3Dアクアテラリウム

立体写真による探訪記と恐竜ジオラマのアクアテラリウムと駄文のブログ

 

水都の遷移

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大阪城の追手門方面に『大阪歴史博物館』(2001年開館)があり、以前から興味があったので、ゴールデンウイーク後で混雑しない時期と睨んで嫁さんと訪れてみることにした。自宅からは、電車に乗れば数分で到着するが、運動不足解消も兼ねて、京橋~大阪城内を抜ける道程を歩いて行くことにした。この日は心地よい晴天の日で、大阪城は大勢の人で賑わい、取り分け多くの外国人の観光客が訪れていた。

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大阪城天守閣(交差法)
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大阪城天守閣(平行法)

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千貫櫓側からの大阪城天守閣(交差法)
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千貫櫓側からの大阪城天守閣(平行法)

『大阪歴史博物館』はNHK大阪放送局と透明ドーム空間施設 アトリウムで繋がっていて、エントランスホールとして総合受付カウンター、難波宮遺跡探訪コーナーがある。営業時間は9:30~17:00(金曜は~20:00)火曜休館。入館料 大人600円(20名以上540円) 高大生400円(360円)中学生以下無料となっている。

大阪歴史博物館 ロゴ

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NHK大阪放送会館(右)と大阪歴史博物館外観(交差法)
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NHK大阪放送会館(右)と大阪歴史博物館外観(平行法)

大阪歴史博物館周辺MAP
大阪歴史博物館周辺MAP

近代的で斬新なデザインの10階建高さ35mのビルの前には、対照的なフォルムの当時の巨大な高床式建物が再現展示されている。双方の建物をあらためて眼の前にすると“歴史博物館”として雰囲気が漂い、それに伴って期待度も高まりながら入館した。

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屋外展示 高床式法円坂倉庫復元(交差法)
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屋外展示 高床式法円坂倉庫復元(平行法)

一階のエントランスホールでは、足元のガラスの床を覗くと飛鳥時代の遺跡が見える。1350年ほど昔の飛鳥時代、この敷地に難波長柄豊碕宮があり、瀬戸内と河内湖沿岸との往来が可能になり灘波に物資が集まる。百舌鳥に強大な古墳を築いた大王がこの辺りに建てたとされる16棟以上の高床式建物群跡が発掘され、発掘調査で多くの倉庫群や区画する塀などが見つかり、「法円坂遺跡」と称された。

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難波長柄豊碕宮遺跡(交差法)
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難波長柄豊碕宮遺跡(平行法)

常設展示は、専用エレベーターで一気に10階まで上がり、時代順にエスカレーターで下降しながら、各階の立体展示を体感していく構造になっている。10階「古代フロア」となっており、大阪の歴史に関する以下の内容を明確に提示している。

古代宮都地図
古代宮都

・縄文時代前期の大阪は、河内湾と称する内海が拡がり、上町台地は外海に面していた西岸が侵食され、細長い半島になった。

・縄文時代中期の大阪は、淀川河口のデルタが海退に伴って成長し、河内湾から次第に河内湖となり、遂には上町台地の西側まで陸地が拡大していった。

・大阪湾に突き出した高台であった上町台地は、中国・朝鮮との交易の要所となり、飛鳥時代・奈良時代には、『難波京』と称する古代宮殿が築かれた。

このフロアの展示は、すべてがこの認識からスタートすると同時に、これらの内容は大阪が“水都”と称される所以でもある。

1/25,000デジタル標高地形図「大阪」(左)/大阪平野の遍歴(右)
1/25,000デジタル標高地形図「大阪」 大阪平野の遍歴

現在の大阪の1/25,000デジタル標高地形図では、上町台地とその西側の河内湾から河内湖に変化し、やがて海抜ゼロメートル地帯と云われる大阪平野が形成された推察を裏付けることができる。前回記事にした『鶴見緑地公園』の小高い丘や大きな池は、長い年月による結果によるものであることに驚愕する。極めて緑地の乏しい大阪において、公園として後世に残していくことは賢明な判断であると云える。

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難波宮大極殿 宮廷儀礼①(交差法)
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難波宮大極殿 宮廷儀礼①(平行法)

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難波宮大極殿 宮廷儀礼②(交差法)
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難波宮大極殿 宮廷儀礼②(平行法)

