3Dアクアテラリウム

立体写真による探訪記と恐竜ジオラマのアクアテラリウムと駄文のブログ

 

天空の聖地

Edit Category ウォーキング
ゴールデンウイーク期間中、天気予報で晴天の日を選んで、以前から訪れたいと思っていた高野山に嫁さんと出掛けることにした。ゴールデンウイークには毎年日帰りでどこかに出掛けており、一昨年は大学最終年度の息子も一緒に伊勢神宮を訪れたが、昨年は“ギックリ腰”でどこにも行けなかった。ゴールデンウイーク期間はどこでも人が多くてごった返すものだが、高地で涼しい高野山で日頃の運動不足を解消するべく、ウォーキングの絶好の機会となれば幸いである。

高野山周辺MAP
高野山周辺MAP

高野山は、和歌山湾から約50km程内陸に位置する伊都郡高野町にある周囲1,000m級の山々に囲まれた標高約900mの平坦地に、壇上伽藍(だんじょうがらん)と称する根本道場を中心とする真言密教の総本山として開かれた宗教都市を形成し、真言宗の開創以来、武家、貴人、町民、貴賎の別なく、数多くの様々な人々から崇敬を受けてきた。現在も、政財界、スポーツ、芸能界等々、各界の様々な人々の崇敬を受け、多くの参詣者を集めている天空の聖地なのである。
高野山全体MAP

平安時代の816年(弘仁7年)嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、明治以前は高野山全体を総本山金剛峯寺と称し、奥之院と壇上伽藍を二大聖地として“一山境内地”とされていた。奥之院には、墓石群のほか慰霊碑や供養塔なども数多くあり、高野山が1200年継承してきた民族や宗教の違いに関わらず全てを受け入れる寛容な精神が宿っている。2004年(平成16年)高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件は、熊野、吉野・大峯と共に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界遺産に登録された。真言宗高野山の中心的寺院である金剛峯寺は、元々高野山の山全体を称し、真言宗の総本山としての高野山と同義であったが、明治になって豊臣秀吉が母親の菩提のため応其上人に命じて建立した青巖寺と興山寺を合併し、寺院の名として金剛峯寺と称するようになった。寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117ヶ寺に及びその約半数は宿坊を兼ねている。

高野山1dayチケット 高野山1dayチケット2

高野山に出掛ける当日は、休日にも拘らず少し早めに起床した。京阪電鉄 京橋駅で、「高野山1dayチケット」を購入し、御堂筋線で淀屋橋~難波へ移動し、南海電鉄 難波駅に到着した。「高野山1dayチケット」は、高野山を訪れる乗客に向けて、京阪電車全線、大阪地下鉄、南海難波~高野山、南海バス高野山路線の乗り放題の乗車券と優待クーポンがセットになったチケットで、4月1日~6月30日の春季と10月1日~11月30日の秋季の期間内の任意の一日に有効になる。

京阪電車 「高野山1dayチケット」

「高野山1dayチケット」は、大阪市交通局・近畿日本鉄道・京阪電気鉄道・南海電気鉄道・能勢電鉄・阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道・北大阪急行電鉄及び大阪高速鉄道(大阪モノレール)が各々の設定料金で発売しており、クーポン券利用可能箇所にも微妙な違いもある。金剛峯寺、金堂、根本大塔、高野山霊宝館の拝観料が2割引となる他、お茶券(金剛峰寺で使用可能)飲食・土産購入割引(1割引)の店舗もある。

南海高野線

南海電鉄 難波駅の高野線ホームで急行電車に乗り、暫く出発時刻を待つことになったが、瞬く間に吊り革も余らない状態になるまで乗客が増えていった。早めに到着したので運良く座れたが、極楽橋に到着するまでの1時間強の道程を“立ったまま”というのはさすがにしんどい。更には関西の大手私鉄の中で、今まで殆ど縁が無かった南海電鉄は、途中停車する駅名もあまり馴染みが無い。社内で河内長野から通う人がいるが、想像以上に大阪市内から離れていたので少々驚いた。

南海電鉄急行(高野山極楽橋連絡) 橋本行き(左)/南海電鉄 真田赤備え列車(右)
急行(高野山極楽橋連絡) 橋本行き 南海電鉄 真田赤備え列車

橋本駅を通過すると線路は完全に登山の傾斜に変わり、速度も落ちてゆっくりと進むようになった。満員の電車の車窓から少しだけ見える眺望は刻々と変化していく。真田幸村(信繁)が関ヶ原の合戦の後、父 真田昌幸と幽閉されていたゆかりの地となる九度山駅では、赤備えに六文銭と結び雁金が描かれた仕様の真田赤備え列車が停車していた。ゴールデンウイークでもあり、昨年好評だったNHK大河ドラマ「真田丸」に因んだイベントが催されているのであろう。電車は更に勾配が急な線路を辛そうに進み、ようやく終点の極楽橋駅に到着した。

(交差法)
南海高野線 極楽橋駅①(交差法)
(平行法)
南海高野線 極楽橋駅①(平行法)

(交差法)
南海鋼索線 極楽橋駅①(交差法)
(平行法)
南海鋼索線 極楽橋駅①(平行法)

(交差法)
南海鋼索線 極楽橋駅②(交差法)
(平行法)
南海鋼索線 極楽橋駅②(平行法)

(交差法)
南海鋼索線 極楽橋駅③(交差法)
(平行法)
南海鋼索線 極楽橋駅③(平行法)

南海高野線の終着駅 極楽橋駅との接続便となる南海鋼索線のケーブルカーで高野山駅まで上るのだが、この日は来訪者が多い為、急遽、臨時増便していたので、人が溢れる1便目を見送り2便目に乗車し、最下部の窓ガラスを解放した位置から撮影することが出来た。高野山ケーブル(南海鋼索線)は、標高539mの極楽橋駅と標高867mの880mの間の高低差328mを結ぶ急勾配を5分で一気に上る。

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル①(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル①(平行法)

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル②(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル②(平行法)

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル③(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル③(平行法)

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル④(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル④(平行法)

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル⑤(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル⑤(平行法)

高野山ケーブルの最大勾配は568.2‰(29°22')、最緩勾配でも273.9‰(15°19')は、高尾山ケーブルカー(608‰)立山黒部貫光(587‰)に次ぐ国内有数の急峻な軌道となっている。開業は 1930 年(昭和5年)、1965年(昭和40年)高野山1150年記念大法会に備え、2両連結260人乗りの当時日本最大級の設備を増備した。現在の車両は、当時のものを保守し続けて使用している。

(交差法)
南海鋼索線 高野山駅(交差法)
(平行法)
南海鋼索線 高野山駅(平行法)

極楽橋駅では高野線の列車と接続しており、高野山駅では金剛峯寺などがある高野町の中心部とを結ぶ南海りんかんバスの路線バスと接続している。高野山駅舎は、高野山開創1200年記念大法会に合わせてリニューアルされた。山内へはさらにバスを乗り継いで、バス専用道は女人堂に出る。国道480号を経由して大門へ出る道は時間は掛かるが徒歩でも可能とのことで、歩いてチャレンジしている人をバスの車窓からも幾人か見受けた。

(交差法)
女人堂(交差法)
(平行法)
女人堂(平行法)

女人堂は、女人禁制の時代では女性はこの場所までしか入れなかったとされている。古くは高野山の街道の入口に各々あったらしいが、現在は1つしか残っていない。ここでは、大日如来を祀っている。

(交差法)
浪切不動 南院(交差法)
(平行法)
浪切不動 南院(平行法)

1643年(寛永20年)三代将軍家光が建立した江戸時代の代表的な建築物である徳川家霊台の隣に位置する南院には、弘法大師空海が唐からの帰国途中に嵐に遭った際、師から授かった霊木に“一刀三礼”にて不動明王を刻んで祈願すると不動明王が火焰を放ち、利剣で波を切り裂いて空海一行を導いたと云われる浪切不動明王を御本尊とする。

(交差法)
普賢院(交差法)
(平行法)
普賢院(平行法)

高野山のほぼ中央に位置する普賢院は、紀伊續風土記によると大治年間(1126年~1131年)に覚王親王が高野山に登られた折、念持仏の普賢菩薩を力乗上人に与えて院を開いたと伝わる。高野山の山内では52ヶ寺が宿坊を提供しており、高野山参詣する人の宿坊として、200名を収容できる別棟研修道場「力乗殿」では、各種セミナーや研修会場としても利用されている。

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高野山開創1200年ギャラリー(交差法)
(平行法)
高野山開創1200年ギャラリー(平行法)

高野山開創1200年を記念する主要事業として、1843年(天保14年)に焼失した壇上伽藍の中門(ちゅうもん)が172年振りに再建された。新たな中門は、鎌倉時代の建築様式をもとに東西25m、南北15m、高さ16mの規模で設計され、中門の作業館で檀上伽藍に再建された後、高野山開創1200年記念大法会の初日、平成27年4月2日には、開創大法会開白・中門落慶大曼荼羅供が執り行われた。作業館だった建築物は、現在「高野山開創1200年ギャラリー」として、高野山の様々な写真が展示される空間となっている。

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大門①(交差法)
(平行法)
大門①(平行法)

高野山内への西の入り口となる丹(に)塗りの大門は、高野山全体の総門であり、この場所から数百m下方の旧道の九折谷の鳥居が高野山の総門の前身と云われている。1141年(永治元年)現在の位置に移された際、鳥居から門の形式に変更となり、1230年(寛喜2年)五間二階の楼門に改められたと記録されている。1577年(天正5年)焼失したが、1640年(慶長9年)木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって再建された。

(交差法)
大門②(交差法)
(平行法)
大門②(平行法)

現在の大門は、1688年(元禄元年)焼失後に1705年(宝永2年)再建されたもの。1818年(文政元年)屋根、箱棟の修理が行われ、1895年(明治28年)屋根の部分修理および二階の縁廻り、一階側柱の根継が行われており、1986年(昭和61年)全面解体修理が施され、白木の状態であった表面を丹塗りとし、昔の状態に戻された。他にも見たことのない巨大な門は、少々の距離ではカメラのフレームに収まらず、あらためて大門から離れて撮影しなければならないほどの圧倒的な大きさであった。

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大門 金剛力士像 阿形(交差法)
(平行法)
大門 金剛力士像 阿形(平行法)

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大門 金剛力士像 吽形(交差法)
(平行法)
大門 金剛力士像 吽形(平行法)

大門の仁王像(金剛力士立像)は、阿形像の像高は5.46m、吽形像の像高は5.58mあり、奈良の東大寺南大門の仁王像に次ぐ巨像と云われる。向かって右の阿形像は、京都の仏師であり高野山大仏師をも名乗った康意が造立し、吽形像は同じく京都五条の仏師、運長が造立したことが胎内の背位置に留められていた銘札から判明した。

(交差法)
高野山 参詣道路①(交差法)
(平行法)
高野山 参詣道路①(平行法)

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高野山 参詣道路②(交差法)
(平行法)
高野山 参詣道路②(平行法)

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高野山 参詣道路 南峰堂本舗(交差法)
(平行法)
高野山 参詣道路 南峰堂本舗(平行法)

この時点で既に正午を過ぎていたが、予定していた「高野山1dayチケット」の割引対象であった釜飯「つくも」は既に長蛇の列が出来ており、店でも釜飯メニューは暫く時間が掛かる旨を説明していた。ゴールデンウイークなので混むのは仕方ないが、折角の高野山探訪の時間軸を意識して、参詣道路を挟んで斜め向かいにある「南峰堂本舗」で餅や饅頭を購入して腹ごしらえすることにした。焼き餅、草餅、名物の酒饅頭は、餡の味覚が各々違って“美味い”と満足できるものであった。

壇上伽藍
壇上伽藍 境内図

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壇上伽藍 中門①(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 中門①(平行法)

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壇上伽藍 中門②(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 中門②(平行法)

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壇上伽藍 根本大塔②(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 根本大塔②(平行法)

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壇上伽藍 大灯篭・金堂・根本大塔・御影堂(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 大灯篭・金堂・根本大塔・御影堂(平行法)

壇場伽藍(壇上伽藍)は、一般寺院でいう本堂の区画を指しており、国の史跡、世界遺産でもある。弘法大師が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(他方は奥の院)。高野山開創1200年を記念する主要事業として172年振りに再建された色鮮やかな中門を潜ると、境内には根本大塔(こんぽんだいとう)、金堂(こんどう)、御影堂(みえどう)、不動堂(ふどうどう ※国宝)など19の建造物が建ち並び、高野山のイメージの景観が眼の前に広がる。

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壇上伽藍 根本大塔①(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 根本大塔①(平行法)

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壇上伽藍 准胝堂・御影堂・根本大塔(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 准胝堂・御影堂・根本大塔(平行法)

根本大塔は、空海が816年(弘仁7年)高野山開創の勅許を得たのち建立に着手し、没後半世紀を経て完成した。現在の建物は1932年(昭和7年)に着工し、6年後に完成した。真言密教の根本道場のシンボルとして建てられた日本で最初の多宝塔であり、高野山のパンフレットやポスターなどの写真でお馴染である。写真イメージと同じく、晴天の青空が背景となり朱色の鮮やかさが際立つ。この場所を訪れる際、是非天気を確認して訪れることをお勧めしたい。

根本大塔(左)/浄土寺 多宝塔(右)
根本大塔① 尾道市 浄土寺多宝塔①

根本大塔 浄土寺多宝塔 比較
根本大塔(左)・浄土寺 多宝塔(右) 大きさ比較

根本大塔(左)/浄土寺 多宝塔(右)
根本大塔② 尾道市 浄土寺多宝塔②

外観の形状や色彩は、故郷 尾道の浄土寺の多宝塔(国宝)と酷似していると感じていたのだが、高く聳える多宝塔を目の当たりにして、想像を絶する大きさに驚愕した。浄土寺 多宝塔の高さは20.5mに対して、根本大塔は高さ48.5mもあり、見上げる首の角度がまるで違う程、巨大な多宝塔なのである。

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壇上伽藍 金堂(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 金堂(平行法)

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壇上伽藍 御影堂・金堂(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 御影堂・金堂(平行法)

伽藍の中央にある金堂は、1926年(昭和元年)に焼失後、1934年(昭和9年)に再建された鉄筋コンクリート造、屋根は入母屋造の建築で8代目になる。高野山の総本堂として重要な行事の殆どが執り行われ、御本尊は秘仏となっている薬師如来である。

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壇上伽藍 御影堂①(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 御影堂①(平行法)

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壇上伽藍 御影堂②(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 御影堂②(平行法)

弘法大師伝説の三鈷の松や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。御影堂は、弘法大師が住んでいたとされるお堂で、弘法大師の御影が祀られてから御影堂と称されるようになる。御逮夜法会(おたいやほうえ)の後のみ、一般内拝が許されている。

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壇上伽藍 御影堂・三鈷の松・根本大塔(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 御影堂・三鈷の松・根本大塔(平行法)

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壇上伽藍 准胝堂・御影堂・根本大塔・三鈷の松(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 准胝堂・御影堂・根本大塔・三鈷の松(平行法)

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壇上伽藍 准胝堂・孔雀堂(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 准胝堂・孔雀堂(平行法)

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壇上伽藍 西塔(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 西塔(平行法)

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壇上伽藍 山王院拝殿(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 山王院拝殿(平行法)

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壇上伽藍 六角経蔵(交差法)
(平行法)
壇上伽藍 六角経蔵(平行法)

六角経蔵は鳥羽法皇の菩提を弔うため に、皇后の美福門院が、1159年(平治元年)に建立した経蔵である。 美福門院は高野山に深く帰依しており、この経蔵に納める一切経のため、紀州 荒川の荘園を高野山に寄進したことから、荒川経蔵とも称される。基壇付近の把手を押して一周回せば、お経を一回読むことと同じ効果があるとされ、近くに居合わせた人と自然に把手を押した。

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勧学院(交差法)
(平行法)
勧学院(平行法)

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明泉院・増福院(交差法)
(平行法)
明泉院・増福院(平行法)

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高野山 大師教会本部(交差法)
(平行法)
高野山 大師教会本部(平行法)

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釈迦文院前 居眠り小坊主像①(交差法)
(平行法)
釈迦文院前 居眠り小坊主像①(平行法)

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釈迦文院前 居眠り小坊主像②(交差法)
(平行法)
釈迦文院前 居眠り小坊主像②(平行法)

こうやくん「高野山開創1200年記念大法会」のイメージキャラクター  こうやくん

高野山開創1100年記念として1925年(大正14年)に建てられた大師教会では、写経や授戒体験を受けることが出来る。霊宝館前の道沿いのベンチには、小坊主が木魚を枕に居眠りしている石像も設置されており、愛らしい寝顔に癒される。歩いていると小坊主をモチーフにした「こうやくん」を各地で見掛ける。

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金剛峯寺 正門①(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 正門①(平行法)

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金剛峯寺 正門②(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 正門②(平行法)

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金剛峯寺 正門③(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 正門③(平行法)

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金剛峯寺 正門④(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 正門④(平行法)

総本山金剛峯寺は、国の史跡・世界遺産であり、冒頭の説明通り、元々高野山全体の称であったが、現在、1869年(明治2年)青巌寺と興山寺 (廃寺)の2つの寺院が合併したものを金剛峯寺と称している。金剛峯寺内の建物の中で一番古い建造物である正門は、1593年(文禄2年)に再建された。嘗て正門から出入りできるのは天皇・皇族、高野山の重職だけであったとのこと。

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金剛峯寺 主殿 大玄関(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 主殿 大玄関(平行法)

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金剛峯寺 主殿 大玄関・小玄関(交差法)
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金剛峯寺 主殿 大玄関・小玄関(平行法)

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金剛峯寺 主殿 檜皮葺の屋根・天水桶(交差法)
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金剛峯寺 主殿 檜皮葺の屋根・天水桶(平行法)

