3Dアクアテラリウム

立体写真による探訪記と恐竜ジオラマのアクアテラリウムと駄文のブログ

 

広島初優勝を支えた人物のもうひとつの姿(W・スパーン編)

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今シーズンの広島カープは近年にない好調な滑り出しで今週には7年ぶりの首位の位置に着いた。まだシーズンは始ったばかりの序盤とは言え、ここ数年間殆ど負け数の借金状態が続いたので、例え短期間だとしても気分が良い。まぁレベル的には浮かれている訳にはいかないが、投手陣が少しずつ整ってきたことが大きい。昨年の沢村賞エースのマエケンに続けと若い先発ピッチャーが徐々に力をつけてきており、中継ぎ~抑えの布陣も健闘している。長いペナントレースにおいては投手陣の充実こそが勝負の行方を左右するものである。

1975年、広島初優勝の年の投手陣はどうだったのだろう?当時と最近の投手起用法には随分差があり、一概に比較にならないかも知れないが、シーズン開幕前の評判は芳しくなかった。というのもルーツが監督に就任するや否や大胆にトレードを敢行し血の入れ替えを断行した。日本ハムの大下剛史や新外国人選手等の野手陣はともかくとして、投手陣は前年20勝の金城基泰が交通事故の為に視力障害に陥り開幕は絶望的になっただけでなく、安仁屋宗八・白石静生・大石弥太郎の主戦級をトレード放出し、一昨年19勝の佐伯和司は翌年絶不調で2勝、前年二桁勝利は外木場義郎(18勝16敗)のみというスタッフで開幕を迎える状況に対して、広島地元紙の中国新聞では”破壊寸前の投手陣”などと早くもルーツ監督批判が囁かれていた。

地元の広島ファンは外国人のルーツに対して馴染み選手に関わらず積極的にトレードを進めることに対する違和感を覚えていた。不可解と思えるチーム編成だけにとどまらず、なんと帽子の色まで赤色に変えると言っている。まるで自宅にズケズケと入ってきて勝手に掻き回されるような感情を抱いたのかも知れない。広島球団も遂に万策尽きて訳のわからない外人を監督に起用し、赤い帽子をかぶって奇を衒った話題作りに走るしかないのかと絶望したファンも少なからずいたであろう。

しかしルーツにはとっておきの秘策があった。ルーツがインディアンスのコーチ時代の同僚であるウォーレン・スパーン(Warren Edward Spahn )をキャンプ期間中の臨時コーチに招き、ペナントレースを乗り切るための投手陣を構築することを目論んでいたのである。

ルーツ監督のもと新生カープの日南キャンプがスタートした。ルーツはフィジカル面はキャンプ前の自主トレ期間に終え、キャンプはメンタル面を重視した実戦への調整・準備として捉えていたという。三年連続最下位のチームに対して「優勝するために・・・」を何度も繰り返し、それはまるでチームを洗脳していくようであったと云われている。例えば評論家の戦力評でいう”唯一の頼り”である外木場に対しては「エースとしてローテションの柱になり20勝してくれ。」と伝え、当時エースはここぞという場面でのストッパーも当たり前にこなしていた時代だったが、先発以外はさせないことを約束し、スパーンに対して中三日~四日で先発完投する為の調整・準備を要請した。
しかしカープの日南キャンプを取材した野球評論家は”前年から別段戦力アップしていない。広島と大洋(現横浜)が最下位争い。”とコメントするだけで話題は赤い帽子と監督が日本球界初の外人であることぐらいしか注目を浴びなかった。

スパーン臨時コーチとルーツ監督                       外木場の投球練習を見守るスパーン臨時コーチ
ウォーレン・スパーン臨時コーチ時代

スパーンのコーチングは丁寧で分かりやすく選手の間では好評だった。当時53歳のスパーンは時には自らピッチングを披露しながら指導した。シーズンに入ってみると外木場こそ順調な滑り出しをしたが、佐伯がたまに好投する程度で、その他の試合は小刻みに何人ものピッチャーを注ぎ込む状態が続いた。開幕前の予想通りの破壊寸前の投手陣を露呈する形になったが、その中で入団二年目の池谷公二郎がプロ入り初の完封勝利を境にローテーションの一角に収まった。又、白石・大石との交換トレードで阪急から移籍した宮本幸信・渡辺弘基が共にリリーフとして粘り強い投球をするようになってきた。