『古代フロア』を奥に進むと、奈良時代の『難波宮の大極殿』が実物大のセットが現れ、直径70cmの朱塗りの円柱が立ち並び、官人達が整列した様子や建築細部まで復元されている。744年(天平16年)左大臣橘諸兄により、難波宮を都にするという聖武天皇の勅令の宣言の古代宮殿儀式が再現されている。

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大阪歴史博物館からの難波宮公園(交差法)
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大阪歴史博物館からの難波宮公園(平行法)

『難波宮の大極殿』の再現セットの窓から大阪市内が一望でき、実際の難波宮の大極殿基壇のある『難波宮跡地公園』が見渡せる仕組みになっている。少し方向を変えれば、あべのハルカスや通天閣のある天王寺方面が見渡せる。この方向は上町台地を北端から南に向けて見渡していることになる。眼下の景観を眺めながら、『大阪歴史博物館』が建造された場所の意図が明確に理解できる。

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大阪歴史博物館からの天王寺方面(交差法)
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大阪歴史博物館からの天王寺方面(平行法)

古代の主要交通路だった瀬戸内海の東端に位置する難波には古くから倭国王の王宮が営まれており、古墳時代には仁徳天皇が最初に難波に宮を置いたとする伝承があり(『日本書紀』)、飛鳥時代には孝徳天皇が難波長柄豊埼宮を設けた、とされていた。難波宮は文献上では頻繁に登場するのに、長い間、その場所が不明であった。

大極殿の全面調査 昭和45年(1970年)
大極殿の全面調査 昭和45年(1970年)

1954年、山根徳太郎(大阪市立大学教授・考古学者)によって始められた難波宮発掘調査で大阪市中央区の官庁街のど真ん中である法円坂から瓦が出土し、1961年大極殿跡の発見時には「われ幻の大極殿を見たり」という名言を残した。調査の結果、難波宮は前期と後期とに分かれて建造された事が判明した。その調査は現在まで60年に及び、その出土品は膨大な量に及び、現在も整理作業が続けられている。

難波宮公園整備基本計画図
難波宮公園整備基本計画図

難波宮は大化の改新を機に飛鳥から遷都した前期(飛鳥時代中頃)と、聖武天皇が726年から造営を始めた後期(奈良時代前半)の建物がある。ここでは、再現模型や出土資料を用いて当時の宮殿を紹介している。

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前期難波宮復元模型①(交差法)
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前期難波宮復元模型①(平行法)

【前期・難波宮】飛鳥時代中頃(652年~655年)
当時の朝鮮半島では百済が滅亡に危機に瀕しており、朝廷が百済と交流の深かったこともあり、大化の改新(645年)の直後、天皇となった孝徳天皇は、朝鮮半島との連絡を密にする為に血で汚された飛鳥から難波の地に難波長柄豊碕宮と称して遷都した。

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前期難波宮復元模型②(交差法)
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前期難波宮復元模型②(平行法)

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前期難波宮復元模型③(交差法)
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前期難波宮復元模型③(平行法)

1年後、中大兄皇子は、都を再び飛鳥に戻すことを求めるが、孝徳天皇はこれを拒否。中大兄皇子は、主立った皇族、官人を引き連れて飛鳥に戻る。難波宮に独り残された孝徳天皇は翌年の654年に失意のうちに死去。都は難波宮から大和の後飛鳥岡本宮に遷都し、難波に都が置かれたのは僅か3年であった。建物も686年に火災焼失したと伝えられる。

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後期難波宮復元模型①(交差法)
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後期難波宮復元模型①(平行法)

【後期・難波宮】奈良時代前半(744年~745年)
奈良時代の726年、聖武天皇が藤原宇合に命じ、再びこの難波の地に離宮造営に着手。744年には恭仁京からの遷都が実施され、再び難波宮は日本の帝都となったが、翌年には平安京に都が戻された。

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後期難波宮復元模型②(交差法)
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後期難波宮復元模型②(平行法)

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後期難波宮復元模型③(交差法)
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後期難波宮復元模型③(平行法)

しかし遣唐使船の発着など海外交易の拠点として、難波宮の建物は維持され、784年の桓武天皇による長岡京遷都の際、難波宮の宮殿は長岡京に移築され、難波の地が政治的な拠点となるのは、遥か後世の1583年から始まる豊臣氏の大阪城築城まで時間を置く事となる。