旧青巖寺(剃髪寺)は、1593年(文禄2年)豊臣秀吉の建立で、1863年(文久3年)再建された。歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌を祀っている。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、嘗ては高野山全域で見られたが現在も置かれているのはここのみとなる。主殿の正面には、大玄関・小玄関・一般拝観者入口の三つの入口があり「高野山1dayチケット」の拝観割引券を利用して主殿に入場した。

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金剛峯寺 主殿からの正門(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 主殿からの正門(平行法)

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金剛峯寺 枯山水小庭(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 枯山水小庭(平行法)

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金剛峯寺 蟠龍庭②(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 蟠龍庭②(平行法)

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金剛峯寺 蟠龍庭③(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 蟠龍庭③(平行法)

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金剛峯寺 蟠龍庭④(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 蟠龍庭④(平行法)

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金剛峯寺 蟠龍庭⑤(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 蟠龍庭⑤(平行法)

(交差法)
金剛峯寺 蟠龍庭⑥(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 蟠龍庭⑥(平行法)

襖に柳鷺図のある柳の間は、奇しくも前回記事の八幡山城の城主であった豊臣秀次の自刃の場所となる。回廊から嗜む枯山水小庭に思わず息を飲んだが、更に先に進んだ場所に拡がる蟠龍庭(2,340m2)は、日本最大の石庭として筆舌に尽くしがたい和の情緒に引き込まれる。

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金剛峯寺 新別館(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 新別館(平行法)

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金剛峯寺 御茶と麩菓子のおもてなし(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 御茶と麩菓子のおもてなし(平行法)

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金剛峯寺 蟠龍庭①(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 蟠龍庭①(平行法)

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金剛峯寺 中庭①(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 中庭①(平行法)

(交差法)
金剛峯寺 中庭②(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 中庭②(平行法)

回廊は大主殿、別殿、新別殿が繋がり、弘法大師像が掲げられた新別殿では参拝者への御茶と麩菓子のおもてなしがあり、想像より美味で、心が和むひとときを過ごせた。

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金剛峯寺 参拝者玄関建物二階の修行者住居(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 参拝者玄関建物二階の修行者住居(平行法)

(交差法)
金剛峯寺 会下門(交差法)
(平行法)
金剛峯寺 会下門(平行法)

(交差法)
蓮花院(交差法)
(平行法)
蓮花院(平行法)

(交差法)
高野山 小田原通り(交差法)
(平行法)
高野山 小田原通り(平行法)

会下門は、禅宗様式で、宗時代の禅宗が広まりこのような門が作られた。会下が残っている塔頭寺院も多い。金剛峯寺は会下門と会下(参詣者玄関の建物)は分離している。会下の二階は修行者の住居となる。

奥之院MAP

壇上伽藍とならぶ高野山の二大聖地である奥之院は弘法大師入定の地であり、一の橋から御廟まで2km近い参道を歩いて弘法大師が祀られる奥之院を多くの人が参拝する。杉の木立の合間を縫うように歩く参道は、高地にあることで夏でも涼やかな風が流れており、やがて辿り着く弘法大師御廟は大師信仰の中心聖地となる。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。

奥之院道程距離

奥の院参道には、樹齢約700年の杉木立が聳える森林の中、皇族、諸大名をはじめ、文人や庶民にいたるまで、多岐に亘る階層の人々の墓石や祈念碑、慰霊碑が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると云われており、戦国大名の6割以上の墓所が並び、高野山信仰の篤さを窺わせる。

(交差法)
奥之院参道① 一の橋(交差法)
(平行法)
奥之院参道① 一の橋(平行法)

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奥之院参道② 海軍第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔「あゝ同期の桜の塔」(交差法)
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奥之院参道② 海軍第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔「あゝ同期の桜の塔」(平行法)

一の橋をわたってすぐ左側の大圓院墓地には、海軍第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔「あゝ同期の桜の塔」が見えてくる。その隣には、映画「あゝ同期の桜」主演の俳優・歌手であった鶴田浩二の墓碑(1987年(昭和62年)没)がある。

(交差法)
奥之院参道③ 司馬遼太郎文学碑(交差法)
(平行法)
奥之院参道③ 司馬遼太郎文学碑(平行法)

司馬遼太郎文学碑は、2008年(平成20年)9月に建立された。司馬遼太郎のエッセイ「歴史の舞台-文明のさまざま」収録の「高野山管見」の冒頭部分「高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。山上はふしぎなほどに平坦である。」が刻まれている。

(交差法)
奥之院参道④ 江崎グリコ創業者 江崎利一と従業員物故者墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道④ 江崎グリコ創業者 江崎利一と従業員物故者墓所(平行法)

江崎グリコの創業者、江崎利一と、従業員物故者の墓所。墓石の家紋の部分がグリコのランナーの絵になっている。

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奥之院参道⑤ 八代将軍 吉宗公之墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑤ 八代将軍 吉宗公之墓所(平行法)

八代将軍 吉宗公之墓所と大きく掲げられた場所にはまだ新しい墓石と思われる“大川家の墓”があり、その隣に位置する年季の入った墓石が徳川吉宗の墓と推測する。

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奥之院参道⑥ 苔生した老杉と地蔵尊(交差法)
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奥之院参道⑥ 苔生した老杉と地蔵尊(平行法)

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奥之院参道⑦ 武田信玄 勝頼 墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑦ 武田信玄 勝頼 墓所(平行法)

苔むした朽木の空洞に祀られたお地蔵さんの奥には、石門の奥に並んで武田信玄 勝頼 墓所がある。並んでいる2つの墓の左の大きいほうが信玄、右の小さい方が勝頼の供養塔となる。

(交差法)
奥之院参道⑧ 弘法大師の腰掛け石(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑧ 弘法大師の腰掛け石(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑨(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑨(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑩ 明智光秀 墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑩ 明智光秀 墓所(平行法)

弘法大師が休憩で腰を掛けたと云われている石を過ぎると伊達政宗、石田三成、明智光秀の戦国武将の墓所が続く。因みに明智光秀の墓、首塚、胴塚は全国に8箇所ほどあり、織田信長の怨念によって、五輪塔を何度立てても割れてしまうという伝承があるとのこと。

(交差法)
奥之院参道⑪ 南海電鉄創業者 松本重太郎翁の墓(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑪ 南海電鉄創業者 松本重太郎翁の墓(平行法)

高野山までの電車~ケーブルカーの鉄道会社南海電鉄の前進、阪堺鉄道の創業者である松本重太郎の墓は、石ではなく青銅製の墓であった。

(交差法)
奥之院参道⑫ 初代市川團十郎 墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑫ 初代市川團十郎 墓所(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑬ 中の橋(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑬ 中の橋(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑭ 姿見の井戸(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑭ 姿見の井戸(平行法)

初代市川團十郎 墓所のすぐ近くに奥之院の参道のほぼ中間地点である中の橋がある。中の橋を渡ると汗かき地蔵と姿見の井戸がある。姿見の井戸を覗いた水面に自分の姿が映らなければ3年以内に死ぬという言い伝えがある。

(交差法)
奥之院参道⑮ パナソニック 墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑮ パナソニック 墓所(平行法)

株式会社として建てられた最も古い企業墓が1938年(昭和13年)に建立された松下電器の墓所とのこと。毎年9月に慰霊の法要を開いており、2008年(平成20年)松下電気からパナソニックに社名変更された際に同時に石塔もパナソニックに変えている。

(交差法)
奥之院参道⑯ 越前 結城秀康 霊屋(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑯ 越前 結城秀康 霊屋(平行法)

結城秀康(家康次男)石廟は、重要文化財に指定されており、右側が徳川家康の次男 徳川秀康(松平秀康)、左側が母親であるお万の方の供養塔となる。越前から運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)で造られ、当初は極彩色に彩られ、中には総金箔の石塔が収められている。

(交差法)
奥之院参道⑰ 豊臣家 墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑰ 豊臣家 墓所(平行法)

豊臣家 墓所の中で秀吉の墓は中央の大きいもので、1940年(昭和15年)奉公会と称する秀吉を信奉する人々が建てた新しいもの。墓の中には秀吉の衣冠束帯(正装した姿)の木造が収められていると云われている。

(交差法)
奥之院参道⑱ 織田信長 墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑱ 織田信長 墓所(平行法)

本能寺の変で倒れた信長の墓所は全国に20箇所以上あり、長らく奥之院に於ける墓所の位置は不明であったが、近年御廟橋の近くにあると判明した。明智光秀の墓からは1kmほど離れている。

(交差法)
奥之院参道⑳ 御廟橋(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑳ 御廟橋(平行法)

参道を2km弱進んだ位置にお大師さまが鎮座する御廟の入口である御廟の橋が見えてくる。御廟橋(ごびょうばし)は、弘法大師御廟に一番近い橋として36枚の橋板と橋全体を1と数え、金剛界37尊を表している。御廟橋より先は聖域であり、写真撮影は禁止となり、服装を正して一礼して渡ることを作法とする極めて神聖なエリアである。御廟の橋を渡って石段を登ると立派な燈籠堂がある。この中では各種祈願やお守りの授与がされているが、弘法大師が鎮座するのは燈籠堂の更に先の弘法大師御廟となる。燈籠堂の中に入り、左手に進んでいくとお堂の裏に回り込む道を進むと、目の前に弘法大師御廟が現れ、納札箱もあり最後の御礼を納める。

(交差法)
奥之院参道⑲ 護摩堂(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑲ 護摩堂(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑲ 護摩堂・御供所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑲ 護摩堂・御供所(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑲ 御供所(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑲ 御供所(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑲ 玉川水行場(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑲ 玉川水行場(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑲ 水向け地蔵①(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑲ 水向け地蔵①(平行法)

(交差法)
奥之院参道⑲ 水向け地蔵②(交差法)
(平行法)
奥之院参道⑲ 水向け地蔵②(平行法)

お大師さまへの報告が終われば、納経所でお礼参り・満願納経となる。御廟の橋の右手前には、先祖供養の水向地蔵が鎮座しており、多くの人が水を掛けながら参拝していた。御供所の南側 にある頌徳殿では茶処としてお坊さんの説法を聞くことができた。

(交差法)
奥之院参道㉑ 浅野内匠頭 墓所(交差法)
(平行法)
奥之院参道㉑ 浅野内匠頭 墓所(平行法)

(交差法)
奥之院参道㉒ 花菱アチャコ句碑・落書塚(交差法)
(平行法)
奥之院参道㉒ 花菱アチャコ句碑・落書塚(平行法)

(交差法)
奥之院参道㉓ 平和橋・英霊殿(交差法)
(平行法)
奥之院参道㉓ 平和橋・英霊殿(平行法)

(交差法)
奥之院参道㉔ 英霊殿①(交差法)
(平行法)
奥之院参道㉔ 英霊殿①(平行法)

(交差法)
奥之院参道㉔ 英霊殿②(交差法)
(平行法)
奥之院参道㉔ 英霊殿②(平行法)

(交差法)
奥之院参道㉕ 沖縄戦戦没者供養塔(交差法)
(平行法)
奥之院参道㉕ 沖縄戦戦没者供養塔(平行法)

(交差法)
奥之院参道㉖ 大東亜戦争無縁戦士之墓(交差法)
(平行法)
奥之院参道㉖ 大東亜戦争無縁戦士之墓(平行法)

(交差法)
奥之院裏参道① UCC上島珈琲 企業墓(交差法)
(平行法)
奥之院裏参道① UCC上島珈琲 企業墓(平行法)

(交差法)
奥之院裏参道② 日産自動車 物故従業員慰霊碑(交差法)
(平行法)
奥之院裏参道② 日産自動車 物故従業員慰霊碑(平行法)

(交差法)
奥之院裏参道③ ヤクルト 企業墓(交差法)
(平行法)
奥之院裏参道③ ヤクルト 企業墓(平行法)

(交差法)
奥之院裏参道④ 福助 企業墓(交差法)
(平行法)
奥之院裏参道④ 福助 企業墓(平行法)

(交差法)
奥之院裏参道⑤ 新明和工業 慰霊碑(交差法)
(平行法)
奥之院裏参道⑤ 新明和工業 慰霊碑(平行法)

花菱アチャコ句碑と楽書塚は別々のもので、楽書塚には自由に落書きできるようである。UCCホールディングスの企業墓のコーヒーカップの中は茶色い石になっているとのこと。新明和工業慰霊碑は、アポロ11号を模しており、石碑には、アポロ11号が月面着陸に成功した1969年(昭和44)に建立された。他にも日産自動車、ヤクルト、福助など様々な企業の慰霊碑や供養塔がある。

五輪塔 宝篋印塔

奥之院では五輪塔やと称する形の供養塔や供養墓に混じって宝篋印塔と称する形も見受けられる。五輪塔は、主に供養塔・墓塔として使われる五つの形の物を積み上げた仏塔で、地水火風空の五大元素を表している。空海から300年後に登場した真言宗の中興の祖と云われた覚鑁(かくばん)による真言密教における浄土信仰を主張した五輪九字明秘密釈の「三密」(身密・口密・意密)を実践している即身成仏を完成した姿を表す五輪塔図が起源とされる。

五輪塔 五輪九字明秘密釈の五輪塔図 ストゥーパー 多宝塔

宝篋印塔は円筒や八角などの塔身に方形などの屋根を被せ、先端の棒状の部分は相輪と称される。仏教で言う塔(仏塔)とは、ストゥーパ(卒塔婆)として仏舎利と同義とされる。日本の仏塔には、層塔、多宝塔などがあるが、根本大塔など下が方形で上がお椀を伏せた形の多宝塔は、二重塔より寧ろストゥーパをイメージしており、日本で創建されたものと云われる。宝篋印塔の相輪は、釈迦の遺骨を祀るストゥーパの原型を残した部分である。

(交差法)
奥之院裏参道⑥ 中の橋入口・垂れ桜(交差法)
(平行法)
奥之院裏参道⑥ 中の橋入口・垂れ桜(平行法)

(交差法)
女人堂前 お竹地蔵(交差法)
(平行法)
女人堂前 お竹地蔵(平行法)

(交差法)
高野山バス道路(交差法)
(平行法)
高野山バス道路(平行法)

奥之院の中の橋入口には、頌徳殿でのお坊さんの説法で聞いた“南無大師遍照金剛”の文字が刻まれた塔があった。真言宗では、空海が山岳修行をしていた時代に遍歴した場所であった四国八十八箇所を巡る歩き遍路で“南無大師遍照金剛”を唱えるのは、背後には大日如来が控えており、弘法大師と二人で同行してお遍路を歩くという意図がある。

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル⑥(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル⑥(平行法)

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南海高野線 高野山ケーブル⑦(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル⑦(平行法)

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル⑧(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル⑧(平行法)

(交差法)
南海高野線 高野山ケーブル⑨(交差法)
(平行法)
南海高野線 高野山ケーブル⑨(平行法)

(交差法)
南海高野線 極楽橋駅②(交差法)
(平行法)
南海高野線 極楽橋駅②(平行法)

“南無大師遍照金剛”とは、御宝号(ごほうごう)と称する真言宗で唱える一番短いお経であり、弘法大師に帰依するという意味である。遍照金剛の名号は、空海が唐に留学し、真言密教を極めた時の灌頂名である。「太陽のごとくすべてを照らす慈悲と、人を幸せにする仏さまの砕けることなき智慧の持ち主」という意味があり、大日如来の別名でもある。

琵琶湖からの比叡山(左)/比叡山延暦寺・高野山金剛峯寺(右)
琵琶湖からの比叡山 比叡山延暦寺・高野山金剛峯寺

【比叡山 延暦寺 法華総持院】
(交差法)
延暦寺 法華総持院(交差法)
(平行法)
延暦寺 法華総持院(平行法)

9世紀初め、空海は入唐求法留学生として、最澄は入唐求法還学生として同じ時に遣唐使使節の藤原葛野麿の船団に加わって唐に渡った。空海は20年の留学の帰国後に真言宗を開いて高野山に金剛峯寺を建てた。最澄は2年の留学の帰国後に、天台宗を起こして比叡山に延暦寺を建てた。

高野山御開創(左)/飛行の三鈷(右)/重要文化財 三鈷杵(下)
弘法大師 高野山御開創 弘法大師 飛行の三鈷
重要文化財 三鈷杵(飛行三鈷杵)

【弘法大師 高野山御開創】
密教の根本道場の地を求めていた弘法大師は、山中で狩人に化身した狩場明神に出会う。弘法大師は狩人が従えていた黒と白の犬に導かれ、天野の社で丹生明神に出会い、ご神領である“高野”を授かる。後に弘法大師は高野山の中心である壇上伽藍に御社を建て、両神を鎮守の神として祀られた。(上記 左)
弘法大師は、唐の名僧 恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から密教の奥義を伝授され、日本仏教史に残る最高の栄誉を受ける。帰国の際、唐の明州の浜より真言密教を広めるに相応しい場所を求め、日本へ向けて法具である三鈷杵(さんこしょ)を投じた。後に弘法大師は高野山(現在の壇上伽藍)で松の枝に架かっている三鈷杵を見つけたと云われる。(上記 右)

最澄・空海

経典研究に偏る奈良時代の仏教を批判し、人里離れた山奥での厳しい修行を重視した空海や最澄は、政治と深く結びつき、天才型の空海と真面目な秀才型の最澄の偉業である二つの宗派は平安時代の日本の仏教の双璧を成した。カリスマ的な空海は後継者に恵まれなかったことに対して、理論派の最澄は延暦寺で修行した法然(浄土宗開祖)、親鸞(浄土真宗開祖)、日蓮(日蓮宗開祖)、道元(曹洞宗開祖)、栄西(臨済宗開祖)など名僧を輩出しており、天才と秀才の違いと捉えれば興味深い。

