の歳時記」の1/50縮尺の模型が展示されている。「大阪くらしの今昔館」は、ビルの最上階8〜10階に設けられ、エントランスの8階からエスカレータで10階の展望フロアに到達し、9階の「なにわ町家の歳時記」、8階の「モダン大阪パノラマ遊覧」に降りてくる順路の構成となっている。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」近世大坂の町並み模型①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」近世大坂の町並み模型①(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」近世大坂の町並み模型②(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」近世大坂の町並み模型②(平行法)

10階に於ける「展望フロア」では、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された桂米朝(2015年3月19日没 ※満89歳)の歓迎の挨拶が流れ、9階の天保の頃の「大坂」を完全復元した町並み全体をガラス越しに見渡す事ができる。ビルの中だと侮ってはいけない。上から全体を一望すると、商家の並ぶ大通りに庶民の裏通り、一際高い火の見櫓などがあり、一瞬、巨大ジオラマと錯覚するが、人が動いていることによって実物大のセットであることを確認できた。

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記①(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記②(平行法)

9~10階の吹き抜け部分1100㎡に於ける「なにわ町家の歳時記」では、江戸時代の天保期(1830~1844年)の大坂の町家と町並みを専門家による学術的考証のもとに伝統的工法を用いて実物大で復元し、家具・調度を置いて当時の暮らしを再現している。木戸門を進むと、大通りには風呂屋、人形屋、本屋、呉服屋、唐物屋など10の商家が並び、路地の奥には四戸一の裏長屋がある。室内まで隈無く再現され、台所には釜も鍋もまな板も揃う。外には共同井戸も便所もある。屋根に猫、路地に犬・鶏、見上げると雀などが設置され、来館者は町の中を自由に散策し、展示史料は原則として自由に触れることができて、町の賑わいと生活の息吹を体感できる。

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記③(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記④(交差法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記④(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑤(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑤(平行法)

入場して暫く周囲を堪能している間に気が付くが、多くの入館者がレンタルの浴衣を纏い、周囲では日本語ではない言語で会話を交わされている。着物体験のレンタル料は200円で、着物(夏期は浴衣)に着替えて30分間、江戸時代の町並みを散策することができる。5年前から本格的に実施した着物の着付けサービスは、洋服の上から羽織る手軽さが外国人にも好評で、一日平均300人を超す利用があるほど人気がある。浴衣姿の人で溢れている光景は、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚に陥るが、よく見れば着こなしは何ともぎこちない感じがしないでもない。自撮り棒を使って大坂の町家を背景にした撮影を満喫している様子に外国人の人気スポットとなっていることを実感できた。

「大坂火見櫓之図」守貞謾稿(左)/「なにわ町家の歳時記」イラスト(右)
「大坂火見櫓之図」守貞謾稿    火の見櫓

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑬(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑬(平行法)

提灯の後ろに聳え立つのは「火の見櫓」は、町によっては会所の屋根の上に乗せることもあった。守貞謾稿の「大坂火見櫓之図」には、「屋上ニ建、専ラ会所ノ屋上ヲ用フ、内ニ半鐘ヲ釣ル」とあり、屋根の上に櫓を乗せることが紹介されている。しかし一町ごとではなく、数ヵ町で櫓が設けられ、普請・補修の費用は各々の町で分担されていた。木造建ちが主流の江戸時代では、人々が恐れる火事への備えとして、初期消火のための用水は欠かせないものであった。江戸では用水桶は木の桶であったが、大坂では立派な石造であった。

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑧(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑧(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑨(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑨(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑩(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑩(平行法)

風呂屋を再現したセットでは、昔の大阪の様々なエピソードを知ることが出来るガイダンスの「風呂屋シアター」(約20分)として、1日9回の上映が行われている。一見、何を売っているのか判り難い店もあり、極めつけは、舶来品を取り扱う唐物屋に置かれた奇妙な白い箱は、オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた「エレキテル」と称する摩擦起電器を平賀源内が復元し、「人の体から火を出して病を治す器」として大名の前でデモンストレーションした魔法の箱とのこと。当時はまだ静電気の概念はなく、好奇の注目を浴び日本中の話題になった。平賀源内はこの静電気発生装置を「ゐれきせゑりていと」と表記している。