外木場・池谷・佐伯
外木場・池谷・佐伯
ルーツが突然退団し、古葉監督体制に入ってからは、外木場・池谷・佐伯の先発三本柱としてローテーションが確立され、連日のリリーフ登板で疲労が蓄積した宮本に代わり、8月には前年最多勝の金城が抑えの切り札として復活する。結果的にこの年の広島の先発ローテーション投手は、外木場 20勝13敗・池谷18勝11敗(1S)・佐伯15勝10敗という抜群の成績を収めた。ルーツにコーチを頼まれたスパーンは破壊寸前の投手陣と言われたメンバーを鍛え上げた結果、当時日本球界ではまだまだ確立されていなかった投手分業の草分け的な成功例に結びついたのである。

スパーンは開幕戦の外木場の好投を見届けて「ソト、あとたった19勝だけたぞ!」と激励して帰国した。秋には海の向こうに朗報も届いた。ルーツが招いた人物ではあったが、古葉監督は翌年の日南キャンプにもスパーンを臨時コーチとして招いている。当時小学6年生だった私は広島ローカルのニュースでスパーン氏が”往年の名投手”と表現されていたことをかすかに記憶しているが、全国的にはさほど話題にならなかったので果たして如何程のものだろうか?と思ったものである。思えば当時はそれぐらい広島球団が脚光を浴びることが無かったのである。1977年頃からメジャーリーグ中継が日本でも放送され始め、メジャーの野球の魅力にハマって以来、メジャーリーグに関する雑誌を読みあさるようになるのだが、そのうちにスパーン氏は想像以上にとんでもない大物であることが判ったのだ。カープの日南キャンプに参加した53歳の時には既に殿堂入りしており、昔の友人の誘いに気安く応じて広島カープという日本の地方都市球団のキャンプのコーチをする人物とは思えない歴史がそこにはあった。

ウォーレン・スパーンは元メジャーリーグの投手で通算勝利数363は左腕投手としては歴代1位の記録。1973年に野球殿堂入りを果たした。1940年にボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)とプロ契約を結び、1942年にメジャーデビューを果たす。

しかし直後の1943年から1945年までの3年間は、兵役義務のために陸軍に従軍し、野球から離れる。この時ヨーロッパ戦線で負傷するも戦功を認められ、パープルハート章と青銅星章を受勲した。

野球界復帰後は、その現役時代のほとんどでブレーブスに所属し、チームのボストンからミルウォーキーへの移転も経験する。ワールドシリーズには1948年、1957年、1958年に出場、1946年から1948年にかけては、もう一人の20勝投手ジョニー・セインと共に二本の大黒柱として活躍する。1947年には地元ボストンの新聞に「Spahn and Sain and pray for rain.(スパーンとセインで勝ったら、あとは雨(での試合中止)を祈れ)」という見出しが載るなど、両投手共に大車輪の活躍で、1948年にはチームを34年振りのリーグ優勝に導いた。尚、1953年には投手として初めて年俸10万ドルを手にするが、これは、スパーンが観客動員に応じたインセンティブ契約を球団と結んでいたところ、チームがミルウォーキーに移転して飛躍的に観客動員が増加したためである。

1965年にニューヨーク・メッツとサンフランシスコ・ジャイアンツに所属し、同年にメジャーリーグからは引退するが、その後数年間はメキシカンリーグでも投げた。現役21年間のうち年間20勝以上を13回達成し、そのうち42歳のときに23勝を記録するなど、息の長い活躍を続けた。通算勝利は363で、前述の通り左腕投手としては歴代1位であり、全体でみてもサイ・ヤング(511)、ウォルター・ジョンソン(417)、ピート・アレクサンダー(373)、クリスティ・マシューソン(373)、パッド・ガルヴィン(364)に次ぐ歴代6位の実績を誇る。