弘法大師像

「弘法も筆の誤り」と云う諺は、弘法大師が天皇の命を受けて応天門の額を書いた際、「応」の字の「心」の上の点を書き忘れたことに由来し、「書道の大家の弘法大師ですら、字を書き間違えることがある。」との慰めの意味に例えられているが、本来は、弘法は書き損じた額を下ろさず、筆を投げつけて点を見事に書き入れたことを「弘法のような書の名人は、直し方も常人とは違う」と慄いた意味とされる。また「弘法筆を選ばず」は、真の名人は道具などを問わずに使いこなすと云う例えであり、いずれも弘法大師を賞賛する諺であった。

奥之院 御廟橋

古来より神々が鎮まる八葉の峰々に囲まれた紀伊山地の奥深くに広がる山上盆地に万能の天才、弘法大師 空海は京の都から遠く離れた自然環境の厳しいこの地を真言密教の道場と定めて高野山を開創し、奥之院に生き続けて現在も瞑想を続けているとされ、生身供と称する儀式によって弘法大師の食事が運ばれており、1200年以上もの間、一日たりとも欠かさず行われていると云う。
空海
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近江商人発祥の地の“まちづくり”

Edit Category ウォーキング
ゴールデンウイークを直前に控えた快晴の休日、嫁さんと滋賀県近江八幡市に出掛けようと決めた時、既に午後の時間帯になろうとしていた。思いつきで決めた場所なので、いつもの如く殆ど予備知識も無いまま、大雑把なガイド紙だけ持参して出掛けた。JR大阪駅から新快速に乗車して運良く座席に座ることができ、京都を通り過ぎて滋賀県に至り、琵琶湖に近づく地域に達すると刻々と景色が変化することに気付く。

近江八幡アクセス

山に囲まれた平坦で広大な平地に田畑が拡がる風景が続いたかと思えば、南草津駅では、滋賀県が近畿圏で唯一人口増加していることがリアルに理解できる副都心のような景観が拡がる。1994年(平成6年)新駅開業した南草津駅の周辺は、区画整理事業による街づくりが進められ、2011年(平成23年)新快速が停車して、京都・大阪への利便性も高まり、新駅の設置と計画的な街づくりによって、若い世代が数多く移り住んできたことが窺い知ることができる。

開発が進んだJR南草津駅西口ロータリー
JR南草津駅 西口ロータリー

立命館大学のキャンパスや大手メーカーの工場など、続々と周辺に進出して新しい都市が築かれた。大型ショッピングセンターや駅直結のテナントビルなどが連なり、駅に隣接して高層マンションが林立し、周辺には一戸建ての住宅地も拡がっている。そこから先に進むと再び田園地帯が続き、大阪から所要約1時間で近江八幡駅に到着した。滋賀県へは、長浜を探訪して以来となるが、近江八幡へのアクセスは、京都・大阪への通勤圏となり得る所要時間であり、南草津駅周辺と同様、JR近江八幡駅周辺も発展していく様子が判る。

近江八幡MAP(左)/近江八幡惣絵図(右)
近江八幡map 近江八幡惣絵図

(交差法)
近江八幡駅北口観光案内板(交差法)
(平行法)
近江八幡駅北口観光案内板(平行法)

(交差法)
近江八幡駅北口①(交差法)
(平行法)
近江八幡駅北口①(平行法)

(交差法)
近江八幡駅北口②(交差法)
(平行法)
近江八幡駅北口②(平行法)

近江八幡市の地名は日牟禮八幡宮に因むが、1954年(昭和29年)市制施行時に福岡県八幡市(やはたし)が存在しており、市名に旧国名の“近江”を冠して同名回避した。その後、1963年(昭和38年)福岡県八幡市は合併して北九州市の一部となり消滅し、1977年(昭和52年)京都府八幡市(やわたし)が誕生し、先に市制を敷いた側が冠称を付けるねじれ現象が生じた。駅名に関しても、近江八幡駅は市制施行前の1919年(大正8年)八幡駅から近江八幡駅に改称しており、福岡県の八幡駅との同名回避している。

(交差法)
近江八幡駅前大通 アイフルホーム近江八幡店のキリン(交差法)
(平行法)
近江八幡駅前大通 アイフルホーム近江八幡店のキリン(平行法)

(交差法)
近江八幡駅前大通 中村町南(交差法)
(平行法)
近江八幡駅前大通 中村町南(平行法)

(交差法)
小幡上筋からの八幡山(交差法)
(平行法)
小幡上筋からの八幡山(平行法)

近江八幡駅の観光案内所で八幡堀界隈と周辺のMAPを入手し、コースを確認して出発したが、市街地から見える八幡山を目指し、車の行き来が比較的多い通り沿いをひたすら直進するので迷いようがない。観光地とは思えない殺風景な沿道を歩きながら、同じ方向に歩く人が殆どいないことに気付いた。暫くして近江鉄道グループの青・赤・緑の横線が入ったライオンズカラーのバスが何度も通過し、観光客の多くはバスや車で八幡堀界隈にアクセスしているようである。

(交差法)
小幡上筋 八幡コミュニティーセンター(交差法)
(平行法)
小幡上筋 八幡コミュニティーセンター(平行法)

(交差法)
あきんどの里公園(交差法)
(平行法)
あきんどの里公園(平行法)

暫く直進して小幡上筋の停留所付近に近江八幡市立八幡小学校が見えてきて、その向かい側に八幡コミュニティーセンターがあり、入口の奥は八幡公民館となっている。この位置からバス通りを離れ、新町通りに出て北に進むと一気に街並みが変わり、町屋や蔵が並ぶ観光地らしい雰囲気の空間に達した。「郷土資料館」「歴史民俗資料館」「近江八幡資料館(旧判家住宅)」「旧西川家住宅」等の旧市街地の中心(新町通り)に位置した場所は、「あきんどの里公園」となり、周辺は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

(交差法)
旧伴家住宅(交差法)
(平行法)
旧伴家住宅(平行法)

「近江八幡資料館(旧判家住宅)」は、江戸初期に活躍した八幡商人 伴庄右衛門が、屋号を扇屋として寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商い、7代目伴庄右衛門能尹が本家として建築したもの。明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷し、戦後は近江兄弟社図書館~近江八幡市立図書館となり、移転に伴い平成9年にその役目を終了した。その後の整備事業を経て、平成16年4月より市立資料館の一部として開館した。

(交差法)
朝鮮人街道石碑(交差法)
(平行法)
朝鮮人街道石碑(平行法)

(交差法)
京街道(交差法)
(平行法)
京街道(平行法)

「近江八幡資料館(旧判家住宅)」前に「朝鮮人街道碑」の石碑がある。野洲市で中山道から分かれ、近江八幡、安土、彦根を経て鳥居本(彦根市)で再び中山道に合流する約41kmの街道は、朝鮮人街道(京街道)と称される。将軍が交代する度に朝鮮国より国王の親書を授かって来日する朝鮮通信使は、修好・親善として、正使・副使・従事官などの役人の他、学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった500人規模で組織された。朝鮮通信使が江戸へ向かう途中、本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、京街道一帯(当地域)で随員の昼食や休憩場所となり、沿道の町人は歓迎して出迎え、文化交流がさかんに行われた。

(交差法)
新町通の街並み(交差法)
(平行法)
新町通の街並み(平行法)

(交差法)
旧西川家住宅(交差法)
(平行法)
旧西川家住宅(平行法)

「歴史民俗資料館」から一軒民家を挟んだ場所にある「旧西川家住宅」は、江戸時代から明治時代前半にかけて活躍した近江商人 西川利右衛門の屋敷で、国の重要文化財に指定されている。屋号を大文字屋と称した西川家は、江戸・京都・大阪に店舗を構え、蚊帳・畳表などの商いで財を成した。西川家は初代から11代まで約300年にわたり活躍したが、1930年(昭和5年)子孫が途絶え、土地と建物は市に寄贈された。

(交差法)
ギャラリースペース新町浜 ほのぼの館(交差法)
(平行法)
ギャラリースペース新町浜 ほのぼの館(平行法)

以前、「神の手ニッポン」に展示されていた「カサデトンダ」島木英文氏の作品のような土産屋や店舗が軒を並べる通りを抜け、八幡堀に辿り着いた。

(交差法)
八幡堀①(交差法)
(平行法)
八幡堀①(平行法)

(交差法)
八幡堀②(交差法)
(平行法)
八幡堀②(平行法)

(交差法)
明治橋①(交差法)
(平行法)
明治橋①(平行法)

(交差法)
明治橋②(交差法)
(平行法)
明治橋②(平行法)

1585年(天正13年)豊臣秀次が八幡山城を築城した際、市街地と琵琶湖を連結する人工の水路として造られた八幡堀は、城下町の都市計画として幅員約15m、全長6kmに及んで造営され、城を防御する軍事的な役割と、当時の物流の要であった琵琶湖の水運を利用する商業的役割を兼ね備えた。八幡堀により船や人の往来が増えたことで商業が発達し、八幡山城廃城後の江戸時代には、近江商人(八幡商人)による町の発展のみならず、八幡堀を起点として多くの商人が全国へ旅立ち、活発な商いを展開した。

近江八幡市 八幡堀(左)/八幡公園の豊臣秀次像(中)/八幡堀まつりポスター(右)
近江八幡市 八幡堀 八幡公園の豊臣秀次像 八幡堀まつりポスター

本州のほぼ中央に位置する滋賀県の真ん中に位置する日本最大・最古の湖である琵琶湖の東岸に面する小都市である近江八幡市は、古くから農業を中心に栄えてきたが、中世以降は陸上と湖上の交通の要衝という地の利を得て、多くの城が築かれた。織田信長の改革精神により開かれた楽市楽座は、豊臣秀次の自由商業都市の思想に引き継がれ、さらに近江商人の基礎を築いた。このような歴史的背景から、各時代を代表する歴史的遺産が点在するとともに、風情が薫る景観は、現在も各所で受け継がれている。

豊臣秀次(左)/豊臣家系図(右)
豊臣秀次豊臣家系図

四国征伐の功により、18歳にして近江43万石(秀次:20万石、宿老:23万石)の領主に任ぜられた豊臣秀次は、本能寺の変で信長が暗殺され、安土城の落城後、安土城下の民を近江八幡に移し城下町を開いた。楽市楽座を施行、城の防御である八幡堀を琵琶湖に直結させ、往来する船を寄港させるなど、秀次は僅か5年の八幡山城在城の間に、自由商業都市として繁栄の基盤を築いた。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男であった秀次は、鶴松の没後の世継ぎが不在であることから、あらためて秀吉の養嗣子となり、二代目関白として職を譲られ家督を相続した。

(交差法)
八幡堀③(交差法)
(平行法)
八幡堀③(平行法)

(交差法)
八幡堀④(交差法)
(平行法)
八幡堀④(平行法)

(交差法)
八幡堀⑤(交差法)
(平行法)
八幡堀⑤(平行法)

(交差法)
八幡堀⑥(交差法)
(平行法)
八幡堀⑥(平行法)

後に側室の茶々に秀頼が産まれると、秀吉からは次第に疎まれて謀反の冤罪嫌疑を掛けられ、秀吉の後継者を巡る争いや秀次の殺生関白と称される悪行など、諸説(宣教師ルイス・フロイスは、暴君は秀次ではなくて秀吉との意を書簡に記している)があるが、1595年(文禄4年)強制的に高野山青巌寺(現在の金剛峯寺)に蟄居となった後、切腹となった。悲運の最期を遂げた秀次の没後、八幡城は僅か10年で廃城となったが、近江八幡の開町の祖として市民に慕われた秀次の“まちづくり”への情熱は、八幡堀や町並み保存運動をはじめとする歴史を活かした近江八幡市民に継承されている。

八幡掘での時代劇ロケ風景
憑神 八幡掘ロケ風景 八幡堀ロケ風景 武士の家計簿 八幡掘ロケ風景

近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの街並み及び日牟禮八幡宮境内地は「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、滋賀県の時代劇の撮影場所としてロケ地のメッカとなっている。訪れた頃は既に桜が散っていたが、僅かに花びらがお堀に残り、八幡堀に覆い被さるような桜の枝振りや歩道からお堀端へ降りる石段が印象的で、石垣に囲まれた堀の風景は、江戸時代の風情や河岸を演出するシーンとして切り取れることが頷ける。

八幡堀 石畳の小路
八幡堀 石畳の小路

(交差法)
八幡堀 石畳の小路(交差法)
(平行法)
八幡堀 石畳の小路(平行法)

八幡堀から続く石畳に蔵や古民家を改装したカフェやランチができる店舗が集まる商業施設「石畳の小路」があった。八幡堀の歴史的景観を大切に、往時の人々が歩いただろう空間をイメージしたと云うスポットは、モノトーンの外壁と石畳 は八幡堀の風情にマッチしており、観光客だけでなく、地元の人からも親しまれると思われる。昼食を食べていなかったので数軒の店に物色したが、殆ど午後3時で閉店する店が多かった。

(交差法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店(交差法)
(平行法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店(平行法)

(交差法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店 近江牛メンチカツ①(交差法)
(平行法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店 近江牛メンチカツ①(平行法)

(交差法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店 近江牛メンチカツ②(交差法)
(平行法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店 近江牛メンチカツ②(平行法)

(交差法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店 近江牛ステーキ串(交差法)
(平行法)
八幡堀 石畳の小路 千成亭 八幡堀店 近江牛ステーキ串(平行法)

結果的に「石畳の小路」にある「近江牛肉専門店 千成亭」で、近江牛メンチカツと近江牛ステーキ串(写真は既に1切れ食べた後なので少なく見えるが….)で生ビールを飲んで休憩した。但馬系の牛を滋賀の地で肥育させた近江牛は高価なものだが、他にも近江牛コロッケや近江牛握り寿司など気軽にテイクアウト出来るメニューがあり、店内では近江牛や自家製ハム・ソーセージも販売していた。

(交差法)
ヴォーリズメモリアルポケットパーク①(交差法)
(平行法)
ヴォーリズメモリアルポケットパーク①(平行法)

(交差法)
ヴォーリズメモリアルポケットパーク②(交差法)
(平行法)
ヴォーリズメモリアルポケットパーク②(平行法)

(交差法)
ヴォーリズメモリアルポケットパーク③(交差法)
(平行法)
ヴォーリズメモリアルポケットパーク③(平行法)

(交差法)
近江兄弟社(交差法)
(平行法)
近江兄弟社(平行法)

「石畳の小路」の隣接した西川甚五郎邸は西川産業(布団の西川)の祖として知られ、13代目 甚五郎は参議院議員としても池田内閣の国務大臣・北海道開発庁長官を務め、近江八幡市名誉市民第2号に選ばれた。西側の小さな広場には、初代近江八幡市名誉市民であるウィリアム・メレル・ヴォーリズに女の子が花を捧げる像がある「ヴォーリズメモリアルポケットパーク」があり、道路を挟んで向かい側には、キリスト教の伝道を志して来日した米国人ヴォーリズが1905年(明治38年)創業した「近江兄弟社 本社ビル」がある。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

ヴォーリズが愛する“近江”の地名と目的に向かって心を一つにする仲間を意味する“兄弟”に因んで命名された近江兄弟社は、米国のメンソレータム社のメンソレータム軟膏の日本での販売権・製造権を獲得し、主力商品メンソレータムの販売は、ヴォーリズの各事業を資金面で大きく支え、「事業を通じて神の証をする」とする近江兄弟社の理念の実現を支えた。しかし、原材料費の高騰や競合品との競争が熾烈を極め、不動産部門の採算悪化や第一次オイルショックの影響により、1974年(昭和49年)近江兄弟社は経営破綻により一度倒産した。

メンソレータム(左)/メンターム(右)
メンソレータム・メンターム

翌1975年(昭和50年)ロート製薬メンソレータム社と契約し、日本での販売権を獲得した。近江兄弟社は事業を続行しながら大鵬薬品の支援を得て再興を図り、メンソレータムの日本での略称として商標登録していたメンタームとして処方を僅かに変えて生産販売し、自主再建の足掛かりを掴んだ。因みにメンソレータム社は1988年(昭和63年)ロート製薬に買収され吸収合併しており、現在、黄色ワセリンを主原料とするメンソレータムと白色ワセリンを主原料とするメンタームが、類似の商品として共存しており、近江八幡市の近代史を伝えている。

(交差法)
白雲館①(交差法)
(平行法)
白雲館①(平行法)

(交差法)
白雲館②(交差法)
(平行法)
白雲館②(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 鳥居・白雲館(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 鳥居・白雲館(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 鳥居①(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 鳥居①(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 鳥居②(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 鳥居②(平行法)

近江兄弟社 本社ビルの先には、明治時代初期の洋風建築としてシンボル的な建造物の白雲館があり、道路を挟んだ向かい側には、日牟禮八幡宮の大鳥居が見えてくる。1877年(明治10年)近江商人が子どもの教育充実を図るために八幡東学校として建設した白雲館は、1891年(明治24年)校舎としての役割を終え、1893年(明治26年)以降は八幡町役場や蒲生郡役所などに使用された。1994年(平成6年)の解体修理によって創建時の姿に復元され、現在は、観光案内所等として活用されている。

飛び出し坊や in 近江八幡
飛び出し坊や in 日牟礼八幡宮 飛び出し坊や in 近江八幡

白雲館から、向かい側の日牟禮八幡宮の大鳥居の間には信号が無く、このあたりは近江八幡市内の観光の中心地として賑わう場所として頻繁に車が通るため、子供やお年寄りは充分に注意が必要な危ない場所になるのだが、電信柱や道路の角などから飛び出している子どもの看板によってドライバーに飛び出し注意を訴える滋賀県発祥の「飛び出し坊や」の学制服姿バージョンの看板が目に飛び込んできた。

飛出とび太“0系”(左)/とび太くんの生みの親 久田工芸 久田泰平氏(写真右端)
飛出とび太 とび太くんの生みの親 久田工芸 久田泰平氏

飛び出し坊やには他にも様々なバージョンがあるが、みうらじゅん氏によって“0系”と名付けられた全国的に最も有名な元祖飛び出し坊やは、1973年(昭和48年)東近江市(旧八日市市)の社会福祉協議会の発注により、久田工芸の久田泰平氏の製作で誕生した。大きな瞳に七三分けの髪型が特徴のキャラクターの本名は「飛出とび太」、通称「とび太くん」と呼ばれ、現在、携帯ストラップ、Tシャツ、お守り、交通安全マグネットなどの商品開発により再ブレイクしている。