難波宮と遣唐使の出港 想像図
遣唐使の出港 想像図

6世紀から7世紀前半の頃には、上町台地の北には、難波堀江付近に難波津という港があり、遣隋使・遣唐使の拠点となる。593年(推古天皇元年)に、聖徳太子が上町台地の南に位置する摂津難波の荒陵(あらさはか)の場所に、四天王寺を建立したとされている。

四天王寺からの上町台地
四天王寺からの上町台地

このように北は大阪城から南は住吉大社あたりまでの南北に長さ12kmに及ぶ上町台地は、神代の昔からの陸地で、縄文時代の森ノ宮遺跡に始まるその歴史は、遣唐使船の発着する奈良・平安を駆け抜け、やがて天下の台所と謳われるなど、大阪の歴史の発祥地であり、要所であった。

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大阪歴史博物館からの大阪城(交差法)
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大阪歴史博物館からの大阪城(平行法)

10階の『古代フロア』から9階の『中世・近世フロア』に移動する窓から、大阪ビジネスパークの高層ビル群を屏風の如く背景にした構図で大阪城の全容が見渡せ、その絶景に見入ってしまうのだが、次なる展示会場への演出であることにすぐに気付くことになる。9階の『中世・近世フロア』では、石山本願寺~秀吉時代~江戸時代の城下町づくりが、私の大好物のジオラマ模型により、当時の町人の活気ある暮らしぶりが、立体的に表現されている。

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大坂本願寺御影堂ジオラマ模型①(交差法)
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大坂本願寺御影堂ジオラマ模型①(平行法)

本願寺第8世、蓮如上人が「大坂石山御坊」建立に着手した。その頃、上町台地の突端にあった「おさか」(「小坂」とも「大坂」とも)という地名が、「おおさか」の語源という説もある。その後、戦国時代最大の宗教的武装勢力となった「石山本願寺」は、天下布武を目指す織田信長と戦い、「一向一揆」「石山合戦」などと呼ばれる戦乱により焼失した。その後、織田信長から天下覇権を引き継いだ豊臣秀吉が1583年(天正11年)その跡地に「大坂城」を築城する。

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大坂本願寺御影堂ジオラマ模型②(交差法)
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大坂本願寺御影堂ジオラマ模型②(平行法)

展示のジオラマ模型は、10代顕如が座主に代替わりして間もない1561年(永禄4年) 親鸞聖人300回忌法要が御影堂で行われた際の様子で、町衆のみならず、公家、他宗の僧までが顔を揃えて参詣する様子を表現している。本願寺の社会的、宗教的影響力を示しており、道場(御坊)を中心に形成された寺内町が生まれた要因となった。

安治川橋模型
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浪花まちめぐり安治川橋模型(交差法)
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浪花まちめぐり安治川橋模型(平行法)

更に進むと、木製の安治川橋、難波橋の模型により、川の水運とともに発展し、江戸時代の経済の中心地であった大坂の町を表現しており、その周囲に以前ブログで取り上げた立版古に出くわした。江戸時代の大坂の情景の浮世絵を各々巨大な立版古で表現しており、浮世絵は江戸時代の風情と趣きがあり、立版古には浮世絵が映える。

立版古「安治川口」
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浪花まちめぐり立版古「安治川口」(交差法)
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浪花まちめぐり立版古「安治川口」(平行法)

大坂城と城下町は1614年の大坂冬の陣、1615年の夏の陣の戦いにより焦土と化す。大坂は江戸幕府直轄地(天領)となり、1629年、二代目将軍徳川秀忠により、大坂城を築き直した。以前の記事でも触れたが、現在の大阪城の石垣はじめとする遺構は秀吉ではなく徳川家により再建されたものであり、二代目天守閣も1665年(寛文5年)の落雷により焼失し、それ以来、昭和初期まで天守は再建されることはなかった。

難波橋模型
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浪花まちめぐり難波橋模型(交差法)
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浪花まちめぐり難波橋模型(平行法)

大坂夏の陣で灰燼に帰した大坂は、徳川家によって再興されていく。中断していた堀の掘削と町づくりは江戸期に再開され、水はけ、水運、土地造成が進んだ。道頓堀は江戸初期に東横堀川と木津川を結ぶ為に開削された。一定の土地を割り当てられた豪商達は自前で堀を作り権益を得ていた。安井道頓もその一人であることが土地台帳に残されている。

立版古「堂島米市」
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浪花まちめぐり立版古「堂島米市」(交差法)
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浪花まちめぐり立版古「堂島米市」(平行法)