前述にある1973年の野球殿堂入りに関して、現役時代、セントルイス・カージナルスのスタン・ミュージアルはスパーンを評して、「スパーンは絶対に殿堂入りする事はないだろう。なぜなら彼はずっと投手であり続けるからだ。」という発言をしており、一面でそれを裏付けるような長い現役生活の末の殿堂入りだった。また、ブレーブスを退団した1965年には、スパーンの背番号『21』はブレーブス初の永久欠番となっている。

1999年にはスパーンの功績を称え、シーズンで最も活躍した左腕投手に贈られるウォーレン・スパーン賞(Warren Spahn Award)がオクラホマ・スポーツ博物館によって創成された。

ウォーレン・スパーン ヒストリー
ウォーレン・スパーン ヒストリー

上の写真のような豪快で独特の投球フォームは日南キャンプでも披露されたが、インディアンスのコーチ時代の写真を見ると1975年の広島カープのユニフォームの色調と同じなのが興味深い。この頃、同じくインディアンスのコーチだったルーツとスパーンはこのユニフォームを着て日夜野球談議を交わしていたのであろう。この写真の近い将来にルーツに誘われ、再び赤い帽子をかぶってコーチすることを運命づけているように感じられる。

又、スパーンは長い現役の中でブレーブス時代にはまだルーキーだったジョー・トーレとバッテリーを組んでいたことも広く知られている。1974年巨人の長嶋選手が引退した年の秋にトーレはセントルイス・カージナルスからニューヨーク・メッツに移籍が決まっていたが、当時のメッツ打線は迫力に欠けていることを調査し、日米野球主催の読売新聞社から、メッツの選手として来日し巡業メンバーに加わるよう要請された。トーレは快く引き受け、まだ実践記録がないメッツのユニフォームを着て日本各地の試合で打ちまくり、巡業中に4割強の打率と5本のホームランという記録を残した。広島市民球場でも広島・巨人連合軍と対戦し、外木場からホームランを打っている(下記写真)。その僅か数か月後の翌2月には、スパーンがその外木場をコーチするために来日するという人生の交差にも各々の奇妙な縁を感じる。

※余談ではあるが、メッツの日本巡業はハンク・アーロンをゲストとして王貞治とホームラン競争を演じるなど話題も多く、何より既に引退発表した長嶋茂雄引退のお別れ挨拶巡業として各地で盛況であった。対メッツの日本代表チームに広島カープからは、日本ハムから移籍が決まったばかりの大下剛史が唯一選出され、濃紺色の帽子の時のカープのユニフォームを着て試合に臨んでいる。

ジョー・トーレ広島市民球場でのホームラン   (上)ギブソン・トーレ・スパーン(下)トーレ監督時代 メッツ・ヤンキース・ドジャース
ジョー・トーレ

ジョー・トーレは周知の通り、監督としてヤンキース時代には松井秀樹とドジャース時代には黒田博樹と深く関わっている。松井には「俺は長嶋を知っている。」と如何にも言ってそうだが、黒田には「君はスパーンを知っているか?」と訊いたら黒田は果たして何と答えただろうか?
スパーンはスポーティング・ニュース紙の企画「偉大な野球選手100人」において第21位に選出され、20世紀選抜チームにも選ばれた。2000年ミルウォーキーのカウンティー・スタジアム最終試合での始球式でのスパーンの姿をWEBで見たが、2003年に余生を過ごしていたオクラホマ州ブロークンアローの自宅にて老衰により82年の生涯を閉じた。

スパーンにコーチを依頼したルーツは、2008年に死去。満83歳没。奇しくも広島球団が本拠地として旧広島市民球場を使う最後の年に亡くなった。

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広島初優勝を支えた人物のもうひとつの姿(重松良典編)

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東日本大震災の影響で紆余曲折があったが、4月12日にセ・パ両リーグが同時開幕した。様々な制約の中でも是非とも感動に残るペナントレースを繰り広げてもらいたいものである。過去のペナントレースの中で私が最も熱狂し感動したシーズンは1975年の広島東洋カープの初優勝であるが、それは単純にカープのファンであっただけに留まらず、小学6年生だった私はその裏にある様々なエピソードに惹かれ、野球のゲーム以外の興味深い話が未だに脳裏に焼き付いているからである。当時印象に残った数々のエピソードの中から広島球団初優勝を支えた人物の中から、別の姿を持つ人物を回想してみることにした。
各々の人物は1975年の開幕時の監督であるジョー・ルーツ(Rollin Joseph "Joe" Lutz )との関わりから、広島球団は奇跡的な運命のペナントレースに導かれて行くことになる。