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日牟禮八幡宮 楼門①(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 楼門①(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 手水舎(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 手水舎(平行法)

日牟禮八幡宮は、近江八幡駅の北西約2.3km、八幡山の南麓にある平安時代の創建と云われる神社である。誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする旧八幡町の総社であり、京都府八幡市の石清水八幡宮の神霊を勧請したものである。古くから近江商人の信仰を集め、信長が安土城下で自ら異粧華美な姿で踊ったという奇祭「左義長まつり」と応神天皇の近江国(後の息長村、現在の米原市)訪問に際し、琵琶湖辺の葦で作った松明に火を灯して八幡まで道案内したのが、祭の始めと伝えられる「八幡まつり」の二大火祭は、国の選択無形民俗文化財である。

(交差法)
日牟禮八幡宮 拝殿①(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 拝殿①(平行法)

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日牟禮八幡宮 拝殿②(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 拝殿②(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 拝殿③(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 拝殿③(平行法)

伝承によれば、131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされる。275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたと伝わる。691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる。991年(正暦2年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、1005年(寛弘2年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける。

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日牟禮八幡宮 能舞台①(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 能舞台①(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 能舞台②(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 能舞台②(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 馬の像(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 馬の像(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 瓦(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 瓦(平行法)

1585年(天正13年)秀次が八幡山城を築城するため、上の八幡宮を下の社に合祀した。その替地として日杉山に祀りなおすこととなったが、1590年(天正18年)に秀次が自身の居城を尾張国清州城に移したため、移転作業は行われなかった。次に八幡山城の城主となったのは京極高次だが、1595年(文禄4年)前城主であった秀次が高野山で自害して八幡山城は廃城されて高次も大津城に移り、日杉山への社殿の移転は全面中止とされ、現在のように一社の姿となった。廃城後の城下町は近江商人の町として発展し、当社は守護神として崇敬を集めた。

湖東平野の山々
湖東平野の山々

近江八幡市は滋賀県の中央部、琵琶湖東岸に位置する。市域は全般に平坦地で、鈴鹿山系に源を発する諸河川により形成された湖東平野の一角をしめる。市内には、雪野山、瓶割山、鶴翼山(通称:八幡山)、岡山、長命寺山、津田山(奥島山)などの小高い山が平野に浮かぶように点在し、琵琶湖上には同湖で最大の島である沖島と呼ばれる有人島がある。市の北東部には、西の湖が水郷地帯を展開しており、「安土八幡の水郷」として琵琶湖八景の一つに数えられ、同区域の一部は景観法に基づく「景観計画区域」に指定されている。

(交差法)
八幡山(交差法)

(平行法)
八幡山(平行法)

(交差法)
八幡山ロープウェー①(交差法)
(平行法)
八幡山ロープウェー①(平行法)

(交差法)
八幡山ロープウェー②(交差法)
(平行法)
八幡山ロープウェー②(平行法)

八幡山案内図(左)/近江八幡城鳥瞰図(右)
八幡山map 近江八幡城鳥瞰図

八幡山頂の詰城跡へは居館跡横から続く徒歩約30分所要の登山ルートがあるが、八幡山ロープウェーは、毎時15分間隔で八幡山の山麓から山頂(標高284m)へ約4分で運行する。山頂からは四季折々の琵琶湖・西の湖・旧城下町などが見渡せる大パノラマが広がるだけでなく安土山、繖山、岡山など近隣の城跡のある山も見渡せ、秀次が八幡山城を築城する際、安土城下などの商人・職人を呼び寄せ、八幡堀の北側を武士、南側を町人の居住区域とし、町人の居住区の西を商人、北東を職人の居住区とした碁盤目状の城下町の眺望を堪能出来るとのこと。

(交差法)
八幡山ロープウェー③(交差法)
(平行法)
八幡山ロープウェー③(平行法)

(交差法)
八幡山山頂①(交差法)
(平行法)
八幡山山頂①(平行法)

ロープウェーは17:00の下り便が最終で、山頂の旧村雲御所 瑞龍寺などの有料施設や展望館の売店、おねがい地蔵堂などは16:30で施錠され、入ることができなくなるとのこと。山頂に到着したのは16:15だったので、僅かな滞在時間内に眺望を満喫することだけ注力することを決めた。ロープウェー山頂駅を下りるとすぐに石垣が現れ、看板には左右の進路の案内が記してあり、“真っ直ぐ行くと琵琶湖が見渡せます”と書かれた左方向の進路を選択し、北の丸跡、西ノ丸跡、二ノ丸跡の順路に絞って巡ることにした。

(交差法)
八幡山山頂 西の丸跡①(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡①(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 西の丸跡②(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡②(平行法)

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八幡山山頂 西の丸跡③(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡③(平行法)

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八幡山山頂 西の丸跡④(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡④(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 西の丸跡⑤(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡⑤(平行法)

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八幡山山頂 西の丸跡⑥(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡⑥(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 西の丸跡⑦(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡⑦(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 西の丸跡⑧(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡⑧(平行法)

西の丸跡に到着すると、正面に雄大な琵琶湖が眼下に広がり、弧を描いて琵琶湖に面したあやめ浜や対岸の比良山系の眺望が美しい。中央に見える岡山(標高188m)は、南北朝時代に佐々木氏が六角氏の水上警備のために築城した水茎岡山城があった。嘗ては琵琶湖に浮かぶ“湖中の浮城”であったが、戦後の干拓事業によって周囲が埋め立てられ、戦国時代の風情はないが、周囲の水田の緑色が鮮やかに映る。南西側遠方には近江富士で知られる三上山(標高432m)が見え、野洲地区を疾走する新幹線のスピード感にあらためて驚愕した。

(交差法)
八幡山山頂 西の丸跡 LOVEオブジェ(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 西の丸跡 LOVEオブジェ(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 城址(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 城址(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 城址からの琵琶湖(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 城址からの琵琶湖(平行法)

西の丸跡には“LOVE”の文字を象ったモニュメントが設置されていたが、2006年にNPO法人地域活性化支援センターが企画する「恋人の聖地プロジェクト」の趣旨に賛同し、地域活性化、少子化対策を目的に、地域を代表する観光施設・地域を中心に、同組織が定める基準をクリアしたスポットとして、2014年「恋人の聖地サテライト」に選定されたものとのこと。秀次ゆかりの八幡山城の城址のある場所として違和感があり、歴史的遺構としては純粋な史跡指定を目指す方向性を望む。本丸の石垣の間から沢山の樹木が生えていることに廃城になって400年以上経過したことを痛感した。

(交差法)
八幡山山頂 北の丸跡①(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 北の丸跡①(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 北の丸跡②(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 北の丸跡②(平行法)

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八幡山山頂 北の丸跡③(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 北の丸跡③(平行法)

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八幡山山頂 北の丸跡 ハート型モニュメント(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 北の丸跡 ハート型モニュメント(平行法)

八幡山山頂 北の丸跡からの眺望
八幡山山頂 北の丸跡からの眺望

北の丸跡から北東方面には、西の湖と水郷、手前の安土山(標高199m)には、1579年(天正7年)信長が築城して天下統一の端緒となり、特別史跡に指定された安土城跡がある。八幡山は安土山と違って急峻な山であり、斜面を充分活用できず、麓の居館が城の中心となった。安土山の背後に南北に連なる繖(きぬがさ)山(標高433m)には六角氏頼によって築かれた観音寺城跡がある。信長が安土城を築城する際に参考にしたと云われる観音寺城は、1568年(永禄11年)信長が足利義昭を擁して上洛した際に敗れ、無血開城している。北の丸跡にも「恋人の聖地プロジェクト」によるの形を象ったモニュメントが設置されていた。

(交差法)
八幡山山頂 展望館①(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 展望館①(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 展望館②(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 展望館②(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 展望館③(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 展望館③(平行法)

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八幡山山頂 展望館④(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 展望館④(平行法)

(交差法)
八幡山山頂 展望館⑤(交差法)
(平行法)
八幡山山頂 展望館⑤(平行法)

二の丸跡となる展望資料館からは、近江八幡市街地を眼下に見下ろせる。近江八幡駅周辺のイオン近江八幡店の看板が遠くからでも認識出来るので、ここまで来た道程と距離感を確認することが出来ると同時に近江八幡駅から八幡山の直線地域を中心に街が発展していることが明確に判る。暫くするとロープウェーの下り便時刻が迫ってきたので乗り場に向かった。ロープウェーでは、上り便客と略同じメンバーに加えて、作務衣を着た山頂施設の管理人も乗り込み、僅かな時間で眺望を堪能した八幡山を後にした。

クラブハリエ 黄色の市松模様の紙袋
クラブハリエ 紙袋
たねや 日牟禮の舎(左)/クラブハリエ 日牟禮館(中)/クラブハリエのバームクーヘン(右)
たねや Club Harie Club Harie Baumkuchen

ロープウェーを降りて再び日牟禮八幡宮の前を通ると黄色の市松模様の紙袋を持った人を頻繁に見掛けた。嫁さんの説明によると、近江八幡創業の老舗和菓子店「たねや」グループ「クラブハリエ」の紙袋とのことで、持っている人をあらためて確認すれば、その数の多さに驚かされる。日牟禮八幡宮杜近くにある「近江八幡日牟禮ヴィレッジ」として、和菓子専門店「たねや 日牟禮の舎」と洋菓子専門店「クラブハリエ 日牟禮館」は、当日巡った観光スポットを凌ぐ程、賑わっていた。

(交差法)
クラブハリエ 日牟禮館①(交差法)
(平行法)
クラブハリエ 日牟禮館①(平行法)

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クラブハリエ 日牟禮館②(交差法)
(平行法)
クラブハリエ 日牟禮館②(平行法)

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たねや 日牟禮乃舍①(交差法)
(平行法)
たねや 日牟禮乃舍①(平行法)

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たねや 日牟禮乃舍②(交差法)
(平行法)
たねや 日牟禮乃舍②(平行法)

たねやグループは、元は江戸時代に材木商を生業とした家系で、後に近江国蒲生郡八幡池田町で、穀物類・根菜類の種子を商う「種屋」を創業した。1872年(明治5年)7代目 山本久吉が京都の和菓子店「亀末」で修行を積み、栗饅頭と最中を製造販売する和菓子店に商売替えし、屋号を「種屋末廣」とした(後年「種屋」に改称)。8代目山本脩次が種屋2代目を継承し、明治末期から昭和初期にかけて、種屋の近所の洋館街に住む前出のヴォーリズの勧めで、1951年(昭和26年)脩次は洋菓子の製造を開始し、クラブハリエの基となった。

ラ・コリーナ 近江八幡
ラ・コリーナ 近江八幡

2015年、たねやグループは近江八幡駅から近江鉄道バスで10分の場所に緑の芝で覆われた大きな屋根の建物のフラッグシップ店「ラ・コリーナ近江八幡」をオープンし、自然環境の中に、和・洋菓子のメインショップをはじめ、たねや農藝、本社屋、飲食店、マルシェ、専門ショップ、パンショップなどや、各施設を巡る所要時間約50分のツアーもあり、お菓子のテーマパークと云える新しい観光スポットとして人気を博している。

クラブハリエ 日牟禮ロール(左)/たねや カステラ(右)
クラブハリエ 日牟禮ロール たねや カステラ

折角、たねやグループの本拠地 近江八幡に来たので、たねやとクラブハリエで各々一品ずつ購入することにした。クラブハリエのバームクーヘンは有名とのことだが、大阪の百貨店でも購入できるとのことで、日牟禮館限定の日牟禮ロールを選んだ。たねやでは、元々和菓子の中でも羊羹や最中などが苦手だったので、無難にカステラを選んだ。日牟禮ロールは卵をたっぷり使用したシンプルなタイプで想像通りの美味しさだった。一方のカステラは、しっとりきめ細やかな生地と上品な甘さで思わず唸る程の美味しさであった。今までカステラの味の違いを感じた経験が乏しいが、この一品は格の違いを感じる。

(交差法)
白雲橋・白雲館(交差法)
(平行法)
白雲橋・白雲館(平行法)

(交差法)
日牟禮八幡宮 鳥居③(交差法)
(平行法)
日牟禮八幡宮 鳥居③(平行法)

そろそろ陽が傾きかける時刻になったので、近江八幡駅に向かって歩き出した。午後の時間帯に差し掛かってから大阪を出発したので、ゆっくり探訪できなかったこともあり、市街地の通りを巡りながら帰ることにした。

(交差法)
旧八幡郵便局舎①(交差法)
(平行法)
旧八幡郵便局舎①(平行法)

(交差法)
旧八幡郵便局舎②(交差法)
(平行法)
旧八幡郵便局舎②(平行法)

旧八幡郵便局舎全体スケッチ(左)/一粒の会パンフレット(右)
旧八幡郵便局舎 一粒の会パンフレット

近江八幡市内には、ヴォーリズの手掛けた建築物が数多く残っており、1921年(大正10年)竣工したスパニッシュ・ミッション式の旧八幡郵便局は大正期のヴォーリズ建築として貴重な初期の作例となる。1961年(昭和36年)まで郵便局の局舎として使用されていた。その後玄関部分が取り壊されたが、2004年(平成16年)地元のヴォーリズ建築保存再生運動を目指すNPO「一粒の会」によって再生された。

(交差法)
アンドリュース記念館・八幡山(交差法)
(平行法)
アンドリュース記念館・八幡山(平行法)

(交差法)
アンドリュース記念館・近江八幡教会(交差法)
(平行法)
アンドリュース記念館・近江八幡教会(平行法)

1907年(明治40年)竣工のアンドリュース記念館は、ヴォ―リズ建築第一号の建築物である。大学時代の親友で、ヴォーリズに導かれてキリスト教信者となったハーバート・アンドリュースは若くして亡くなり、遺族より贈られた資金をもとに、ヴォーリズ自身も貯蓄の全てを捧げ、ヴォーリズ自らの設計により竣工した。

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近江八幡教会(交差法)
(平行法)
近江八幡教会(平行法)

(交差法)
為心町通り(交差法)
(平行法)
為心町通り(平行法)

(交差法)
為心町(交差法)
(平行法)
為心町(平行法)

アンドリュース記念館に隣接する日本基督教団 近江八幡教会の場所には、1924年(大正13年)竣工したヴォ―リズ建築の教会があったが焼失している。現在の教会は、1983年(昭和58年)一粒社ヴォーリズ建築事務所により建てられた。周囲に高い建物が無く白い鐘楼は周囲からも眺めることが出来る。少し離れて古民家風の周囲の風景と交わった空間は、妙にマッチした不思議な趣きが感じられる。

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西光寺①(交差法)
(平行法)
西光寺①(平行法)

(交差法)
西光寺②(交差法)
(平行法)
西光寺②(平行法)

暫く進むと土塀の長さが堂々たる偉容を誇る西光寺が見えてくる。白壁の塀に開く四脚門も見事で、背景に八幡山が見えるのも城下町の寺らしい風格がある。信長が能登の西光寺の貞安上人を開山として安土城城下に1580年(天正8年)建立し、秀次の八幡城築城のとき安土から現地に移転した。秀次の祈願所となり、築地、土塀、堀など堅固に造営した。墓地には大きな五輪塔の信長の墓がある。1722年(享保7年)本堂・方丈など主要建物を焼失しており、現在の堂宇は再建されたものである。

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たねや 近江八幡店(交差法)
(平行法)
たねや 近江八幡店(平行法)

(交差法)
近江八幡駅 新快速(交差法)
(平行法)
近江八幡駅 新快速(平行法)

西光寺から官庁街通りに達したところで、近江八幡駅との距離感を確認のため、駅前大通り(ぶーめらん通り)沿いに出ると「たねや 近江八幡店」の紙袋模様をイメージさせる建物が見えてきた。八幡山に向かって直進したときには、少々野暮ったい殺風景な印象を抱き、たねやの一際目立つ建物も見過ごしていたが、近江八幡の散策を満喫した後では、見えてくる景色も違って映る。短時間の探訪だったが、結構な距離のウォーキングとなり、近江八幡の街も満喫できた。帰りの新快速では心地良い疲労で二人とも眠ってしまい、京都を通過した記憶が無かった。

近江八幡 ”はちまんドルの夜景”
はちまんドルの夜景

高度経済成長によって生活形態が変化した昭和後期では、近江八幡にとって八幡堀は無用の長物となり、荒廃の一途を辿る危機もあった。しかし、秀次が造った八幡堀によって発展した歴史、ヴォ―リズ建築や近江兄弟社の再興、日牟禮八幡宮の参拝や近江八幡への訪問を後押しするたねやグループ、そして近江商人を育んだ歴史を再び甦らせた近江八幡市民に伝承された“まちづくり”により、堀の両脇に青々とした草花が生い茂り、堀沿いに商家が立ち並び、歴史ドラマや映画のシーンのような歴史情緒あふれる風景のある街として、訪れた人々に暖かさや懐かしさを感じさせてくれる。

近江商人発祥の地 近江八幡

歴史巡礼 天王寺七坂

Edit Category ウォーキング
大坂夏の陣の最終決戦となった「天王寺口の戦い」ジオラマ模型②

昨年の秋頃、大阪の中心部を南北に走る上町台地に位置している歴史跡地や古戦場を巡り、真田丸をメインにした記事に纏めた際、機会があれば、真田信繁が最期を迎えた天王寺口の戦いの場所周辺も是非とも訪れてみたいと考え、いつものように健康のためのウォーキングも兼ねて、天王寺七坂を巡るコースを散策することにし、休日の午後、嫁さんと地下鉄で谷町九丁目に向かった。