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑪(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑪(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑥(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑥(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑦(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑦(平行法)

町並みは、1991年に企画を始め、10年間をかけて資料を集めて時代考証を加え、設計図を引いた上で復元工事を行った。総事業費は54億円。町家は古い民家を移築するのではなく、桂離宮の昭和の大修理を担当した数寄屋棟梁が伝統技術を使って新築した。しかも、博物館によくある書き割りを造るのではなく、実際の屋外にある木造建築と同じ工法を採用している。木造の構造体は伝統的な継手と仕口のみで仕上げ、金具は使用していない。板塀などの釘も洋釘は一切使用せず、すべて和釘を用いている。こうして、新築ではあるが、江戸時代の技術に拘った“ほんまもん”の町家に仕上がっている。

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑱(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑱(平行法)

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑭(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑭(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑮(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑮(平行法)

“大坂町三丁目”と称する架空の町の凝った演出により、来館者は江戸時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。建物に生活感を表現するために、町家一軒ごとに経年変化をつけており、映画で使うエイジングの手法を取り入れ、松竹映画の美術監督に依頼するほどの拘わりにより、柱や格子の風食、白壁のひび割れ、屋根瓦の傷み、軒先の歪み、板塀の節穴、 雨落など、建築後の長い年月を経た変化を表すことで、本物の建物に近づけている。板塀は面積が広いので特に念入りに仕上げられ、伏見の酒蔵の古びた焼杉の外壁を観察することで、風雨に曝された板壁上部の白い木地や、下部の砂の跳ね上がりや苔など、エイジングの完成度を向上させている。

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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑯(交差法)
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「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑯(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑰(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑰(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑲(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑲(平行法)

更には、音と光と映像による最先端の技術を用いて、1日の時の流れを45分間に凝縮し、まるで屋外の如く1日の変化を演出する大掛かりなシステムを設定した。その結果、夜が明けると、賑やかな商いの掛け声で町の1日が始まり、昼下がりになると金魚売りの声。そのうちに辺りが暗くなって雷鳴が鳴り、激しい夕立に見舞われる(屋内なので雨が降ることはない)。夕立が上ると、町並みは美しい夕焼けに染まる。やがて夜空に月が輝き、星空に流れ星が走り、犬の遠吠えとともに夜は更けてゆく。町角に佇むと懐かしさが込み上げビルの中とは思えない、実際に誰かが住んでいそうな町並みの臨場感が漂う。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」山村流地歌舞「すり鉢」(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」山村流地歌舞「すり鉢」(平行法)

合薬屋には、”ウルユス”の看板があるが、漢字の「空」スをばらばらにしてカタカナ読みをすると、”ウルユス”。つまり空にしますという意味とのこと。合薬屋は、“町家の座敷”にも早変わりし、様々な催しを行い、来館者を持て成すイベント会場のステージとなる。この日は、上方の地で生まれ育った地歌舞が町家の座敷で披露されていた。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」山村流地歌舞「露の蝶」(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」山村流地歌舞「露の蝶」(平行法)

江戸時代 京阪(上方)で生まれた地歌舞は、関東の「踊り」とは性格を異にした「舞」で、酒宴の座敷にて発展した故、別称・座敷舞とも称される。山村流は地歌舞の四大流派の一つで、歌舞伎の振付師であった山村友五郎を祖とした最も古い流派であり、能から出た行儀の良い舞として 商家の子女の行儀見習いの心得とされる。埃(ほこり)を立てないように半畳あれば舞える流麗な舞姿は、大変格式高く品のある舞として知られている。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑳(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」なにわ町家の歳時記⑳(平行法)

大坂は借家率の高い都市であったと云われ、四戸一の裏長屋では、一番左の三畳の間が貸家という設定となっており、畳 、襖、障子が全く入っていない“裸貸し”という大坂独特の借家システムを現している。畳、襖、障子は家主が据え付けるものではなく、借家人が持ち込むものとされ、家も建具も規格が定められていたので、中古の品で十分だったのである。一人暮らしなら畳一枚で十分で、建具も同様で家族が増えた際に揃えれば良いとされた。浪花人は合理的で、物を大切にするリサイクル感覚に優れていた証かも知れない。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧(平行法)