左より ルーツのセントルイス ブラウンズ時代 広島監督時代 初優勝の祝福の為、秋に再来日したとき(衣笠選手とともに)
Joe_Lutz.jpg

ルーツと広島球団との縁は根本陸夫監督時の広島球団がインディアンスのキャンプに参加し、当時インディアンスのコーチだったルーツと根本監督は連日の野球談議で意気投合し、後年に広島球団がルーツをコーチに招いたことからスタートする。根本監督は関根順三・広岡達郎をコーチングスタッフにし、当時、外木場義郎、衣笠祥雄、山本浩司(のち浩二)、三村敏之、水谷実雄らの有望若手を徹底的に鍛え上げ、新時代に備える力を徐々につけていたころである。

根本監督・関根コーチ・広岡コーチ               外木場のノーヒットノーランを祝福する根本監督・松田オーナー
根本監督

根本監督が退いた後、広島球団は低迷し遂に1972~1974年まで3年連続最下位というドン底に直面することになる。そのときに松田耕平オーナーは信頼する根本陸夫の助言とともにある人物の決断により、熱血コーチ故にチーム内で浮いていたジョー・ルーツ氏の監督就任が急転直下で決定する。
その決断をしたのは、東洋工業(前マツダ)の総務課長を経て、広島東洋カープ球団代表に抜擢され就任した重松良典である。
ルーツは前年のシーズンを通してチームで浮いていたこともあり、来季の契約を諦めて既に帰国の準備をしていたところ、現状打破の為には熱血的な指揮者による改革が必要との判断により監督就任を要請された。実のところ、広島球団内部では現役選手の山本一義を次期監督に推奨する声が多かったのだが、山本一義が現役続行に拘ったこともあり、重松代表はルーツに賭けて指揮を託すことを決断したのである。
ルーツはコーチングスタッフやトレード等の人事権を自分に与える条件に加えて、以前から激しいプレースタイルを評価し、チーム活性化の為に自軍への招聘を希望していた日本ハムの大下剛史選手を獲得することを条件に監督就任を引き受け、日本球界初の外国人監督が誕生することになる。
当時の日本ハムは大下以外は全員トレードなどの記事が流れたことより交渉は難航することを予測していたが、意外にも日本ハム側はすんなり交渉に応じた為、ルーツ監督就任から間髪入れず、大下の広島入団が発表されることになった。

大下剛史二塁手
大下剛

1975年のペナントレースは幕を開けた。ルーツの采配は明らかに昨年までの広島の戦い方とは違うが、なかなか巧く投打が噛み合わず、負けが先行する展開が続いた。又、ルーツは審判による弱小球団への不利な判定に対する意識が強く、判定に対しても激しく執拗に抗議した。当時の審判団はルーツ監督をトラブルメーカーとして要注意ターゲットとし、何かあれば即退場とすべきと申し合わせしていたとも言われている。

そのような状況下で事件が起きた。甲子園球場での対阪神戦でルーツの猛抗議に対して退場を命じられたにもかかわらず、ルーツはグラウンドから立ち退かなかった。困り果てた審判団は重松代表に説得を要請することでルーツをグラウンドから立ち退かせたのだった。
ルーツはグラウンドの全権を任されていることをフロントに侵されるのであれば一切の指揮は採れないとして、突然、退団してしまうことになる。

直後に重松代表はルーツとともに記者会見したが、当時 テレビや新聞で見る重松代表に感じられた印象は、人相が悪く、所謂”悪人顔”であり、スーツに身を包んだ現場を理解しない典型的なフロントタイプの人物に映ったのだ。

その後、新監督に古葉竹識が抜擢され、周知のごとく広島球団は徐々に上昇し、ペナントレースの首位争いを最後まで繰り広げることになっていく。9月に入ってから広島は殆ど負けなかったが、対抗馬の中日も与那嶺要監督の下、前年からの連覇を目指し、ぴったりと首位広島を追尾していた。そのような白熱した中、事件がまた起こったのである。