天王寺七坂

上町台地の西側、天王寺区の谷町筋と松屋町筋の間にある天王寺七坂は、NHK大河ドラマ「真田丸」の影響もあり、訪問者も多くなったエリアである。谷町九丁目から天王寺までの谷町筋の西側に分布する真言坂(しんごんざか)・源聖寺坂(げんしょうじざか)・口縄坂(くちなわざか)・愛染坂(あいぜんざか)・清水坂(きよみずざか)・天神坂(てんじんざか)・逢坂(おうさか)からなる7ヶ所の坂道の界隈は神社仏閣が多く、旧跡も多い。各々の坂の風景を楽しみながら、周辺の歴史を訪ね歩くことができる散策コースである。

浪華名所獨案内 1832年(天保3年)
浪華名所獨案内 1832年(天保3年)

浪華名所獨案内という江戸時代の大阪の観光ガイドマップ(木版の一枚刷り)が大阪歴史博物館に所蔵されており、天保年間の大阪の観光名所が様々に記載されたこの地図は、1832年(天保3年)に、或る合薬屋が広告として作ったものと云われ、近世大坂の名所や店舗が記されている。図の上部の左寄りに、御城が大きく描かれ、右方向には、生玉宮~茶臼山を最南端にして記載されている。天王寺七坂は、七福神巡りなどに因んだ通称と推察するが、最近では学園坂を加えて天王寺八坂と呼ばれる場合もある。

(交差法)
真言坂①(交差法)
(平行法)
真言坂①(平行法)

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真言坂②(交差法)
(平行法)
真言坂②(平行法)

(交差法)
真言坂③(交差法)
(平行法)
真言坂③(平行法)


谷町九丁目から生國魂神社に通じる真言坂が、天王寺七坂の最初の坂となるのだが、なかなかそれらしき坂を見つけることができない。生國魂神社の周辺には、ラブホテルが密集した一角があり、その前の道が緩やかな傾斜の坂となっているが、まさかこのような景観が名所の坂とは思えない。いきなりスタート地点で7~8分も彷徨った挙句、スマホのGoogle Mapを駆使してやっと方向の間違いに気付いた。天王寺七坂を逆順コースに巡る散策団体と思われる集団を見掛け、ようやくスタート地点となる真言坂に辿り着いた。

「浪花百景」 真言坂・生玉絵馬堂 歌川国員(左)/「摂津名所図会 生玉真言坂」吉野屋為八(右)
「浪花百景 真言坂」歌川国員 「浪花百景 生玉絵馬堂」歌川国員 「摂津名所図会 生玉真言坂」吉野屋為八

天王寺七坂を北から散策した場合、一番初めの真言坂は、生國魂神社の北門から千日前通に通じる七坂の中で南北に通る唯一の坂道となる。現在は、千日前通りから生國魂神社北門までの短い坂だが、千日前通りが整備される明治末期までは、北にある高津宮(高津神社)の参道から続く長い坂であった。生國魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄え、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院の六坊すべて真言宗であったので、真言坂と名付けられた。

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生國魂神社①(交差法)
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生國魂神社①(平行法)

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生國魂神社②(交差法)
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生國魂神社②(平行法)

生國魂神社は、石山崎(現在の大阪城付近)に生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を祀ったのが始まりとされる延喜式名神大社である。1580年(天正8年)の石山合戦の時に焼失したが、1583年(天正11年)豊臣秀吉が大阪城を築く際、現在の地に移転し、本殿は移転の2年後に神社建築では他に例のない生國魂造様式を用いて造営された。現在の本殿は戦後に建て替えられたコンクリート造銅板葺きだが、桃山時代の遺構を伝えている。総鎮守、伊勢神宮成立以前の国家神である所以として大阪最古の神社とされる生国魂神社は、地元では生玉(いくたま)さんと呼ばれている。

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生國魂神社 井原西鶴像(交差法)
(平行法)
生國魂神社 井原西鶴像(平行法)

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生國魂神社 織田作之助像(交差法)
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生國魂神社 織田作之助像(平行法)

生國魂神社の正面の鳥居から境内に入り右奥に進むと、生誕350年記念として1992年(平成4年)に建立された井原西鶴坐像が見えてくる。その先の生國魂神社の末社が立ち並ぶ場所には、2013年(平成25年)に建立された織田作之助のブロンズ像も見えてきた。織田作之助が大阪を歩く写真をモチーフに制作されたブロンズ像は、「庶民の生活に拘った“オダサク”の原点は、生まれ育った生國魂神社の周辺にある。そこに銅像を建てられるのは意義深い」との気運によって、庶民文学の礎として尊敬していた井原西鶴の坐像の近くに建てられた。

井原西鶴 芳賀一晶による肖像画
井原西鶴 芳賀一晶による肖像画

江戸時代前期、木版印刷が普及すると商業出版が本格的にスタートし、本が一気に身近になった。当初、出版業界の中心は京であり、仏書や歴史書など硬派な出版物が主流だったが、絢爛な文化が花開いた元禄期(1688年~1704年)になると、大坂で井原西鶴の絶倫男の一代記「好色一代男」が大ヒットし、娯楽作品によって出版革命を起こす。江戸時代中期を代表する大坂生まれの人気作家となった西鶴は、他にも町人の生活を軽妙に描いた「日本永代蔵」など庶民生活をテーマとした大ヒット作を連発し、浮世草子と称する分野の第一人者として人気を博した。

「好色一代男」井原西鶴 1682年(天和2年)
「好色一代男」井原西鶴 1682年(天和2年)

「好色一代男」女護島へ向かう世之介(左)/「好色一代男」の大ヒットによる娯楽作品革命(右)
「好色一代男」女だらけの島である女護島へ向かう世之介 井原西鶴「好色一代男」

「好色一代男」増村保造監督 市川雷蔵主演 1961年(昭和36年)大映作品(左)/近代映画1961年5月号「好色一代男」記事(右)
「好色一代男」市川雷蔵主演 1961年(昭和36年)大映作品 近代映画1961年5月号「好色一代男」記事

「好色一代男」は、金持ちの家に生まれた主人公 世之介の性的に放縦な人生を物語る。江戸時代には衆道(男色)も文学に取り上げられ、世之介が肉体的に交渉した女は3742人、男は725人と書かれている。世之介の最初の性的体験となる7歳から1年につき1挿話で、山盛りの宝と責め道具を好色丸に積み込み、女だらけの島である女護島へと向かって消息が途絶える60歳までの54年間を記述している。54という数字は「源氏物語」の全54帖に因んでいると云う。「好色一代男」は翻案されて増村保造監督、市川雷蔵主により、映画化(昭和36年 大映作品)されている。

「日本永代蔵」井原西鶴 1688年(元禄元年)
「日本永代蔵」井原西鶴 1688年(元禄元年)

「駿河町越後屋正月風景図」(作者不詳)
駿河町越後屋正月風景図(作者不詳)

【江戸東京博物館 三井越後屋 江戸本店 ジオラマ模型】
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江戸東京博物館 三井越後屋 江戸本店 ジオラマ模型②(交差法)
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江戸東京博物館 三井越後屋 江戸本店 ジオラマ模型②(平行法)

「日本永代蔵」(巻一、四)昔は掛算 今は当座銀 ~江戸にかくれなき出見せ 一寸四方も商売の種~では、三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた三井高利について書かれている。伊勢 松阪で木綿を商売していた三井高利が、江戸駿河町に「越後屋呉服店」(三越百貨店の起源)を開店し、“現銀掛け値なし”という新商法を掲げて価格を下げ、切り売りをして庶民の人気を集めた。10年後「三井両替店」を開設し、幕府の金銀御用達としての地位を得て大商人となった三井高利の商いを「人の気を見て商の上手は此国の人也」と伊勢商人の商売上手を賞賛している。

井原西鶴「鯛は花は 見ぬ里もあり 今日の月」(左)/井原西鶴の墓 誓願寺(中)/「西鶴置土産」(右)
井原西鶴「鯛は花は 見ぬ里もあり 今日の月」 井原西鶴の墓 誓願寺 「西鶴置土産」

西鶴は、673年(寛文13年)32歳の時、生國魂神社に俳人200人を集めて大規模な万句興行を主催する。34歳の時、愛する妻が25歳の若さで先立ち、亡き妻に捧げる1000句を吟じ続けた「俳諧独吟一日千句」として名を高め、一定時間内に如何に多くの俳諧を詠めるかという矢数俳諧(やかずはいかい)の創始者となる。1680年(延宝8年)生國魂神社で矢数俳諧を興行し、「天下矢数二度の大願四千句也」を発句として一昼夜独吟4000句を詠むことを成し遂げた。

井原西鶴坐像

更に妻の死から9年後、西鶴は一昼夜で2万3500句という途方もない記録を樹立して俳諧に別れを告げ、41歳で作家として新たにデビューし、大ヒット作家としても大成した西鶴は、妻の死後、再婚話も幾度かあったと思われるが、52歳の生涯、再び妻を迎えることはなかった。作風とは対照的に亡き妻一筋に生きた一途な人物であった。

「織田作之助 生誕100周年 大阪逍遥地図」(左)/富田林本町公園 織田作之助記念碑(右)
「織田作之助 生誕100周年 大阪逍遥地図」 富田林本町公園 織田作之助記念碑

織田作之助は、無頼派(新戯作派)の一人として活躍し、オダサクの愛称で親しまれた大阪出身の小説家である。小説家を目指して青山光二らと同人誌「海風」を創刊、同誌に短編を幾つか発表し次第に注目を集めるようになり、1940年(昭和16年)「夫婦善哉」で本格的に文壇デビューした。戦後、世相や風俗を鋭い感性で描いた作品が人気となり、太宰治坂口安吾らとともに無頼派の作家として活躍した。

「夫婦善哉」織田作之助 1940年(昭和15年)自筆原稿と初版本(左)/1955年(昭和30年)東宝作品(中)/柳吉と蝶子の関係(右)
「夫婦善哉」 1940年(昭和15年)織田作之助自筆原稿と初版本 「夫婦善哉」森繁久彌主演 1955年(昭和30年)東宝作品 「夫婦善哉」 柳吉と蝶子の関係

作之助の「夫婦善哉」は1955年(昭和30年)森繁久彌、淡島千景 主演の映画作品となり、主演の二人は、毎日映画コンクールとブルーリボン賞で主演賞を受賞している。昭和初期の大阪を舞台に、勝ち気でしっかり者の芸者 蝶子と気弱で道楽者の問屋の若旦那 柳吉の愛情を浪花情緒豊かにユーモラスに描かれた作品となった。

法善寺横丁角にある「夫婦善哉」(左)/一人前で二杯のお椀に分けられた「夫婦善哉」(右)
法善寺・夫婦善哉 夫婦善哉

行方を晦ました柳吉がひょっこり帰ってきて、蝶子を連れて道頓堀からの通路と千日前からの通路の角の「夫婦善哉」の赤提灯の店を訪れる。大阪の法善寺の横に実在する1883年(明治16年)創業「夫婦善哉」の名物となった一人前で二杯のお椀に分けられた善哉は縁起物とされ、ミナミのシンボルとも言える法善寺横丁の通路の角にある作之助の「夫婦善哉」の舞台には、“水かけ不動さん”と親しまれる不動明王を参拝する観光客で賑わっている。

自由軒 難波本店(左)/「自由軒本店 織田作文学発祥の店」の額(中)/”織田作之助好み”名物カレー(右)
自由軒 難波本店 「自由軒本店 織田作文学発祥の店」の額織田作之助好み 名物カレー

「夫婦善哉」の中で、柳吉と蝶子が千日前の洋食店「自由軒」の名物カレーを食べ、柳吉曰く「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」との一節がある。作之助が通った「自由軒 難波本店」では、現在も名物カレーのメニューに“織田作之助好み”と書かれ、二代目店主 吉田四郎所蔵の自由軒店内で小説を書く作之助の写真に“トラは死んで皮をのこす、織田作死んでカレーライスをのこす”と書き添えられた額縁が飾られている。

1946年(昭和21年)11月25日 銀座の「Bar Lupin」(中)での織田作之助(左)太宰治(右)
織田作之助 Bar Lupin Ginza 太宰治

1946年(昭和21年)11月25日、無頼派作家の太宰作之助は、坂口安吾と共に実業之日本社主催の座談会に出席した。作之助は1時間程遅刻したのだが、太宰と安吾は座談会開始前に既に酩酊していたと云う。座談会の記録は、翌年4月20日付発行の「文学季刊」に掲載された。この日最後に銀座の文壇バーとして著名な作家が出入りした「Bar Lupin」で写真家の林忠彦が作之助を撮影中、泥酔した太宰が「おい、オダサクばっかり撮ってないで、俺も撮れよ」と言われて撮影した一枚は、太宰を写した最も有名な写真となった。

織田作之助イラスト  太宰治イラスト

作之助は、1944年(昭和19年)妻 一枝を子宮癌で亡くし(享年31歳)2年後に再婚したが、執筆中に大量の喀血を起こして東京で入院し、翌1947年(昭和22年)1月10日、33歳の若さで帰らぬ人となって、先立った妻の一枝の眠る墓に入った。作之助が肌身離さず大切にしていた遺品の封筒の中から、一枝の遺髪と写真が発見された。交流のあった太宰は、作之助の没後、翌1948年(昭和23年)6月13日、愛人と共に玉川上水で入水自殺し、奇しくも6日後の太宰の38歳の誕生日に遺体が発見された。

井原西鶴像 織田作之助の像

大阪に因んだ作家と云えば、古くは井原西鶴近松門左衛門、現代では司馬遼太郎などが挙げられるが、良き大阪を良き時代に描いた作家として織田作之助を外せない。作之助は虚飾や気取りに囚われない西鶴に心酔し、自身の「西鶴新論」では、「大坂で生まれ、大坂で育ち、大坂で書き、大坂で死に、その墓も大坂にある」と書いた。作之助は、西鶴のノンフィクションのような筆致によって人々の逞しさや悲喜劇を描くリアリズムを受け継いだ作家であり、先立った妻を一途に想い続けた人物像も重なる。

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生國魂神社③(交差法)
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生國魂神社③(平行法)

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生國魂神社④(交差法)
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生國魂神社④(平行法)

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生國魂神社 表参道 川崎孫四郎 自刃の所 石碑(交差法)
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生國魂神社 表参道 川崎孫四郎 自刃の所 石碑(平行法)

生国魂神社前の公園の一画には、表参道の脇に石碑が2基建っていた。一方は江戸時代後期の武士 島男也 旧居 碑で、1944年(昭和19年)の建立、他方は桜田門外ノ変の襲撃者 川崎孫四郎自刃の所 碑は、1969年(昭和44年)に建てられた。1860年(安政7年)3月3日、彦根藩の大名行列が江戸城桜田門にさしかかる場所で行列を襲撃し、大老 井伊直弼を暗殺した水戸藩の川崎孫四郎が、大阪で挙兵を図り幕府に追われてこの地で自害したとされる石碑と説明板に記されていた。

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源聖寺坂①(交差法)
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源聖寺坂①(平行法)

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源聖寺坂②(交差法)
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源聖寺坂②(平行法)

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源聖寺坂 齢延寺 鐘桜門(交差法)
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源聖寺坂 齢延寺 鐘桜門(平行法)

源聖寺坂は、坂の上り口にある源聖寺が名の由来となる。齢延寺には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東畡 藤沢南岳 父子の墓があり、銀山寺には、近松門左衛門「心中宵庚申」に登場するお千代、半兵衛の比翼塚がある。天王寺七坂の中でも、一番複雑な構造の坂になっており、寺の白壁と石段が調和して風格が漂う。途中から急勾配で大きくカーブした石段の先に長く続く道では、松屋町筋から東に10mの石畳があり、1969年(昭和44年)に廃止された大阪市電の敷石が転用されている。

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源聖寺坂③(交差法)
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源聖寺坂③(平行法)

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源聖寺坂④(交差法)
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源聖寺坂④(平行法)

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源聖寺坂⑤(交差法)
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源聖寺坂⑤(平行法)

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源聖寺坂⑥(交差法)
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源聖寺坂⑥(平行法)

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源聖寺坂⑦(交差法)
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源聖寺坂⑦(平行法)

天王寺区の生玉町から下寺町界隈は歴史ある寺社が多く点在することから、寺町と呼ばれる。戦国時代から、武士・商人・寺院などを城下町に集住させる政策があり、戦国大名による政治・経済・宗教などの権力を集中させる意味があった。天下人となった豊臣秀吉は、大坂城を築くとともに城下を整備し、多くの寺院を天王寺の周辺に移転させ、現在の寺町の原型となった。松屋町筋沿いの下寺町一丁目から二丁目一帯は25もの寺院が軒を連ね上町台地の緑を背景に当時の趣を残している。

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松屋町筋 光明寺(交差法)
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松屋町筋 光明寺(平行法)

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松屋町筋 心光寺①(交差法)
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松屋町筋 心光寺①(平行法)

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松屋町筋 心光寺②(交差法)
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松屋町筋 心光寺②(平行法)

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松屋町筋 心光寺③(交差法)
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松屋町筋 心光寺③(平行法)

次の口縄坂まで松屋町筋を暫く直進するのだが、複数人で談笑しながらゆっくり歩く人、一人で黙々と早足で歩く人、各々がマイペースでウォーキングを満喫している。松屋町筋沿いに建つ1624年(寛永元年)西尚により創建された心光寺は、浄土宗の寺院なのだが、国の登録有形文化財に指定された本堂は、インドのタージマハルのようなインド風の外観意匠とした寺院本堂建築である。パーム椰子の木がエキゾティックな雰囲気を醸し出しているが、周りには日本の伝統的なお墓が点在している。

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松屋町筋 萬福寺①(交差法)
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松屋町筋 萬福寺①(平行法)

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松屋町筋 萬福寺②(交差法)
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松屋町筋 萬福寺②(平行法)