8階に於ける「モダン大阪パノラマ遊覧」では、近代から現代への大阪の代表的な住まいと暮らしの移り変わりを1/100縮尺の精巧な模型、映像、実物資料で辿っている。明治から戦後にかけての大阪の住宅地を再現した「住まいの大阪六景」(川口居留地・北船場・大大坂新開地・空堀通・城北バス住宅・古市中団地)を中心に、ルナパークや心斎橋商店街などの模型、近代化を描く浮世絵の立版古などが常設展示されており、床面には1923年(大正12年)の大阪市街地を描いた鳥瞰図「大阪市パノラマ地図」を光床に原本寸法の約7倍に拡大して展示されている。大型映像と駆動式の模型を組み合わせた人形劇『住まい劇場 ある家族の住み替え物語』では、空堀商店街で生まれ育ち、戦後をバス住宅で仮住まいし、高度成長期には古市中団地に引っ越した悦子さんの住み替え物語のドラマを女優の八千草薫による語りで、1時間に2回、各々15分間のみの演出は、空堀通、城北バス住宅、古市中団地の模型が展示ケースの下に沈みこみ、天井裏から住まい劇場が降りてくる仕掛けになっている。

床面に展示されている大阪市街地を描いた鳥瞰図「大阪市パノラマ地図」1923年(大正12年)
大阪市パノラマ地図


【川口居留地】~文明開化と西洋館~
[1884年(明治17年)設定のジオラマ]

1868年(慶応4年)の大阪開港に伴い、明治初期に安治川と木津川に挟まれた近世大坂の市街地であった旧大坂三郷の西、木津川と安治川に挟まれた旧幕府の番所跡であった弾丸形の土地に外国人居住のために川口居留地が造られて競売された。江戸時代、「天下の台所」として経済の中心であった大阪に期待した外国商人たちが殺到し、道路には歩道、街路樹、街灯が整備されて西洋館が建ち並び、テニスコートやパンと牛乳の店などが誕生した。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 川口慰留地①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 川口慰留地①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 川口慰留地②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 川口慰留地②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 川口慰留地③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 川口慰留地③(平行法)

しかし、川口が安治川河口から約6km上流に位置する河川港故に水深が浅く、大型船舶が入港出来ないため、貿易港として継続的発展を成し得ず、阪神間の鉄道開通、大阪経済の衰退、不正取引に対する厳しい取締りなども影響し、期待を裏切られた外国商人たちは神戸に移動した。開港直後に来阪した宣教師たちは居留地に住むことは出来ず、隣接する雑居地に住居を確保して伝道を開始した。仮会堂や小さな礼拝堂を設置したが、1875年(明治8年)「切支丹高札」が撤去された後は衰退の一途を辿り、1899年(明治32年)川口居留地内は廃止された。


【北船場】~旧大坂三郷の近代化~
[1932年(昭和7年)設定のジオラマ]

1912年(明治45年)市電の敷設に伴い、堺筋は12間幅に拡幅されことを機に北船場は、近代的ビルや近代的町家が建てられ、都市景観は大きく変わっていった。伝統的な町家が建ち並んでいた明治時代の旧大坂三郷は、狭い道路が近代化を進める途上で大きな障害となっていた。江戸時代以来、町家が軒下空間を取り込んで道路を狭めていたが、明治の終わりから昭和の初めに“軒切り”と呼ばれる都市改造が実施された。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 北船場①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 北船場①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 北船場②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 北船場②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 北船場③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 北船場③(平行法)

北船場は、大坂の町人文化の中心となったところで、大坂城に通じる東西方向の“通り”と南北方向の“筋”で構成され、薬の道修町、金融の北浜といった商取引の中心であった。町は明治時代以前の瓦屋根の連なる木造家屋の光景と現代の鉄筋コンクリートを主とするビルの町並みの間に石やレンガ造りの建造物が現れ、土佐堀通りには市電やバス、自動車、リヤカーの他に、商家では店先に馬を繋ぎ止める金具があり、まだ馬が荷台を牽いていた。