9月10日 広島市民球場での対中日戦の最終回のタッチプレーを巡る選手間の小競り合いを引き金に広島ファンがグラウンドに雪崩込み、中日選手に襲い掛かったのである。有名な話では広島出身タレントの風見しんごは当時中学一年生のカープファンとしてグラウンドで当時の中日のエース星野仙一に砂をかけたことを後年本人に伝え、星野から「あのときのガキはおまえだったのか!」というエピソードがある。当時、星野仙一は広島ファンと折り合いが悪く、客席に暴言を吐くこともよくあったらしい。

翌日のニュースでは包帯や絆創膏をした中日の選手がインタビューに答え、事態を重く捉えた広島球団は翌日の試合の中止を発表することになった。
不謹慎な発言かも知れないが、当時の中日選手の包帯や絆創膏は子供心にもいささかオーバー気味でまるでコントのように滑稽に感じられた。又、当時、心理的にも肉体的にもチームは疲労困憊であった為、中止により一戦休むことと、中日戦を最終に組み込まれたことが良い方向に作用したかも知れないと古葉監督は後年語っている。

球団創設以来、初めての優勝争いにファンも熱くなり、ある意味で危険な状態だったのかも知れない。この事件に対して重松代表は涙ながらに「情けない・・・・。」と反省していた。考えればルーツの退団といい、乱闘事件といい、球団代表も経験のない状況で戸惑いもあったであろうが、夏までに「今年は優勝するかも知れない。」という言葉から、この頃は既に「絶対に優勝するぞ!!」に変化していたから、監督も選手もファンもそして重松代表も初優勝への期待と共に逃げ場のない恐怖と表裏一体だったのかも知れない。

重松代表のシーズン回想 左よりルーツ退場(上) ルーツ退団(下) 古葉監督就任(上) 後年インタビューに答える重松良典(下) 9/10中日戦の乱闘と翌日の中止・球場でのファンへの呼びかけ(右上) チャンピオンフラッグと広島市民球場での優勝報告(右下) etc.
重松球団代表の回想

重松良典は広島初優勝後、1981年まで球団代表を務めた。思えば三年連続最下位の時代から、その後古葉監督体制で二年連続日本一まで味わう経験をしている。フロントの人間だけに地味にひっそりと身を引いた形になったが、後に見覚えのある顔にテレビで偶然遭遇し、重松良典という名前を見て驚いてしまった。
なんとテレビの紹介のテロップにはJリーグのベルマーレ平塚の球団社長となっているではないか。なぜあの重松さんがJリーグで?と自分の目を疑ったが、WEBで調べてみて長年の謎が解けたのである。そこには重松良典のまったく別の人生があった。

重松良典は元々サッカーの選手で大学を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。元サッカー日本代表。1965年日本サッカーリーグ(JSL)創設を実現させた人物。後に日本プロ野球界に転じ1975年の「赤ヘル旋風」時の広島東洋カープ球団代表としても著名。Jリーグ所属のベルマーレ平塚としての最後の社長でもある。
同1981年から、フジタ工業(現・フジタ)に転る。日本サッカー協会専務理事などを務め、1993年のJリーグの設立にかかわっている。在任中、1995年ネルシーニョの日本代表監督内定騒動(いわゆる「腐ったミカン」事件)もあった。

1997年からフジタの子会社でJリーグ・ベルマーレ平塚社長に就任した。同チームはこの時期黄金期を迎え、1998年のフランスW杯には小島伸幸、洪明甫、中田英寿、呂比須ワグナーと日韓合わせて4人の代表選手を輩出、Jリーグ上位に常にいるチームであった。1998年中田のイタリアセリエA所属のACペルージャ移籍にも尽力するとチーム成績が落ちていく。

翌1999年、フジタが経営の建て直しを図るためスポンサーから撤退したため経営不振に陥る。そのため主力のリストラを決行、結果J1で年間成績最下位となりJ2に降格、一時はチーム存続の危機が囁かれた。翌2000年新たに会社に移して「湘南ベルマーレ」にチーム名改称、ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新するものの、チーム成績は向上せず現場は混迷した。同年末に退任。
2000年、Jリーグ参与に就任。2002年のワールドカップ開催にも尽力した。
現在は、地元広島に在住とのことである。