再興した大坂は、全国から米・油・野菜・魚など各地の特産物が集まり、出荷される「流通拠点」となり、国際貿易にも結びついた国内最大の経済都市として栄えた。現在、大企業のビルが林立する堂島は蔵米を蓄え、堂島米市場の米相場が、全国相場の基準とされ、例年150万石前後が取引きされた。

立版古「天満青物市」
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浪花まちめぐり立版古「天満青物市」(交差法)
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浪花まちめぐり立版古「天満青物市」(平行法)

豊臣政権下の頃から、政治の中心であり有力商人たちが在住していた大坂・堺に諸大名の蔵屋敷が建てられ始めた。江戸幕府が成立すると、政治の中心は江戸に移転したものの、商業の中心はそのまま大阪に留まったために以後も諸藩の蔵屋敷は大坂に集中した。

立版古「八軒家着船場」
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浪花まちめぐり立版古「八軒家着船場」(交差法)
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浪花まちめぐり立版古「八軒家着船場」(平行法)

大坂はもともと商業は盛んであったが、西廻り航路の整備によって日本海側の物資が瀬戸内海経由で大坂に集まるようになり、物流の一大拠点として更に発展した。各地の年貢米や特産物は大坂に立ち並ぶ蔵屋敷に運ばれ、菱垣廻船や樽廻船で江戸にも送られた。

立版古「新清水寺」
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浪花まちめぐり立版古「新清水寺」(交差法)
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浪花まちめぐり立版古「新清水寺」(平行法)

八軒家着船場は、熊野参詣の起点としてだけでなく、京都と大坂を結ぶ淀川舟運の要衝として栄えた。堂島の米市場、雑喉場の魚市場と並んで三大市場のひとつとされた天満青物市は青果物を独占取引するなど、「天下の台所」として全国に名を馳せた活気に溢れる当時の大坂の様子が、立版古で生き活きと表現されている。

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町人の文化 御座船地車(交差法)
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町人の文化 御座船地車(平行法)

住吉大社の近傍で海の町として栄えた住吉区・安立町の祭りに使われた御座船地車が展示されており、細かい細工が施され、日本の職人技術を堪能出来る。御座船とは天皇・公家・将軍などが遊興で乗った豪華な船を指し、江戸時代の寛政年間(1789年~1801年)に製作された住吉大社の貴重な遺産とのこと。

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安政の船場の町並みジオラマ模型①(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型①(平行法)

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安政の船場の町並みジオラマ模型②(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型②(平行法)


『中世・近世フロア』を奥に進むと、安政年間(1854年~1860年)の船場北端部、淀屋橋にほど近い梶木町、尼崎の春の情景などを20分の1のスケールで表現した巨大なジオラマ模型が見えてきた。

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安政の船場の町並みジオラマ模型③(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型③(平行法)

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安政の船場の町並みジオラマ模型④(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型④(平行法)

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安政の船場の町並みジオラマ模型⑤(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型⑤(平行法)

古代から海の底だった大坂は、海岸線の後退や大川(淀川)の改修、大和川の改修などで 次第に今の土地が現れて広い平野を形成するのだが、長い時代において大部分が湿地帯だったため、大きな都市としては機能しなかった。八百八橋と云われた大坂は、広大な湿地帯の名残によるものであった。

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安政の船場の町並みジオラマ模型⑥(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型⑥(平行法)

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安政の船場の町並みジオラマ模型⑦(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型⑦(平行法)

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安政の船場の町並みジオラマ模型⑧(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型⑧(平行法)

戦国の世を統一した豊臣秀吉が大坂本願寺跡地に豊臣秀吉が10数年かけて大坂城を築くとともに、神社仏閣、町家17000戸を船場に移転、堺、京都の伏見から商人を移させ、「船場」に城下町を築いた。

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安政の船場の町並みジオラマ模型⑨(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型⑨(平行法)

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安政の船場の町並みジオラマ模型⑩(交差法)
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安政の船場の町並みジオラマ模型⑩(平行法)

秀吉没後には大阪城の三の丸普請のために町人を立ち退かせ、代替地として「船場」を開発した。「船場」は、排水、盛土、運搬用水路の知恵で開発され、船宿をはじめ料亭、金物屋などができ、大阪で最大の繁華街となり、日本の商業、流通の中心地として賑わう。更には、西町奉行、東町奉行、天満奉行の町割ができて、現在に繋がる大阪の原型が出来上がっていく。