【大大坂新開地】~市街地の拡大と近代長屋~
[1935年(昭和10年)設定のジオラマ]

大正8(1919)年の都市計画法を受けてはじまる土地区画整理事業は、この大大阪新開地を中心に展開され、事業が完了した地区にはディベロッパーが競ってサラリーマン向けに長屋建の貸家を建てた。中でも大阪市南部には、洋風・和風のさまざまな意匠を凝らしたユニークな外観、新しい間取りの長屋が多く建てられ、新しい風景を造り出した。1925年(大正14年)大阪市は第二次市域拡張を実施し、周辺の町を併合した広域行政圏である“大大坂”を誕生させ、人口・面積ともに東京市を抜いて全国第1位、世界で第6位の人口を有する都市となった。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 大大阪新開地①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 大大阪新開地①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 大大阪新開地②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 大大阪新開地②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 大大阪新開地③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 大大阪新開地③(平行法)

第二次市域拡張で新たに大阪市域に編入された新市街地は大大坂新開地と称されて東洋一の商工地に変貌する。大正から昭和初期を中心に、新しい構造やモダンなデザインによる鉄筋コンクリート造のビルが次々に建てられた。中之島や北浜、船場には、特色ある華やかな意匠の建築物が築かれた。東京が関東大震災で被害を受け、市域拡張が遅れたこともあるが、工業生産額では、本格的な戦時体制に入った昭和13年まで大阪府が東京府を抑えて全国一の地位を守り続けた。


【空堀通】~商店街・路地・長屋~
[1938年(昭和13年)設定のジオラマ]

路地と長屋の町としても知られている空堀通は、松屋町筋から東に約1kmに及ぶ商店街で、江戸時代中頃から表通りの空堀には商家が軒を連ね、明治時代には賑やかな商店街になった。路地と長屋の町としても知られ、上方落語の「駱駝」にも登場する。一見、江戸時代からの町並みが残っているが、路地の井戸が共同水道に変わり、下水溝の枡も見える。通りに街灯が立ち、軒蛇腹と称する装飾的な軒のついた本2階建の町家に白いタイル貼りの外装で開口部に“ルーバー”と称する羽板のついた建物など、昭和戦前期らしい建物も建っている。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通③(平行法)

『住まいの劇場』
1930年(昭和5年)の出来事。空堀通にある4軒長屋、その一つが理髪店「浪花軒」である。御堂筋の拡幅、地下鉄工事、大阪城天守閣の再建など、時の話題で盛り上がっている。主人公悦子はまだ6歳。初恋の人から地蔵盆への誘いが掛かるのだが.....。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通 住まい劇場(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 空堀通 住まい劇場(平行法)


【城北バス住宅】~転用住宅と戦災復興~
[1948年(昭和23年)設定のジオラマ]

第二次世界大戦の度重なる空襲によって、大阪市の中心部は広範囲に及んで焦土と化した。人々の救済のために建設された仮設住宅のひとつに、廃車になった木炭バスを利用したバス住宅があった。旭区豊里町には、26台のバスをメガネ形に配し、中央の空き地に炊事場や洗濯場・便所などを設けた大阪市営の城北バス住宅が設けられた。バスの内部は約2坪半と非常に狭いため、各人が建て増しするなど独自の住空間が形成された。家賃が安く、隣近所との親交も深かったことから住み続ける人も多く、城北バス住宅は1951年(昭和26年)まで存続した。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅③(平行法)

『住まいの劇場』
1946年(昭和23年)戦災と戦後の混乱で住む場所を失った一家だったが、やっと家族が一緒に暮らせるようになった城北のバス住宅のお話。24歳になった悦子に恋人が訪ねてくる事になったからさあ大変。大事な客を迎えるために一家は大騒動!