元々アスリートであった重松代表は球技の違いはあれど、馴れ合い集団から真剣に優勝を目指すために改革していく工程においては適任者であったのかも知れない。
後年、NHKスペシャルの「赤ヘル旋風」でインタビューに答える顔は面影はそのままだが、人相の悪い”悪人顔”は優しそうなおじいちゃんの表情に変わっていた。ルーツの退団に対するいきさつも言い訳一つするわけでなく、自身の配慮が欠けていたことを謙虚に反省していた。子供のときにはまったく想像できなかったが、アスリートとしての魂を持ち、現場に精通した優れた管理者だったのかも知れない。

今回は重松良典氏のプロサッカーとプロ野球との関わりという数奇な人生経験に敬意を表してサッカースタジアムのコラージューで閉めることにした。
【Stadium】
Stadium.jpg

アクアテラリウム入院を偲ぶ

Edit Category アクアテラリウム
4月9日の朝、アテラリサーチの村岡店長と久しぶりに再会した。東日本大震災の激しい揺れの為、スチロール部分が露出し、アクアテラリウムの”地面”の分裂を修復して頂く為に一旦引き取って頂く為である。久しぶりの村岡店長と積もる話もありながら、忙しい様子で早々に引き揚げていった。一先ず慣れしたんだアクアテラリウムと暫しお別れとなる。部屋からアクアテラリウムが無くなると想像以上に淋しく感じてしまう。幸い地表部分の無傷な状況を見て、「大事に手入れしてますねぇ。」とお褒めの言葉を頂いた。
きっといや必ずや元気な姿で我家に復帰することを祈って已まない。

アクアテラリウムの損傷状態(交差法)
アクアテラリウム11.04.09(交差法)
アクアテラリウムの損傷状態(平行法)
アクアテラリウム11.04.09(平行法)

さて、大切なアクアテラリウムが入院中に元気な姿を偲ぶ為、前々回に紹介したスマートフォンのアプリの【Photo Funia】で様々なコラージュを楽しんでみた。本来このアプリは、スマートフォンで撮った写真をリアルにオーバーにシュールに編集することを楽しむことがメインなのだが、自身のアクアテラリウムがジオラマ風であることを活かして、恐竜のいる本物のジャングルの写真と見立てて、ポスターや街の看板や新聞や雑誌の写真風に捉えてみるとなかなかの作品になるのである。冷静に考えれば、何故ファッション雑誌の表紙やショッピングモールの看板がT・REXだったりするのは明らかに違和感があるのだが、各々の色調や処理やスケール感が意外に風景にフィットして溶け込んでいくのである。まぁ、自身のアクアテラリウムが究極の自己満足なのだが、この作品群も其れに匹敵する自己満足作品なのである。だから”くだらん”と思う者はまったく興味は湧かないのだろうが、そんなことを気にしていては、こんな自己中心なブログなんて続ける必要ないのである。ハマってしまってついつい100枚を超過する数の写真を作ってしまったが、少しずつでもこのブログで何気なく自然に掲載していきたいと思っている。今回は【Photo Funia】がどんな性質なのかを紹介するべく、コラージュでなくベーシックな処理を施した作品を掲載することにした。

【Base Photo】
Base Photo
【Classic Frame】
Classic Frame
【Film Effect】
Film Effect
【Flares】
Flares.jpg
【Glass】
Glass.jpg
【Lego Portrait】
Lego Portrait
【Engravement】
Engravement.jpg
【Pencil Drawing】
Pencil Drawing
【Vintage Photo】
Vintage Photo
【Watercolor】
Watercolor.jpg
【Puzzle】
Puzzle.jpg

緑の草木と褐色の恐竜と岩がうまくマッチした原画だけに色調の微妙な表現変化が楽しめるし、恐竜という古代の生物が被写体だけにわざと古びてみせるモノクロ写真も妙に説得力もある。残念ながらT・REXが写真のような姿勢を描いた画は古くは存在しなかった筈である。最もお気に入りはパズルの処理である。実際に販売されても違和感がないように思う。ありそうで絶対にあり得ないのはクラシックフレームかな。恐竜を描いた油絵を立派なフレームで展示していたら実際には笑えるだろう。でも色調としては趣き深い絵画になることには違いないであろうが・・・・。