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住友銅吹所ジオラマ模型①(交差法)
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住友銅吹所ジオラマ模型①(平行法)

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住友銅吹所ジオラマ模型②(交差法)
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住友銅吹所ジオラマ模型②(平行法)

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住友銅吹所ジオラマ模型③(交差法)
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住友銅吹所ジオラマ模型③(平行法)

江戸時代の大坂の産業を代表する銅吹所の中でも最大の南瓦屋町「住友銅吹所」は、純度99%にまで精錬し、鎖国下の長崎貿易で輸出も盛んに行なった。当時は幕府高官やオランダ人が頻繁に視察に訪れた。

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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型①(交差法)
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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型①(平行法)

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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型②(交差法)
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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型②(平行法)

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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型③(交差法)
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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型③(平行法)

商いが栄えると、それを支える町人がさまざまな文化を開花させた。大坂は江戸、京都と並ぶ芝居興行の中心地で、ジオラマ模型は、1838年(天保9年)大坂では顔見世より重視された二の替り興行の様子を再現している。表通りには、櫓や人形看板など、独特な表現を細かく表現している。

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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型④(交差法)
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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型④(平行法)

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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型⑤(交差法)
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角の芝居 二の替り興行ジオラマ模型⑤(平行法)

江戸時代の道頓堀、「角の芝居」とも呼ばれた芝居小屋があり、戎橋側から浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の5つの芝居小屋を「五つ櫓」或いは「道頓堀五座」と呼ばれ、歌舞伎の舞台に不可欠である「回り舞台」や「花道」が初めて採用され、以降全国的に広まった。

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町人の文化 文楽人形(交差法)
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町人の文化 文楽人形(平行法)

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町人の文化 浄瑠璃人形①(交差法)
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町人の文化 浄瑠璃人形①(平行法)

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町人の文化 浄瑠璃人形②(交差法)
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町人の文化 浄瑠璃人形②(平行法)

大坂の誇る文化“人形浄瑠璃”は特別に「文楽」と呼ばれた。竹本義太夫が旗揚げした人形浄瑠璃「竹本座」が、近松門左衛門とのコンビで演じた「曽根崎心中」が大成功を収めた。本物の文楽人形の”かしら”が展示されていたが、バネ部品として鯨のヒゲが使われていたとのこと。

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広島藩大坂蔵屋敷ジオラマ模型①(交差法)
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広島藩大坂蔵屋敷ジオラマ模型①(平行法)

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広島藩大坂蔵屋敷ジオラマ模型②(交差法)
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広島藩大坂蔵屋敷ジオラマ模型②(平行法)

広島藩大坂蔵屋敷の復元ジオラマでは、蔵が周りを取巻き南には御殿や御用屋敷、役人の居住する長屋などが敷地内にあり、船入の入口水路は川べりの道を横断するため小橋が架けられ、水門も設けられていたことが確認できる。厳島神社を鎮守として祀っているので、船入の水中に鳥居があり、安藝国らしい風情がある。

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大大阪の時代 劇場のまち 道頓堀・千日前(交差法)
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大大阪の時代 劇場のまち 道頓堀・千日前(平行法)

7、8階は一部が吹き抜けになっていて、7階にある昭和初期の街のセットを上から見下ろせる空間になっている。大正末期から昭和初期にかけての淀屋橋駅や心斎橋筋、道頓堀「角座」といった一際賑わった街角を、大きさ、雰囲気そのままに切り取ってリアルなパノラマで再現し、以前の記事『滝見小路』のように繁栄するモダン都市・大阪の街を歩くことが出来る。

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大大阪の時代 本庄公設市場 八百屋(交差法)
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大大阪の時代 本庄公設市場 八百屋(平行法)

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大大阪の時代 本庄公設市場 魚屋(交差法)
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大大阪の時代 本庄公設市場 魚屋(平行法)

1919年(大正8年)に日本で最初の公設市場として開設した大阪市北区にあった本庄公設市場の再現では、1940年(昭和15年)の歳末大売出しの八百屋と魚屋の店先を表現している。安定した市民生活を目的として開設し、現金・正札販売の実施や不当価格の禁止、衛生面の配慮が義務づけられ、安くて良い品があると評判であった。

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大大阪の時代 郊外住宅のくらし①(交差法)
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大大阪の時代 郊外住宅のくらし①(平行法)

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大大阪の時代 郊外住宅のくらし②(交差法)
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大大阪の時代 郊外住宅のくらし②(平行法)