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅 住まい劇場(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 城北バス住宅 住まい劇場(平行法)


【古市中団地】~計画的団地の開発~
[1956年(昭和31年)設定のジオラマ]

戦災復興とこれに続く高度経済成長に伴う都市への人口集中に対応するため、数多くの公共住宅団地が建設された。中でも昭和28(1953)年から建設が始まる城東区古市の市営古市中団地は、住戸・住棟計画・配置計画のみならず、外構や色彩にも新しい試みが行われ、さらに学校や道路・公園なども計画の対象とされるなど、その総合的な計画手法からモデル的住宅団地として注目され、水洗トイレやバルコニーが備え付けられるなど、新しいライフスタイルの住宅として脚光を浴びた。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地③(平行法)

『住まいの劇場』
1959年(昭和34年)抽選に当たってやっとのことで入居できた古市中団地。これは悦子一家に初めてテレビが来た日のお話。ちょうどそこに花見帰りの両親と、兄の家族が団地見物にやってきたところ.....。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地 住まい劇場(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 古市中団地 住まい劇場(平行法)


【天神祭】~水都の祝祭~
[1921年(大正10年)設定のジオラマ]

951年(天暦5年)社頭から流した神鉾が着いた浜での禊(みそぎ)の神事が天神祭の始まりとされ、神領民や崇敬者が船を仕立てて奉迎したとされる。浪速の繁栄を祈願して道真公を慰霊する大阪天神祭は千年以上の歴史を誇り、豊臣秀吉が大阪城を築いた頃は船渡御は100隻を超えるほど隆盛を極めた。1921年(大正10年)に描かれた絵巻「夏祭船渡御図」の参照に基づいて再現した模型には、カンカン帽を被る人、蒸汽船、川沿いに建つ近代建築が描かれ、当時の雰囲気が溢れている。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 天神祭①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 天神祭①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 天神祭②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 天神祭②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 天神祭③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 天神祭③(平行法)

祭りは最終日に大川・堂島川で繰り広げられる船渡御をもってクライマックスを迎え、大勢の見物人、川沿いの篝(かがり)火と夜店、そして打ち上げ花火が、大阪の夏の夜を華やかに彩る。7月24日・25日に行われる天神祭は、政変や戦争による中断もあったが、船渡御の復活、大川を遡航、として現在の形になる。東京・神田祭京都・祇園祭とともに日本三大祭りの一つとされ、毎年130万人が訪れる大阪で最大規模の都市祭礼である。

『諸国名橋奇覧 摂州天神橋』 葛飾北斎(左)/現在の大阪天神祭(右)
諸国名橋奇覧 摂州天神橋 葛飾北斎 天神祭


【昭和初期の心斎橋筋商店街】
[1927年(昭和2年)設定のジオラマ]

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 心斎橋筋商店街①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 心斎橋筋商店街①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 心斎橋筋商店街②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 心斎橋筋商店街②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 心斎橋筋商店街③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 心斎橋筋商店街③(平行法)

1927年(昭和2年)に描かれた町並みイラストをもとに、心斎橋筋商店街のおしゃれな町並み、表情豊かな店構えを表現。「心斎橋筋」は、大阪唯一の公認の遊郭であった新町と、芝居小屋が集まっていた道頓堀を結ぶ道筋という立地によって江戸後期には既に栄えており、明治以降、大阪のモダニズムを代表するエリアへと変化を遂げる。そごう大丸などが百貨店として営業を始めた昭和初期、心斎橋周辺は、大阪一モダンな街として、モボ(モダンボーイ)・モガ(モダンガール)が闊歩したファッション最先端の街であった。“銀ブラ”に対抗して心斎橋をぶらつくことを“心ブラ”と称したが、今や死語となった。

昭和初期の心斎橋筋商店街
心斎橋筋商店街(昭和4年)


【通天閣とルナパーク】 
[1912年(明治45年/大正元年)設定のジオラマ]