萬福寺は、1594年(文禄3年)前田利家の弟の前田次郎兵衛利信と僧開導によって開創され、阿弥陀如来を本尊として祀る。1863年(文久3年)~1867年(慶応3年)新撰組の大坂駐屯地となり、大坂相撲力士との乱闘、町奉行与力 内山彦次郎暗殺などの事件が起こった。当時、本堂裏にあった納屋は牢として使われ、1865年(慶応元年)漢詩人 藤井藍田を拷問の上、絶命させた場所であり、他にも多くの志士が牢内に捕らえられていたと云う。現在、境内には四季の風情が楽しめる美しい庭園が広がり、芭蕉句碑が佇む。

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口縄坂①(交差法)
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口縄坂①(平行法)

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口縄坂②(交差法)
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口縄坂②(平行法)

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口縄坂 善龍寺(交差法)
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口縄坂 善龍寺(平行法)

口縄坂は、坂の下から眺めると、道の起伏が蛇(くちなわ)に似ているところから名付けられ。大阪を代表する坂として、被写体となる人気の坂である。坂の上には、織田作之助の文学碑があり、少し南側には、鎌倉前期の歌人で新古今和歌集の選定者、藤原家隆の墓があり、オダサクのファンの間では知られた坂だが、普段は地元の人が行き交うだけで静寂が漂う。

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口縄坂③(交差法)
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口縄坂③(平行法)

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口縄坂④(交差法)
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口縄坂④(平行法)

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口縄坂 織田作之助「木の都」文学碑(交差法)
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口縄坂 織田作之助「木の都」文学碑(平行法)

戦時下の1944年(昭和19年)3月、「新潮」に発表された作之助の短編小説「木の都」の文学碑が置かれた口繩坂の上に立つと、西の空を見つめる作之助が居るような感覚に包まれる。その年の5月には、妻 一枝の病状がさらに悪化し、戦局が悪化して大阪にも空襲があり、死が次々と重なる時間の流れの中で、自らが育った下町を舞台に巡る作之助の回想が坂上の碑に偲ばれる。

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愛染堂 勝鬘院(交差法)
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愛染堂 勝鬘院(平行法)

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愛染堂 勝鬘院・大江神社(交差法)
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愛染堂 勝鬘院・大江神社(平行法)

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愛染坂①(交差法)
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愛染坂①(平行法)

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愛染坂②(交差法)
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愛染坂②(平行法)

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愛染坂③(交差法)
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愛染坂③(平行法)

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愛染坂④(交差法)
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愛染坂④(平行法)

愛染坂は、大阪星光学院(南)と大江神社(北)の間に位置し、坂の下り口に位置する愛染かつらで有名な愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)が名の由来である。豊臣秀吉の寄進により1600年(文禄三年)創建された境内の多宝塔は、大阪市内最古の建造物として重要文化財に指定されている。愛染堂の隣の大江神社には夕陽岡の碑があり、色に染まる空の美しさにより“夕陽ヶ丘”の地名の由来となる。境内には狛犬ならぬ狛虎が鎮座し、阪神タイガースの守り神として多くのファンが参拝に訪れる。

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清水坂①(交差法)
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清水坂①(平行法)

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清水坂②(交差法)
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清水坂②(平行法)

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清水坂③(交差法)
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清水坂③(平行法)

清水坂は、有栖山清水寺(南)と大阪星光学院(北)の間に位置し、坂の上の清水寺が名の由来となる。高台にある清水寺境内は、通天閣などが一望できる格別の眺望と云われる。境内の南側の崖には、京都の清水寺音羽の滝を模した大阪市内唯一の滝、玉出の滝が流れている。この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、増井・逢坂・玉手・安井・土佐(有栖)・金龍・亀井の清水は天王寺七名水と呼ばれている。

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天神坂①(交差法)
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天神坂①(平行法)

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天神坂②(交差法)
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天神坂②(平行法)

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天神坂③(交差法)
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天神坂③(平行法)

天神坂は、坂の下の安居天神(安居神社)から由来している。天神坂を下った場所には、嘗ての湧き水の雰囲気を再現した石組みの樋のモニュメントが設置されており、付近一帯に昔から名水があることが偲ばれる。安居神社の境内にも癇静めの井(かんしづめの井)と呼ばれる井戸の跡が残っており、前出の七名水のひとつである。天神坂を下りきった場所に安居神社に通じる参道が現われ、真田ゆかりの地に導かれていく。

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安居神社 拝殿(交差法)
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安居神社 拝殿(平行法)

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安居神社 境内(交差法)
(平行法)
安居神社 境内(平行法)

安居神社は、少彦名神が祀られており創建年は不詳だが、901年(昌泰4年)菅原道真が太宰府に左遷された際、藤井寺の道明寺にいた伯母覚寿尼を尋ねる道中に四天王寺にお参りした後、立ち寄って安居(あんご)したことが名前の由来になり、942年(天慶5年)から菅原道真が祀られるようになり、安居天満宮とも云う。おそらく天王寺側から安居神社を目的に訪れた人も多く、境内には天王寺七坂の道中では見掛けなかった数の参拝者が訪れ、その視界の先に眞田幸村公之像が映る。

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安居神社 真田幸村公之像・真田幸村戰死跡之碑(交差法)
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安居神社 真田幸村公之像・真田幸村戰死跡之碑(平行法)

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安居神社 真田幸村公之像①(交差法)
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安居神社 真田幸村公之像①(平行法)

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安居神社 真田幸村公之像②(交差法)
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安居神社 真田幸村公之像②(平行法)

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安居神社 真田幸村戰死跡之碑(交差法)
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安居神社 真田幸村戰死跡之碑(平行法)

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安居神社 さなだ松(交差法)
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安居神社 さなだ松(平行法)

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安居神社 絵馬(交差法)
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安居神社 絵馬(平行法)

膝を立てて疲労困憊ながらも背筋を伸ばした眞田幸村公之像は、制作は堺出身の彫刻家の播間公次氏、建立と題字は宮司の中島一熙氏により、2009年(平成21年)12月に設置された。傍にある眞田幸村戦死跡之碑、信繁が寄りかかったと云われる二代目の一本松 さなだ松と共に大坂夏の陣で徳川方に討たれて戦死した真田幸村(信繁)の終焉の地のモニュメントとして、周囲は記念写真を撮る人々で溢れていた。境内の社務所には、ロケなどで安居神社を訪れた著名人や、大坂の陣を題材にした役を演じる俳優らの絵馬が展示されている。

大坂冬の陣 布陣図(左)/戦いの流れ(右)
大坂冬の陣 布陣図大坂冬の陣の流れ

1614年(慶長19年)暮れの冬の陣で、大坂方は信繁の真田丸での奮戦・活躍で大軍を誇った関東方と接戦し、膠着状態に持込んだ。徳川家康は和睦案を提示、大筒(大砲)を本丸に撃ち込まれ、怖じ気づいた淀殿は不利な講和条件を受入れ、老獪な家康は、外堀の破却に応じて出城であった真田丸や巨大な空堀であった惣構を破壊して廃材は堀に投込み、この機に乗じて和睦案にはなかった内堀まで埋め立てた。1615年(慶長20年)1月中旬頃には、秀吉が築城した天下の名城は本丸だけを残す防衛機能のない無防備な裸城と化した。

大坂の陣 真田戦記

信繁の資質を認め恐れた家康は、信繁の叔父である真田信尹を介して接触し、“信州で十万石下さるべく候旨”条件を提示して懐柔を謀るが、信繁は「秀頼には恩がある」として拒んだ。更なる“信濃一国の大名”との説得に「信濃一国どころか、日本国中の半分を戴けるとしても、私の気持ちは変わりません」と立腹して対面しなかったと云う。信繁は、文字通り裸城となった大坂城を背に討ち死にする覚悟を決める。

防衛機能のない無防備な裸城となった大坂城
大坂城再現

4月末から前哨戦が始まった大坂夏の陣に於いて、大坂城が城塞としての防御力を失ったことにより、前年の冬の陣の籠城戦から一転、家康本陣を切り崩すべく、城の外での野戦が繰り広げられた。大坂方は機先を制すべく奈良街道を進む軍勢の出口道明寺を迎撃地と定め、5月6日の道明寺の戦いは激烈を極め、情報が錯綜し真田隊が遅参するなどして政宗率いる伊達勢の猛攻で大坂方はあわや全滅という危機に瀕したが、真田隊の活躍で形成挽回し、伊達軍の迂回進行を阻止して決定的敗北を回避した。

大坂夏の陣 布陣図(左)/戦いの流れ(右)
大坂夏の陣 天王寺・岡山合戦布陣図大坂夏の陣の流れ

大坂城を目指して北上する徳川軍の先鋒は、現在のあべのハルカス付近まで押し寄せ、四天王寺付近を最終防衛ラインとして布陣する豊臣軍と対峙した。翌5月7日、天王寺の戦いでは、前日のうちに道明寺方面より引き上げた大坂方は、総大将大野治房が本丸を背に布陣、精鋭である信繁ら実動隊は上町大地の外線上に陣を敷いた。道明寺戦で殆ど無傷だった毛利隊と茶臼山に陣取った真田隊が、徳川軍本隊との最終決戦となる戦いを迎えた。

大坂夏の陣図屏風(左)の中の真田赤備え(右)
大坂夏の陣図屏風 大坂夏の陣図屏風 真田赤備え

徳川軍15万5千に対し、多数の兵を失った豊臣軍は僅か5万5千でしかない。正午頃に開始された戦闘は激戦となり、土佐を抜け出して豊臣方に参戦した毛利勝永の活躍により、徳川軍は先鋒の本多忠朝、後方の小笠原秀政が毛利隊に次々と討ち取られ、陣形を崩す。間隙を突いた真田隊によって福井藩主の松平忠直の大軍も突破される。鬼神の如く家康の本陣に切り込んだ真田隊によって旗本隊は大混乱に陥り、徳川の馬印が転倒、護衛の兵が散って孤立状態に陥った家康は、絶望により自害を覚悟したと云われる。

安居神社 NHK「真田丸」のシーン
西尾宗次と真田幸村 NHK「真田丸」のシーン

混乱に乗じて敵陣を突破した真田隊は家康の本陣への突入に成功し、三度の猛攻を加えるが、駆けつけた井伊隊、藤堂隊の反撃により、本陣は態勢を立て直し、真田隊を辛くも撃退する。疲弊した信繁は、安居天神(安居神社)で休息しているところを松平忠直の鉄砲組頭 西尾久作に討たれ、49年の生涯を閉じた。松平隊は信繁を打ち倒した勢いで一気に大坂城へと攻め寄せ、本丸を占拠して大坂夏の陣は徳川軍の勝利に終わった。家康は茶臼山に登り、頂上に旗を立て、麓に諸将を集めて勝鬨を挙げたと伝えられる。

炎上する大坂城
大坂城炎上

天王寺口の戦いは、5月7日の正午頃に開戦し、大阪城が炎上したのが午後4時ぐらいとされる。大野治長は秀頼の正室で、徳川秀忠の娘である千姫を救助する引き換え条件として、秀頼と淀殿の助命を懇願したが家康は無視した。大坂城は炎に包まれ、翌日、城内山里曲輪(山里丸)の蔵の中で秀頼・淀殿母子は自害して果てた。

徳川家康

信繁の奮戦虚しく豊臣家は僅か二代で滅亡し、応仁の乱から150年続いた乱世の時代は遂に終焉を迎えた。翌1616年(元和2年)家康は鷹狩の最中に胃の病で倒れて息を引き取り、自身が開いた江戸幕府は、中央集権的武家政権として、15代 265年間存続する強固な幕藩体制として継がれていくのである。

(交差法)
安居神社 逢坂沿い入口(交差法)
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安居神社 逢坂沿い入口(平行法)

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逢坂①(交差法)
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逢坂①(平行法)

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逢坂②(交差法)
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逢坂②(平行法)

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逢坂③(交差法)
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逢坂③(平行法)

天王寺七坂で最も南側に位置する最後の逢坂は、西側から四天王寺西門に至る坂道となる。昔は合坂とも表記された。坂の下の合法ヶ辻(がっぽうがつじ)は、聖徳太子と物部守屋が仏法を論じて法を比べ合わせた場所と云われる。坂の南側に一心寺があり、坂を上った東側には、以前訪れた四天王寺がある。天王寺七坂の中で唯一、片側2車線の幹線道路(国道25号線)であり、残念ながら現在の逢坂には、近代以前、馬車が走る急な坂であった往古の風情は感じらない。

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一心寺①(交差法)
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一心寺①(平行法)

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一心寺②(交差法)
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一心寺②(平行法)

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一心寺③(交差法)
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一心寺③(平行法)

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一心寺④(交差法)
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一心寺④(平行法)

一心寺は、大勢の故人の骨を集めて作られた骨仏(お骨佛)の寺として有名な1185年(文治元年)創建の浄土宗の寺である。大坂冬の陣・大坂夏の陣では家康の陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれた。大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があるが、彼は酒を飲んで冬の陣で敗退し、家康に叱責されて見返すべく夏の陣で奮戦するも討ち死にするが、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言し、“酒封じの神”として、今でも墓所には禁酒を誓う人が詣でる。

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天王寺公園 茶臼山ゲート(交差法)
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天王寺公園 茶臼山ゲート(平行法)

諸国古城之図 摂津国茶臼山御陣城(左)/大坂の陣400年記念モニュメント設置(2014年9月9日)(右)
諸国古城之図 摂津国茶臼山御陣城 大坂の陣400年記念モニュメントとして設置した「大坂の陣茶臼山史跡碑」

一心寺を抜けて天王寺公園の北側ゲートから入場して直進すると茶臼山の麓にある広場に至る。天王寺公園内の茶臼山は、冬の陣では家康、夏の陣では信繁が本陣を構えた。大坂の陣400年を記念し、大阪府の史跡にも指定されている茶臼山の歴史的な意義や大坂の陣との繋がりを伝えるため、2014年9月9日、大坂の陣400年記念モニュメントが、一心寺の寄贈により設置された。

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天王寺公園 茶臼山①(交差法)
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天王寺公園 茶臼山①(平行法)

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天王寺公園 茶臼山②(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山②(平行法)


コンクリート製の床面上に、波型に彫り出された石(高さは最高で2.5m、総重量は約10t)を正面に見せ、さらにその上に碑文を刻んだ大きな円形の石を載せた。沸騰する波型のイメージで群雄割拠を象徴し、その上部の大きな円形の碑は、群雄割拠から統一が実現され、天下泰平につながるということを象徴しているという。茶臼山(古墳)が大阪府指定史跡のため、地下を掘削しないよう横長の形状にした。

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天王寺公園 茶臼山③(交差法)
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天王寺公園 茶臼山③(平行法)

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天王寺公園 茶臼山からのあべのハルカス(交差法)
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天王寺公園 茶臼山からのあべのハルカス(平行法)

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天王寺公園 茶臼山④(交差法)
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天王寺公園 茶臼山④(平行法)

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天王寺公園 一心寺ゲート(交差法)
(平行法)
天王寺公園 一心寺ゲート(平行法)

旧広島藩主浅野家に伝えられた「諸国古城之図」では、堀の外に曲輪があり、西の曲輪は大阪夏の陣で作られたと伝わり、茶臼山から隣接する一心寺の南門と繋がっている。茶臼山自体は標高26mの小山で、登り口のところにモニュメントが設置されたが、山頂部分には史跡を示すようなものは何も残されず、真田幸村に関する説明板が辛うじて設置されている。

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天王寺公園 茶臼山からの和気橋(交差法)
(平行法)
天王寺公園 茶臼山からの和気橋(平行法)

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天王寺公園 和気橋からの通天閣(交差法)
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天王寺公園 和気橋からの通天閣(平行法)

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天王寺公園 和気橋からのあべのハルカス(交差法)
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天王寺公園 和気橋からのあべのハルカス(平行法)

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天王寺公園 茶臼山 和気橋①(交差法)
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天王寺公園 茶臼山 和気橋①(平行法)

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天王寺公園 茶臼山 和気橋②(交差法)
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天王寺公園 茶臼山 和気橋②(平行法)

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天王寺公園 茶臼山 和気橋③(交差法)
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天王寺公園 茶臼山 和気橋③(平行法)

1759年(宝暦9年)一心寺境内で嵯峨の清凉寺(釈迦堂)の出開帳が行われ、インドから中国・日本へと伝わった三国伝来の釈迦如来像を一目見ようと、連日多数の参拝客が押し寄せた。一心寺と茶臼山の間に仮橋が架けられ、仮設の茶店では参拝客は飲食を楽しみ賑わったが、家康ゆかりの聖跡が庶民の遊興の場になることを幕府は看過できず、茶臼山の周囲を竹垣で厳重に囲み、全山を禁足地にしたと云われる。

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慶沢園・あべのハルカス(交差法)
(平行法)
慶沢園・あべのハルカス(平行法)

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大阪市立美術館①(交差法)
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大阪市立美術館①(平行法)

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大阪市立美術館②(交差法)
(平行法)
大阪市立美術館②(平行法)

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天王寺公園 新世界ゲート・通天閣(交差法)
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天王寺公園 新世界ゲート・通天閣(平行法)

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慶沢園 黒田藩蔵屋敷長屋門(交差法)
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慶沢園 黒田藩蔵屋敷長屋門(平行法)

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天王寺動物園(交差法)
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天王寺動物園(平行法)

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新世界 通天閣(交差法)
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新世界 通天閣(平行法)

「大阪市パノラマ地図」1923年(大正12年)(左)/「大礼奉祝交通電気博覧会鳥瞰図」 1928年(昭和3年)
「大阪市パノラマ地図」1923年(大正12年)新世界・天王寺公園・四天王寺(初代通天閣と木造の五重塔) 大礼奉祝交通電気博覧会鳥瞰図 1928年(昭和3年)