今後はコラージュ作品を少しずつ掲載しながら、アクアテラリウムの完全復帰をじっくり待つことにする。

実家の新しい仏壇

Edit Category 未分類
父の四十九日の法要のため、尾道に帰省した。四十九日とは、人は死後、魂を清めて仏になる為に中陰の道を歩き、あの世を目指す。その所々に審判の門があり、生前の罪が裁かれる。罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。それが7日毎に行う法要である。また四週目と五週目の法要の間に、最初の月命日が来る、ということである。
四十九日の法要に合わせて位牌を準備する必要があるが、実家は分家であったため、今まで仏壇の無い家庭であった。位牌だけ準備するわけにもいかず、母と相談して、仏壇を購入して四十九日の法要を迎えることにした。
今まで仏壇が無い家庭に育ったこともあり、殆ど仏具に対する興味は湧かなかったのだが、購入時にいろいろな説明を聞いているうちに、工芸品としての興味が湧いてきた。他の商品と同じく、仏壇も今や殆どが輸入品を占めるマーケットとなっているようであるが、その反面で根強い国産品への愛着もあるようだ。予算との折り合いの中で仏壇の産地として名高い徳島の唐木仏壇を購入することにした。

実家の仏壇(交差法)
仏壇①11.04.02(交差法)

実家の仏壇(平行法)
仏壇①11.04.02(平行法)

我家の宗派は曹洞宗であるが、本当のところ、殆ど曹洞宗に関する知識はなかった。仏壇を購入する際に宗派による仏壇の飾り方の違いを説明され、「へぇ~っ、同じ仏教でも一つ一つ細かく違うのかぁ。」と感心してしまった。如何に宗教に無縁な環境で育ったか、我ながら感心してしまう。しかしよく見てみると仏壇ってそこそこの価格がするだけあって、工芸品としては実に魅力的なものなのかということもあらためて感じてしまったのである。
精巧なドールハウスのようであり、仏像には雛人形や五月人形とはまったく異なる威厳を感じてしまう。

曹洞宗仏壇の飾り方

仏器のひとつひとつも見た目以上にずっしり重く、デザインも和の要素のみならず、中国やインドの工芸品的な要素もある。曹洞宗の三尊仏である釈迦牟尼仏陀・瑩山禅師・道元禅師も最低限掛け軸でも構わないのだが、ご本尊はやはりフィギュアである仏像の方が仏壇らしいと思い、母に仏像の購入も提案した。

ご本尊 南無釈迦牟尼仏
ご本尊 南無釈迦牟尼仏 
太祖 常済大師瑩山禅師
太祖 常済大師瑩山禅師
高祖 承陽大師道元禅師
高祖 承陽大師道元禅師

実家に戻って仏壇の中にある釈迦牟尼仏像の彫刻の細かさに思わず唸ってしまった。木彫りの手作りだけに一つ一つの表情は違ってくるが、実に穏やかな顔をしている。髪の毛の巻き毛(パンチパーマ)の表現も秀逸である。年月が経つと色も変わり更に趣が増すとのこと。
フィギュアやジオラマ模型が好きな私にとって、その装飾や造りが立体写真の被写体に最適でもあり、仏壇の魅力に気付くまでに元々そんなに時間が掛からなかったのかも知れない。
今まで寺巡りなど殆ど興味はかったのだが、建造物や建築様式に焦点を当ててみたり、その歴史的意義などを調べてみたりしてみれば、仏壇や仏具のように興味が持てるかもしれない。それを立体写真で堪能するのも想像以上に面白いかも知れない。

釈迦牟尼仏像(交差法)
仏壇②11.04.02(交差法)
釈迦牟尼仏像(平行法)
仏壇②11.04.02(平行法)

父の死後の四十九日間の修行は果たしてどのようなものだったのだろう。大工職人だっただけに材木の種類や細かい装飾などには口うるさかっただけに、そのあたりには拘って仏壇を選んだつもりだが、その甲斐あって、お釈迦様に導かれて極楽浄土へ向かって歩んでいって欲しいものである。
 
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広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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