「新世界ルナパーク」は、閉鎖した浅草ルナパークを引き継いで日本で二番目に造られたルナパークという名前を冠する一大歓楽地である。1903年に開園のニューヨークのコニーアイランド・ルナパーク(Luna Park, Coney Island )を参考にし、南端中央に円形広場を設けてパリの街路に見立て、北端中央にエッフェル塔を模した「通天閣」を建てた遊園地は、1912年(明治45年/大正元年)に開園し、1923年(大正12年)まで営業された。観客がパークの入り口へ向かう際に空中の景色を楽しめるように、初代通天閣から入り口までロープウェイが伸びているなどユニークな造りであった。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 通天閣とルナパーク①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 通天閣とルナパーク①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 通天閣とルナパーク②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 通天閣とルナパーク②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 通天閣とルナパーク③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 通天閣とルナパーク③(平行法)

新世界ルナパークのアトラクションとしては、円形の絶叫マシンや、メリーゴーランド、ローラースケートホール、演芸場、活動写真館、音楽堂(奏楽堂)、不思議館、展望塔(白塔)、大衆演舞場(清華殿)、動物舎、及び瀑布渓流(綾糸瀧、真澄ノ池)、噴泉浴場、円形大浴場、サウナ風呂、温水プールが設置されていた。ルナパーク閉鎖後、1943年には初代通天閣が火災により損傷し、そのまま閉鎖され、材料を軍事利用するために日本政府によって解体された。戦後になって二代目となる現在の通天閣が建設され、1956年(昭和31年)に営業を開始した。
新世界ルナパーク
新世界ルナパーク
新世界ルナパーク①新世界ルナパーク② 新世界ルナパーク 見取り図 新世界ルナパーク③新世界ルナパーク④


【文明開化の立版古】
『梅田ステン所(しょ)』
(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 浮世絵立版古 大阪ステン所(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 浮世絵立版古 大阪ステン所(平行法)

日本初の鉄道路線である新橋~横浜(現桜木町駅)間に次ぐ2番目の路線として、2年後の1874年(明治7年)大阪~神戸間の鉄道開業と共にに開業した大阪駅は“梅田駅”、“梅田ステーション”、“梅田ステン所(しょ)”などと呼ばれたが、阪神・阪急や貨物駅の梅田駅が開業後には次第に大阪駅のことを“梅田駅”と呼ばれなくなる。現在地より西の大阪中央郵便局付近の場所にった当時の駅舎はゴシック風の赤煉瓦造り2階建てで、周辺には民家が僅かにあるだけで田圃が広がっていた。東西直通運転を可能にして市街地に駅を近づける構造にした大阪駅は、先見の明があったと云われ、明治末期に山陽鉄道九州鉄道などの大私鉄が国有化された後、西日本各地から東京への直通運転の実現が容易となり、利便性を高めた点でも大いに貢献している。

『鉄橋の心斎橋』
(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 浮世絵立版古 心斎橋(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 浮世絵立版古 心斎橋(平行法)

心斎橋は元々町人達が費用負担して長堀川に架けられた町橋の名で、「心斎系譜」によれば、1622年(元和8年)長堀川を開削した4名のうちのひとり、岡田心斎は長堀川を開削した後、長堀心斎橋町に住み、長堀川両岸の往来のため、南北に橋を架けた。これが心斎橋の名前の由来である。木橋だった心斎橋は、1873年(明治6年)ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目に大きな洋式鉄橋として生まれ変わった。嘗ての木製の橋のように橋脚が林立することなく、川幅を一跨ぎする規模の大きさは、当時の大阪の人々の驚嘆として話題となり、錦絵にも描かれた。この鉄橋は鶴見緑地公園緑地西橋としてトラス部材(錬鉄製)桁の主構のみの転用ではあるが現存しており、日本現存最古の鉄橋とされる。

『浪花川崎鋳造場』
(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 浮世絵立版古 鋳造場(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 パノラマ遊覧 浮世絵立版古 鋳造場(平行法)