茶臼山の前の河底池に掛かる和気橋を渡り、慶沢園を通過して天王寺公園の中心に到達する。天王寺公園は、1903年(明治36年)第5回内国勧業博覧会(第1会場:天王寺、第2会場:大浜)が開かれた会場跡地の東側を公園として整備し、1909年(明治42年)天王寺公園として開園(通天閣を含む西側は新世界ルナパークとなる)した。旧住友家の名園 慶沢園や旧黒田藩蔵屋敷長屋門大阪市立美術館などの施設がある。西側には天王寺動物園が隣接する。

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天王寺公園からのあべのハルカス(交差法)
(平行法)
天王寺公園からのあべのハルカス(平行法)

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天王寺駅前陸橋からの通天閣(交差法)
(平行法)
天王寺駅前陸橋からの通天閣(平行法)

天王寺公園の新たな賑わいゾーン「てんしば」
てんしば 芝生公園「てんしば」MAP

天王寺公園の約26haの内の約25,000㎡のエントランス部を約7,000㎡の広大な芝生広場を中心とした新たな賑わいゾーンとして、「てんしば」と名付けて再整備し、2015年10月1日ニューアルオープンした。あべのハルカスから見下ろせる広々とした芝生広場にレストランやカフェ、子どもの遊び場やドッグラン、フットサルコート等の施設を配置し、あべの天王寺エリアの更なる活性化の核になると期待されている。

天王寺七坂
天王寺七坂-真言坂天王寺七坂-源聖寺坂2天王寺七坂-口縄坂天王寺七坂-愛染坂天王寺七坂-清水坂天王寺七坂-天神坂天王寺七坂-逢坂

尾道の坂道
尾道の坂道①尾道の坂道②尾道の坂道③尾道の坂道④尾道の坂道⑤尾道の坂道⑥尾道の坂道⑦

上町台地を巡る天王寺七坂は、アップ・ダウンが組み合わされた比較的傾斜の緩い坂道コース故、幅広い年齢層が楽しめるウォーキングコースである。坂を巡る順路からは、緑が乏しいと云われる大阪市街地のイメージとは違った表情の景観が堪能出来る。北側の生國魂神社から南側の一心寺に向かうコースの方が、長い坂道を下りコースとして歩くことが多いと感じられ、結果として楽なコースを選択したような気がする。初めて訪れた場所にも拘らず、寺が多くて坂の街である故郷の尾道のような趣きが感じられたためなのか、不思議な懐かしさが漂う。

上町台地

上町台地の西縁に沿って巡れば、嘗ては海だった大阪平野が刻々と暮れゆく情景が美しい。天王寺は歴史の重層する町であり、古代の寺院から戦国期の激戦地、江戸期の風流を楽しんだ料亭、近代文学の舞台になった坂などが散在する。遥か昔から水都として発展した地に魅せられた人々は、活気に満ちた豊かな文化を築きながら歴史を育んできた。天王寺七坂から繁華街の喧騒を遠くに眺めると、この場所に大坂の真髄が染み込んでいることを示しているように夕陽が照らす。

天王寺七坂探訪MAP

歴史巡礼 上町台地

Edit Category ウォーキング
大坂夏の陣の最終決戦となった「天王寺口の戦い」ジオラマ模型

休日の午後、嫁さんと一緒に大阪市内の森ノ宮~玉造界隈にある歴史の跡地を巡る散策に出掛けた。現在、NHKの大河ドラマ「真田丸」は、私は観ていないが、“時代劇”好きで特に戦国時代に詳しい嫁さんは、毎回欠かさず録画して観ている。私の方は昔から連続ドラマを観ることが苦手で、大河ドラマのように一年で完結する番組など、なおさら観る習慣が無い。一方で、歴史解説番組などは興味深く観ることが多い。

街を実際に歩いて探索するバラエティ 紀行番組「ブラタモリ」(NHK)
ブラタモリブラタモリ「真田丸」

今回の散策探訪も歴史解説番組を観て「真田丸」に興味を抱いたことと併せ、家から近場で気軽に訪れることができる場所であり、ウォーキングに程好いコースであったことが足を向かせた。更に偶然だが、散策探訪の直後にNHKの「ブラタモリ」で、豊臣秀吉が築いた大坂城が難攻不落だった理由を絵図や地形をもとに様々な角度から徹底的に紐解き、真田丸跡地の散策による判り易い説明によって復習出来たことが実にありがたかった。

(交差法)
うどん居酒屋 麦笑①(交差法)
(平行法)
うどん居酒屋 麦笑①(平行法)

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うどん居酒屋 麦笑②(交差法)
(平行法)
うどん居酒屋 麦笑②(平行法)

まずは森ノ宮駅周辺で昼食を摂るところからスタートした。以前から気になっていた「うどん居酒屋 麦笑(むぎわら)」を訪れ、私は「えび天おろしぶっかけセット」※950円を麺大盛りで、嫁さんは「トリ天ぶっかけ」※800円を注文した。コシが強くて極太の冷たいうどんと揚げたての衣がサクサクして中身のボリュームある天婦羅との組み合わせの味と温度が絶妙で、塩でも天ぷらを堪能出来るようにしてある心遣いが嬉しい。何よりコストパフォーマンスが秀逸で必ず満足出来る店であった。

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歴史の散歩道 案内図①(交差法)
(平行法)
歴史の散歩道 案内図①(平行法)

昼食後は、再び森ノ宮駅に戻った地点を出発点として散策をスタートした。森ノ宮は、肝臓治療の為に定期的に「国立病院機構 大阪医療センター」に通う際に通る場所であり、北側には「大阪城公園」の入り口があり、大阪の人々には馴染み深い場所でもある。

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鵲森宮①(交差法)
(平行法)
鵲森宮①(平行法)

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鵲森宮②(交差法)
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鵲森宮②(平行法)

森ノ宮駅前にある地名の由来である「鵲森宮」(かささぎもりのみや)は、通称を森之宮神社と称し、聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人皇后、及び聖徳太子を主祭神として本社に祀り、奧社に天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る歴史ある神社である。「日本書紀」には、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が二羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述があり、難波の杜は当社の森とされて鵲の森と称され社名となったと伝わる。

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森ノ宮から中央大通り沿い(交差法)
(平行法)
森ノ宮から中央大通り沿い(平行法)

森ノ宮から西方面へは法円坂と称する緩やかな坂道になり、上町台地の東端から上がっていることを実感できる。大阪は古くは大坂と表記され、坂のある地形が由来しているが、“大きい坂”ではなく、戦国期以前では “小坂”“尾坂” の表記が見られ、坂が阪になった由来は、土偏に反旁の文面が“士が反る(武士にそむく)”意味を連想させることを回避したことや役人の書き間違いなど諸説があるが定かではない。法円坂は、江戸時代は大坂代官所が置かれ鈴木町と称され、法円坂と改称された謂れは定かではなく、浄照坊の開祖の法円が邸宅を構えていたという説と慶長期以前に法案寺(生國魂神社の神宮寺)の転訛などの諸説がある。

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もりのみやキューズモールBASE①(交差法)
(平行法)
もりのみやキューズモールBASE①(平行法)

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もりのみやキューズモールBASE②(交差法)
(平行法)
もりのみやキューズモールBASE②(平行法)

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パル法円坂①(交差法)
(平行法)
パル法円坂①(平行法)

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パル法円坂②(交差法)
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パル法円坂②(平行法)

真っ直ぐ進めば、以前の記事、「聖地巡礼 球場物語」で紹介した嘗ての近鉄バファローズの本拠地であった日本生命球場の跡地に出来た商業施設「もりのみやキューズモールBASE」がある。国内の商業施設では初めて、屋上に本格的なランニングトラック(エアトラック)を常設し、球場跡地に建設したことから、施設名には野球の塁を意味するBASEを入れている。大阪医療センターを訪れた際は、キューズモール内のフードコートや「アネックス パル法円坂」(大阪市教育会館 ※旧大阪市立中央青年センター)に隣接するウェディングハウス「パル法円坂」を利用することが多い。

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歴史の散歩道 森之宮勝山線 石碑(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線 石碑(平行法)

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難波宮内裏東方遺跡 案内図(交差法)
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難波宮内裏東方遺跡 案内図(平行法)

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難波宮跡公園①(交差法)
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難波宮跡公園①(平行法)

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難波宮跡公園②(交差法)
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難波宮跡公園②(平行法)

大阪歴史博物館に展示された飛鳥時代中頃の前期・難波宮 再現模型
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前期・難波宮 飛鳥時代中頃 再現模型(交差法)
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前期・難波宮 飛鳥時代中頃 再現模型(平行法)

暫く直進すると「歴史の散歩道」の石碑があり、更に400m先にある「難波宮跡公園」は、孝徳天皇が築いた難波宮の大極殿跡を中心に約1km四方に広がる遺跡広場である。日本最古の皇居と云われる宮殿遺跡からは、大化の改新(645年)の際に遷都された長柄豊碕宮と奈良時代の聖武朝難波宮が発掘された。都は長岡京・平城京・平安京・鎌倉・江戸と遷移していく歴史で、大阪は常に第二の都市として発展を続け、外交の窓口として貿易や文化交流において重要な役割を果たしてきた。

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中央大通(交差法)
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中央大通(平行法)

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国立病院機構 大阪医療センター(交差法)
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国立病院機構 大阪医療センター(平行法)

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大阪歴史博物館(交差法)
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大阪歴史博物館(平行法)

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NHK大阪放送局六文銭幟(交差法)
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NHK大阪放送局六文銭幟(平行法)

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NHK大阪放送局からの大阪城(交差法)
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NHK大阪放送局からの大阪城(平行法)

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大阪医療センターからの中央大通(交差法)
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大阪医療センターからの中央大通(平行法)

難波宮跡に面した上町筋を横断すると大阪医療センターがあり、この病院で定期的に肝臓の診察を受診している。国立病院機構であるが故、事前予約した日時に嫁さんと共に訪れている。中央大通を挟んだ北側には、以前の記事、「水都の遷移」で訪れた「大阪歴史博物館」「NHK大阪放送局」があり、「大阪府警察本部」が隣接している。中央大通を東方向に直進すれば御堂筋と交差し、私の勤務地である本町に至る。

昨年入院時の大阪医療センターからの夕景
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大阪医療センターからの眺望①(交差法)
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大阪医療センターからの眺望①(平行法)

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大阪医療センターからの眺望②(交差法)
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大阪医療センターからの眺望②(平行法)

大阪医療センターからの後期難波宮の遺跡
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後期難波宮遺跡①(交差法)
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後期難波宮遺跡①(平行法)

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後期難波宮遺跡②(交差法)
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後期難波宮遺跡②(平行法)

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後期難波宮遺跡③(交差法)
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後期難波宮遺跡③(平行法)

大阪歴史博物館に展示された奈良時代前半の後期・難波宮 再現模型
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後期・難波宮 奈良時代前半 再現模型(交差法)
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後期・難波宮 奈良時代前半 再現模型(平行法)

昨年、大阪医療センターに検査入院した際、屋上からの絶景に癒されたことが懐かしく、通院で訪れた際に屋上に上ると、病院建て替え工事で発掘された後期難波宮の遺跡が見えた。12月3日、発掘調査を実施した大阪市教育委員会大阪文化財研究所による現地説明会によれば、後期難波宮の朝堂院西方で、官衙(かんが ※役所)とみられる建物群と重要な施設を囲む区画施設の一部が見つかり、後期難波宮の曹司(実務的な役所)は初めての発見例とのこと。区画施設は「五間門(ごけんもん)区画」と称する一画の南面の塀で、平安宮の豊楽院に当る重要な政務や儀式の場と推測される。8世紀後半は、首都の平城京に対し、後期難波宮は副都の役割を担う二都並立の時代だったと云われ、海に面する難波宮が外交や交易に関する政策の拠点と鑑みれば、政治の平城京、経済の難波宮との推測も成り立ってくる。

大阪平野の変遷(左)/上町台地MAP(右)
大阪平野の変遷 上町台地MAP

太古の昔、大阪は現在の生駒山地の麓まで海であり、真ん中に大きな半島が伸びていた。縄文時代、大阪平野は内海(河内湖)の一部であったが、淀川と大和川から流れ出る土砂と相まって低地が形成された。満潮になると海流が淀川や大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しになる湿地帯の低地では、“波にさらされる土地”は浪速(難波)の地名となり、“河の内”は正に河内の地名となった。難波潟と称する半島状の陸地であった上町台地は当時の大坂、摂津地方で唯一地盤が固く、古くから高台には、政治・文化の中心地として歴史上大きな役割を果たしてきた大阪のシンボル的な建造物が築かれた。

縄文時代の大坂・1700年頃の大坂

大阪は旧石器席代や縄文・弥生時代の遺跡、古代の難波宮跡をはじめ、豊臣家の栄枯盛衰を今に語る大阪城の周辺は、大阪の神髄が色濃く残るエリアとして貴重な文化遺産が多い。大阪市では先人の遺業や由緒ある史跡を顕彰するための施策を進めており、その一つである「歴史の散歩道」は、史跡や古くからの道筋などを結ぶモデルコースである。「歴史の散歩道」として整備されたタウンウォーキングコースは、徳川軍を最後まで苦しめ、大坂夏の陣で壮絶な最期を遂げた真田信繁(幸村)ゆかりの地でもある。再び、「歴史の散歩道」の道標まで戻り、南方向に下って散策することにした。

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歴史の散歩道 案内図②(交差法)
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歴史の散歩道 案内図②(平行法)

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歴史の散歩道 森之宮勝山線①(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線①(平行法)

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歴史の散歩道 森之宮勝山線②(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線②(平行法)

大坂城下には多くの大名屋敷が建てられ、「越中井」は、屋敷の台所の井戸跡と伝わり、1934年(昭和9年)当時地元の越中町内会の人々によりガラシャ夫人の徳を偲んで顕彰碑を建立した。細川越中守忠興の屋敷跡は周囲の越中公園、カトリック玉造教会に位置したとされ、細川ガラシャとして知られる忠興の妻は、明智光秀の娘・玉で、キリシタンとなって洗礼名をガラシャと称した。

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越中井①(交差法)
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越中井①(平行法)

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越中井②(交差法)
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越中井②(平行法)

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越中井 案内図(交差法)
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越中井 案内図(平行法)

1600年(慶長5年)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い、会津征伐に出陣中、石田三成がガラシャを人質にしようとしたが、ガラシャはこれを拒否し、自害を禁じられたキリシタン故、家臣の小笠原秀清に槍で胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。ガラシャの辞世の句を刻んだ記念碑が、井戸の脇に建っている。越中井から200mし先に直進すると、教会らしき建物が見えてきた。

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歴史の散歩道 森之宮勝山線③(交差法)
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歴史の散歩道 森之宮勝山線③(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂①(交差法)
(平行法)
大阪カテドラル聖マリア大聖堂①(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 案内図(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 案内図(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ファチマの聖母と羊飼い(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ファチマの聖母と羊飼い(平行法)

「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」は、1894年(明治27年)「聖アグネス聖堂」として建てられたが、空襲で焼失し、1963年(昭和38年)大聖堂となった。

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア像(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア像(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 高山右近 石像(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 高山右近 石像(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシア 石像(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシア 石像(平行法)

敷地が細川家の屋敷跡であったことから、大聖堂前には細川ガラシャと高山右近の石像がある。右近は、ガラシャの夫・忠興と同じく利休七哲の一人であり、またキリシタン大名でもあり、ガラシャにキリストの教えを施したと云われる。右近は、キリシタン追放令でも信仰を曲げず、遂にはマニラに追放された。

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア大壁画(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 栄光の聖母マリア大壁画(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ステンドグラス(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ステンドグラス(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ガラシャ記念碑・右近句碑(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂 ガラシャ記念碑・右近句碑(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂②(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂②(平行法)

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大阪カテドラル聖マリア大聖堂③(交差法)
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂③(平行法)

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大阪女学院大学(交差法)
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大阪女学院大学(平行法)

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空堀町交差点(交差法)
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空堀町交差点(平行法)

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長堀通①(交差法)
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長堀通①(平行法)

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長堀通②(交差法)
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長堀通②(平行法)

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長堀通③(交差法)
(平行法)
長堀通③(平行法)

大阪カテドラル聖マリア大聖堂から緩やかな坂を下ると大阪女学院大学があり、更に直進すると空堀町交差点に達する。空堀町は大坂冬の陣後に埋め立てられた南惣構堀の遺構である空堀跡に位置し、長堀通沿いの周辺は現在も起伏に富んだ地形となっている。

豊臣秀吉(左)/豊臣大坂城天守再現CG画(右)
豊臣秀吉豊臣大坂城天守

天才的な軍略家の織田信長ですら、11年間も攻め倦ねた天然の要害であった石山本願寺跡地に、1583年(天生11年)豊臣秀吉は大阪城の築城を開始した。最大6万人の人夫が動員されて石垣が完成し、2年後に天守が築かれた。信長執念の石山の地を秀吉が引き継いだ上町台地の高台は、京と淀川で結ばれ奈良や堺にも近い要衝の地である。西は難波の海に面しており、北は天満川・淀川が自然の堀となり、東も大和川の支流が流れて深田地帯となり、三方を河川・湿地に守られた難攻不落の堅城であったが、南は上町台地の滑らかな丘陵が天王寺方面に続くという地勢が唯一の弱点とされた。

カシミール3Dでの真田丸位置(赤印)
カシミール3Dと真田丸絵図との照合

弱点を補うため、総構えとして上町台地に掘削した南惣構堀は、入念に作られた巨大な空堀であったと云う。構造的には上町台地を横切る形で深く掘り込まれた素掘りの空堀に柵を巡らせた簡素なものだったようだが、その防御力には絶大なものがあった。徳川家康による大坂城攻め(大坂冬の陣)の際、豊臣方の武将・真田信繁が総構えから大きく突出した丸馬出「真田丸」を築城して攻め来る徳川勢を迎え撃った。