明治維新と近代国家成立に向けた混乱により、大阪は大打撃を受けたが、明治初頭、日本初の本格的な造幣工場「大阪造幣寮」が開業し、東洋一の規模を誇る大阪砲兵工廠などが置かれ重化学工業が進展し、その後紡績業の発展で日本における産業革命の中心となった。 大正末期には市域を拡張して“大大阪”に成長し、最盛期の人口は300万人に達した。

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大大阪の時代 郊外住宅のくらし③(交差法)
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大大阪の時代 郊外住宅のくらし③(平行法)

大正から昭和にかけての大阪は「大大阪」という呼び名のもと、商・工業の発展に、市域拡張に、都市計画事業の推進に全力をあげた。御堂筋の拡幅や地下鉄の建設など現在に通じる大阪の原型が完成していくとともに、大阪市内は人口過密となり、環境の良い郊外に商人やサラリーマンが移り住み、都市生活の憧れとなった。展示では千里山住宅地の再現を含め、当時の大阪の住宅を展示している。

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阪神電鉄「旧梅田駅停留場」ジオラマ模型②(交差法)
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阪神電鉄「旧梅田駅停留場」ジオラマ模型②(平行法)

阪神電鉄「旧梅田駅停留場」のジオラマ模型は、1926年(大正15年)に改築して駅舎が二階建てになった当時を再現しており、1914年(大正3年)から現在の梅田地下駅が完成する1939年(昭和14年)年まで本線のターミナルとして存在した駅舎である。

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阪神電鉄「旧梅田駅停留場」ジオラマ模型①(交差法)
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阪神電鉄「旧梅田駅停留場」ジオラマ模型①(平行法)

よく見ると“鳴尾名物いちごがり”と看板に表記されているが、1904年(明治37年)、鎌倉作蔵という人が鳴尾で苺の栽培を始め、1919年(大正8年)には、阪神電鉄とタイアップして苺狩りが始まり、昭和初期には全盛期を迎え、鳴尾の苺は有名になったとのこと。

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昭和レトロ神機(交差法)
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昭和レトロ神機(平行法)

1995年(平成7年)1月17日の阪神淡路大震災以降、代々大切に保管されていた足踏みミシン、白黒テレビ、真空管ラジオ、黒電話などの昭和の神機を、大阪市に寄贈されたものも展示されていた。10階から観てきた時空の展示の旅は、現代に繋がる懐かしいレトロな時代の大阪を展示した「近代・現代フロア」の7階で終着する。

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NHK大阪放送局 「軍師官兵衛」小道具(交差法)
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NHK大阪放送局 「軍師官兵衛」小道具(平行法)

1階に降りて、NHK大阪放送局と繋がるアトリウムでは、現在放送中の大河ドラマ「軍師官兵衛」の番組紹介パネル等の展示とともに黒田官兵衛や織田信長他の衣装・圧切・扇・軍配などの小道具や、出演者のサイン色紙などが展示されていた。

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黒田勘兵衛の太刀「助宗」(交差法)
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黒田勘兵衛の太刀「助宗」(平行法)

大阪歴史博物館内にも黒田家に伝来した重要文化財の太刀「助宗」、大小を成す脇差、これらを収める黒塗の大小拵も特別に展示されていた。「大坂の陣400年プロジェクト」などもあり、今年から来年かけて、大阪は日本史の話題の中心となることが推察できる。

大坂夏の陣図屏風
大坂夏の陣図屏風

大阪は、明治の頃には“水の都”と呼ばれ、古くは難波津と呼ばれた港が大陸、諸国との交易拠点として栄えた飛鳥時代まで遡る。太古、聖地と考えられていた上町台地は、その昔は沈まぬ島だったと云う説もあり、大阪(大坂)の歴史発祥の要所として、聖なるパワーや水運に支えられて経済と文化の中心的都市として発展したと云われている。

大阪歴史博物館・難波宮跡公園・大阪城
大阪歴史博物館・難波宮・大阪城

その歴史を『大阪歴史博物館』は、リアルで等身大の再現セット、ジオラマ模型、立版古などを駆使して興味深く解説している。大阪の歴史は、ドラマチックであり、ミステリアスでもあるのだが、今まで訪れた場所の成り立ちや結びつきを理解し、今まで以上にこの街への愛着と興味を強く抱く機会になった。
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05 2014
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MOTO

Author:MOTO
広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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