明治維新後、新政府は新たな貨幣制度の基盤となる統一貨幣の鋳造場として、1871年(明治4年)大阪に我国初となる近代設備を整えた大蔵省造幣寮(現在の造幣局)として創業が開始された。当時、蒸気船が八軒家と伏見を往復するようになった水運の便もあり、花見に向かう屋形船も描かれる大川沿いの場所が選ばれた。桜宮橋西詰にある造幣寮の周辺地域には、明治天皇が自ら命名した泉布観旧桜宮公会堂(旧明治天皇記念館正面玄関)は、明治時代の近代建築の黎明期の建造物として現存し、全国でも最も古い洋風建築とされ、明治初期の浮世絵作品に於いては、その崇高な様相を窺い知ることができる。昔から高雅な癒しを呈する場所として大阪の人々に崇められてきた。

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品①(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品①(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品②(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品②(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品③(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品③(平行法)

(交差法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品④(交差法)
(平行法)
「大阪くらしの今昔館」モダン大阪 レトロ製品④(平行法)

「大阪歴史博物館」は名称通りに博物館というイメージの展示内容であったが、「大阪くらしの今昔館」には「東映太秦映画村」「伊勢安土桃山文化村」と同じく、時代の再現空間を満喫する娯楽施設の気軽さもある。日本語、英語、中国語、韓国語の4カ国語の字幕付きで展示内容を“学習する”のではなく、“体験する”ことに主眼を置いていることも外国人に受け入れられる要因と云える。「大阪くらしの今昔館」のキャッチコピーは、「ほっとしたいそこの人、しばし時を忘れて、浪花見物に参りませう」である。大坂町三丁目の町並みが幼い頃の記憶が蘇えらせ心が和んだ、という来館者も多い。江戸時代の大坂を知る人は殆ど居ないのだが、大坂の原風景が持つ空間の力があるのかも知れない。

大阪市立北市民館
大阪市立北市民館

一階には、「大阪市立住まいの情報センター」の前身であり、我国初の文化的社会施設と云われた「大阪市立北市民館」の模型が展示されている。「大阪市立北市民館」が創設された直接の動機は、1918年(大正7年)富山県魚津で火蓋を切った米騒動が、瞬く間に全国を席巻し、大阪にも激しい騒動を引き起こしたことに始まる。大正後期の不況は貧困問題を深刻化させ、大阪では米騒動後、防貧施策として大阪市救援事業後援会を組織して広く寄付金を募集した。

(交差法)
大阪市立北市民館 再現模型(交差法)
(平行法)
大阪市立北市民館 再現模型(平行法)

(交差法)
住まい情報センター(交差法)
(平行法)
住まい情報センター(平行法)

その資金によって、1921年(大正10年)日本初の公立セツルメント「市立市民館」は、当時の急激な都市化とスラム化の拡大と進行によって貧困層の集まっていた天神橋6丁目に建設され、後に「大阪市立北市民館」となり、1983年(昭和58年)まで存在した。長きに亘り全国の社会福祉界の歴史的シンボルであった「大阪市立北市民館」は、大阪の誇りとなる建物として残すべきとの反対運動も虚しく取り壊され、「大阪市立住まいの情報センター」に生まれ変わり、今ではビルの1階に展示された模型のみが、往時を伝えるに過ぎない。

(交差法)
大坂城と大阪ビジネスパーク(交差法)
(平行法)
大坂城と大阪ビジネスパーク(平行法)

(交差法)
あべのハルカスと通天閣(交差法)
(平行法)
あべのハルカスと通天閣(平行法)

江戸時代、大坂は“天下の台所”として栄え、明治の頃には“水の都”と呼ばれ、経済と文化の中心的都市として発展し、歴史、環境、政治などの影響を受けながら現在の大阪が形成された。都市化が進む中でアイデンティティを歴史や文化に求めたとき、その経緯を知らない人にも紐解いて説明する施設があることは素晴らしいことだと感じる。現在の大阪の都市空間の中で、果たして次世代に向けて何を整備し、何を残していくのか、また世相や歴史をどのように継承していくのか、その答えを導く鍵を見つけることが現在の大阪で暮らす人々の役割と云える。

(交差法)
大坂サンセット(交差法)
(平行法)
大坂サンセット(平行法)
 
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MOTO

Author:MOTO
広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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