真田一族 真田昌幸・真田信繁(幸村)・真田信之
真田昌幸真田信繁(幸村)真田信之


後の信濃国上田城主真田昌幸の次男として生まれた真田信繁は、真田家が織田、北条、徳川、上杉とめまぐるしく主君を変える中で上杉景勝の人質となり、その後は豊臣秀吉の人質となる。1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で、信繁は父 昌幸とともに石田三成が率いる西軍につき、兄 信之は徳川家康が率いる東軍につき、真田家は親子兄弟が東西に分かれて戦うことになり、結局、西軍は敗退に伴い、信繁は34歳にして昌幸とともに九度山(和歌山県)に幽閉の身となる。信繁は苦しい窮乏生活で老い、九度山で父の昌幸の病死を見届けた。

真田三代の略系図
六文銭幟 真田三代の略系図

真田三代(左から昌幸・信繁・幸隆)甲冑レプリカ(左)/真田父子犬伏密談図(右は昌幸、相向かいは信之、間で話を聞く信繁)(右)
真田三代甲冑レプリカ(上田市観光会館) 真田父子犬伏密談図 上田市博物館所蔵

1614年(慶長19年11月)大阪冬の陣は、天下を手中にした徳川家康が20万の大軍で豊臣秀吉が築いた大坂城に迫った。守るのは秀吉亡き後、豊臣家の当主となった秀頼と寄せ集め10万の兵では、誰の目にも家康の勝利は明らかに見えたが、大坂城の東南にそれまで存在しなかった砦が、徳川軍の前に忽然と立ちはだかっていた。関ヶ原の合戦に敗れた豊臣方に味方する武将は殆どいない状況下、高野山に追放されていた48歳の信繁が、三途の川の渡し賃を意味する六文銭を旗印に不惜身命の覚悟で馳せ参じたのである。

「真田十勇士」(2016年 松竹作品)で再現された真田丸
「真田十勇士」で再現された真田丸

大坂の陣で真田が入城したと聞いた徳川家康は、持っていた扇子を落として狼狽し、「籠城したのは親(昌幸)か?子(信繁)か?」と家臣に尋ねたと云う逸話があり、昌幸は既に死去し、息子の信繁が入城した旨の返答に家康は安堵したと云う。数に勝る徳川軍は力攻めを試みるが、一度の戦闘で一万を超える兵を失い大敗を喫した。徳川の大軍を僅か5千の兵で翻弄し震え上がらせた砦こそが、難攻不落の出城の要塞「真田丸」である。

NHK大河ドラマ「真田丸」再現CGシーン
NHK大河ドラマ「真田丸」再現CGシーン

信繁は、大坂冬の陣の軍議で積極的な出撃を主張するが、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派に聞きいれられず、辛うじて出丸を築いて戦うことは了承された。優劣明らかな「徳川vs豊臣」「江戸vs大坂」の戦いに臆することなく、不遇に耐えて心の刃を研いでいた信繁は、寄せ集められた浪人達の心を掴み、大坂城の南側の攻勢を想定して真田丸を築いた。徳川方を迎撃し、信繁の武名を天下に知らしめた出丸の謎は、想像を絶する規模、通説を覆す不思議な形、強力な仕掛けなど、戦国最大のミステリーの一つとされている。

大坂冬の陣絵図 ※上が東方向(左)/真田丸合戦布陣図(右)
大坂冬の陣絵図(大坂城近郊絵図) 真田丸合戦布陣図

信繁は、後藤又兵衛基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登という名高い浪人達と共に大坂五人衆を形成して徳川幕府に対抗した。豊臣方は豊臣秀頼が主君であり、その元で家臣や浪人達を纏める総司令官は大野治長である。その傘下に大坂五人衆が位置し、各々浪人達の軍団を率いるという体制となる。豊臣の直臣である治長の弟・大野治房や木村重成も軍団を率いたが、大坂五人衆とは別の指揮系統になり、豊臣家の直臣ではない大坂五人衆は、治長の直属部隊であった。

錦絵「大坂篭城真田幸村勇戦之図」 歌川芳虎 上田市立博物館蔵
「真田幸村勇戦之図」歌川芳虎

翌1615年(慶長20年5月)大坂夏の陣では、道明寺の戦い、天王寺口での戦いに出陣し、徳川方の圧倒的な兵力に対して果敢に攻め込んで本陣の馬印を倒し、家康に自害を覚悟させるほどであった奮戦ぶりが伝えられている。薩摩の島津家久は、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候」と書き残し、信繁を称えている。しかし信繁の奮戦も空しく大坂城は落城し、豊臣滅亡とともに信繁も49歳でその生涯を閉じた。

NHK大河ドラマ「真田丸」真田丸「真田幸村の謀略」(1979年 東映作品)「真田十勇士」(2016年 松竹作品)
「真田太平記」NHKドラマ①(1985年~1986年放映)「真田太平記」NHKドラマ②(1985年~1986年放映)「戦国BASARA」の真田幸村「信長の野望 創造 戦国立志伝」の真田幸村「真田太平記」コミック版(2016年 朝日新聞作品)

信繁による真田十勇士を従えての奮戦ぶりは、軍記物や講談になって広く庶民に伝えられた。派閥に阻まれつつ孤軍奮闘した勇者として、男気に満ちた信繁の生き様は現在も多くの人々を魅了し続け、「戦国最後のヒーロー」として、多くの映画、アニメ、ゲームなどでも様々な信繁像が描かれている。

真田幸村の生涯 真田幸村の生涯②

通説では、信繁が幸村と称されたのは江戸時代の「難波戦記」からで、大坂の陣で徳川を最も困らせた信繁の名を偽名の幸村に差し替えたのが始まりとの説が今も有力とされる。関ケ原以降、真田昌幸との関係を徳川に咎められることを嫌った信幸は、その名を信幸から、信之に改めている。通り字を捨てることで昌幸との関係を表すとも考えられており、大坂城入城後、通り字の「幸」を信之とは逆に使って、信繁は幸村と名乗ることで昌幸との関係、真田の魂を表したという諸説もある。

真田丸復元ジオラマ
真田丸復元ジオラマ

空堀町交差点で長堀通を横断すると真田丸が実在した周辺地である玉造地区に至る。大河ドラマの影響で、本来は閑静な場所でありながら、直近にて来訪者が多くなっている様子が窺える。大坂の陣の古戦場や史跡を巡る幾つかの散策コースも紹介されており、真田丸があった処とされる玉造界隈は、三光神社や心眼寺など参拝者が後を絶たない。玉造は、約5千年前の古墳時代の曲(勾)玉、丸玉と管玉で作られた首飾り、玉の原石、曲玉などを製作する玉造部(たまつくりべ ※大和朝廷の職人集団)の民が暮らす難波・玉作部として「日本書紀」に記されており、大阪市内最古の地名の由来となっている。

(交差法)
善福寺 どんどろ大師①(交差法)
(平行法)
善福寺 どんどろ大師①(平行法)

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善福寺 どんどろ大師②(交差法)
(平行法)
善福寺 どんどろ大師②(平行法)

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善福寺~心眼寺坂(交差法)
(平行法)
善福寺~心眼寺坂(平行法)

心眼寺坂の入口地点とも云える場所にある「善福寺(どんどろ大師)」は、“真田丸の戦死者を弔った寺”とも云われる。現在、善福寺のある位置には鏡如庵大師堂(鏡如寺・通称 どんどろ大師:古河藩主の土井利位が深く帰依し、“どいどのの大師”が訛って、“どんどろ大師”と称された)が明治時代に廃寺になり、1909年(明治42年)大阪府豊能郡にあった如意山甘露院善福寺を現在地へ移転して現在に至っている。歌舞伎の「傾城阿波の鳴門」の「どんどろ大師門前の場」での「巡礼姿の娘・おつると母親お弓の愁嘆場」が有名である。

タモリ認定「心眼寺坂」

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心眼寺坂(交差法)
(平行法)
心眼寺坂(平行法)

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心眼寺①(交差法)
(平行法)
心眼寺①(平行法)

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心眼寺②(交差法)
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心眼寺②(平行法)

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心眼寺③(交差法)
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心眼寺③(平行法)

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心眼寺④(交差法)
(平行法)
心眼寺④(平行法)

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心眼寺⑤(交差法)
(平行法)
心眼寺⑤(平行法)

どんどろ大師の先に見える心眼寺坂は、「日本坂道学会」副会長のタモリ認定の良い坂として「ブラタモリ」で紹介された。この坂に差し掛かると一気に人が増え、訪れる人の数で心眼寺の位置が判る。「心眼寺」は、1622年(元和8年)白牟上人が、真田信繁と真田大助の父子の冥福を祈るために創建された。白牟上人は滋野氏の一族であるとの説もあり、創建から寺の定紋は六文銭で、山号は真田山と称する。

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真田丸顕彰碑(交差法)
(平行法)
真田丸顕彰碑(平行法)

真田丸顕彰碑除幕式(2016年2月1日)
真田丸顕彰碑除幕式(2016年2月1日)

心眼寺には真田出丸跡と記されており、心眼寺の前には心眼寺坂を隔てて「大阪明星学園」がある。真田出丸跡と記された古地図「大坂三郷町絵図」や当時の史料、地形などから見て、大阪明星学園の場所に真田丸があったとする説が有力とされている。心眼寺坂周辺の餌差(えさし)町は、城下町の東の出入り口に当り、町名は藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の餌差を置いたことに由来する。大阪明星学園のテニスコート東側にある「真田丸顕彰碑」は、同学園が設置スペースを提供して建立され、今年2016年2月1日に除幕式が行われた。

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興徳寺①(交差法)
(平行法)
興徳寺①(平行法)

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興徳寺②(交差法)
(平行法)
興徳寺②(平行法)

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大應寺(交差法)
(平行法)
大應寺(平行法)

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円珠庵鎌八幡(交差法)
(平行法)
円珠庵鎌八幡(平行法)

「真田丸顕彰碑」から、高さ10mの准提観音がある「興徳寺」、鉄筋コンクリート造の個性的な本堂の「大應寺」と続く寺院群を通過し、右折して「円珠庵(鎌八幡)」に向かった。境内での撮影は禁止されている円珠庵は、冬の陣で陣を張った信繁が、境内にある榎(えのき)の霊木に鎌を勢いよく打ちつけ「鎌八幡大菩薩」と祈願し、戦勝したと伝えられる。その後の江戸時代初期、真言宗の高僧であり国文学者の契沖(けいちゅう)が、和泉の伏屋家にあった養寿庵を譲り受け、鎌八幡の境内に移築して円珠庵を開き、鎌八幡を深く信仰した。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、円珠庵は「祈祷寺」「悪縁を断つ寺 鎌八幡」として信仰を集めている。

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大阪明星学園①(交差法)
(平行法)
大阪明星学園①(平行法)

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大阪明星学園②(交差法)
(平行法)
大阪明星学園②(平行法)

円珠庵から北方向へは、前述の大阪明星学園の校門に続く道となる。男子修道会であるマリア会母体のカトリック・ミッションスクールの最上階にはマリア像があり、シンボルとして夜はライトアップされ、暗闇の中に神々しい姿が浮かび上がる。学園がある餌差町交差点付近は玉造で最も高い場所に位置し、大阪城の方向に向かうマリア像は、壮絶な戦場であった真田丸跡地を恰も鎮魂するかの如くに映る。

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大阪明星学園③(交差法)
(平行法)
大阪明星学園③(平行法)

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清水谷公園(交差法)
(平行法)
清水谷公園(平行法)

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天王寺区空清町(交差法)
(平行法)
天王寺区空清町(平行法)

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天王寺区空堀町(交差法)
(平行法)
天王寺区空堀町(平行法)

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心眼寺境内墓地①(交差法)
(平行法)
心眼寺境内墓地①(平行法)

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心眼寺境内墓地②(交差法)
(平行法)
心眼寺境内墓地②(平行法)

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天王寺区真田山町①(交差法)
(平行法)
天王寺区真田山町①(平行法)

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天王寺区真田山町②(交差法)
(平行法)
天王寺区真田山町②(平行法)

学園周囲を回るとグラウンドの地面が二階建て相当の高さにあり、著しく起伏に富んだ地域にある清水谷公園から、心眼寺坂に戻った交差地点の心眼寺境内墓地は、更に高低差の著しい絶壁の上にあることが判る。真田山小学校と天王寺スポーツセンターに挟まれた坂道はかなりの傾斜がある。

真田丸推定復元図
真田丸復元図 真田丸の構造推定図

2016年7月12日 松江歴史館(松江市)所蔵の史料を再調査したところ、各地の城の絵図を集めた「極秘諸国古城之図」の中から「大坂 真田丸」と表題が付いた絵図を発見した。1690年頃の制作と推測され、既に遺構となり、寺などが立ち並んでいた真田丸跡を描いている。南側の堀に下る傾斜路(スロープ)や、周囲の崖の外側に堀が回り込む惣構堀(そうかまえぼり)構造など、細部も新たに判明した。北側にあった小さな曲輪(くるわ)が真田丸の出城であったことも判明した。松江市民が1953年に市に寄贈した「極秘諸国古城之図」に松江城の図が無かったので、詳細な調査に至らなかったというから驚きである。

松江歴史館が所蔵する「極秘諸国城図」から発見された真田丸(左)/カシミール3Dとの照合(右)
松江歴史館が所蔵する「極秘諸国城図」から発見された真田丸 真田丸絵図とカシミール3Dとの照合
真田丸跡地周辺MAP
真田丸跡地周辺MAP
「極秘諸国古城之図」には寺が3つ並んで記載されており、現在の心眼寺・興徳寺・大應寺と続く寺院群だと考えられ、真田丸に入って行く道は心眼寺坂と考えられる。その道を守るため、すぐ横に小さな曲輪が設けられ、本丸との間には堀で切られ、おそらく大阪明星学園グラウンドの一角を含むその北側に小さな曲輪と堀が作られたと推測する。3D風景図や鳥瞰図を作成するフリーソフト「カシミール3D」による現地図と「極秘諸国古城之図」を照合すると驚く程一致する。更に真田丸跡地周辺の「Google Earth」を見ればリアルに把握できる。

「摂津名所図会」嬪山稲荷社・真田山(左)/「浪花百景 」佐奈田山三光宮(右)
「摂津名所図会」嬪山稲荷社・真田山 「浪花百景 」佐奈田山三光宮

真田山は大坂市中と小橋村の境の宰相山とも称する小高い山で、狐が多いことで御利益があるとして参詣者が増え、1706年(宝永3年)嬪山稲荷社の源流となった。摂津国の名所を絵画と文章で紹介した地誌として、京都の町人・吉野屋為八が、1796年~1798年(寛政8年~10年)に刊行された「摂津名所図会」には「嬪山稲荷祠(ひめやまいなりのやしろ)」と記載され、本殿に仁徳天皇、側に稲荷神を祀ると記され、嬪山稲荷社の境内の下の崖に“狐穴多し”との記述がある。

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三光神社⑧(交差法)
(平行法)
三光神社⑧(平行法)

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三光神社①(交差法)
(平行法)
三光神社①(平行法)

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三光神社②(交差法)
(平行法)
三光神社②(平行法)

嬪山稲荷社は境内にあった末社の一つで天照大神・月読尊(つきよみのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る三光宮を合祀して姫山神社という社号となる。大坂の名所旧跡を三人の浮世絵師が描いて安政年間(1854年~1860年)に出版された「浪花百景」には「佐奈田山三光宮」と記されるなど三光宮の名が知られ、1908年(明治41年)末社から昇格する形で「三光神社」という社号となった。江戸時代前期の摂津名所図会で記載されなかった三光宮は、幕末には大坂を代表する名所になった。1945年6月の大阪空襲で社殿を焼失したが、戦後に再建された。

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三光神社 寿老神像(交差法)
(平行法)
三光神社 寿老神像(平行法)

武内宿禰と応神天皇(歌川国芳画)/武内宿禰と神功皇后(歌川国貞画)/紙幣の武内宿禰・寿老人の肖像画/大阪七福神
武内宿禰と応神天皇(歌川国芳画) 武内宿禰と神功皇后(歌川国貞画) 紙幣に描かれた武内宿禰・寿老人の肖像画 大阪七福神めぐり

三光神社の創立は、仁徳天皇から三代後の反正(はんぜい)天皇の御宇と言い伝えられ、4世紀末の創建以後、天皇家の外戚として国を動かす神職を長く務めた武内宿禰の末裔武川氏(八十六代)にして今に至るとされる。三光神社は、大阪七福神めぐりの一つとして寿老人(寿老神)の参拝所である。江戸時代に始まった七福神めぐりを大正時代に復活させたことを機に、神仏分離以後の道教系の神として、5代の天皇に仕えたという古来稀な長寿を得た伝説上の武内宿禰と南極星の化身の寿老神を結びつけている。

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三光神社③(交差法)
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三光神社③(平行法)

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三光神社④(交差法)
(平行法)
三光神社④(平行法)

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三光神社⑤(交差法)
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三光神社⑤(平行法)

真田幸村の銅像と〝真田の抜け穴〟で全国に名を馳せ、熱心な幸村ファンには聖地となる。銅像の横にあるのが「真田の抜け穴」は、信繁が真田丸から当地までの抜け穴を掘り、更には大坂城まで地下のトンネルで繋がっていたと伝えられて社殿の下に残る。地元の玉造では、嘗て三光神社以外にも7つか8つ抜け穴があり、抜け穴が互いに地下で繋がっていて、信繁は茶臼山や真田山へと穴伝いに現れる神出鬼没の活躍で敵方を撹乱したと云われていた。

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三光神社⑥(交差法)
(平行法)
三光神社⑥(平行法)

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三光神社⑦(交差法)
(平行法)
三光神社⑦(平行法)

抜け穴は普段は鉄格子の扉で閉ざされているが、3年前から三光神社が開催する「真田まつり」の日に限って抜け穴を公開しており、全国から幸村ファンが詰めかける。穴は7mほど先で崩落のため行き止まりで、その先は謎とされている。穴のある場所は真田丸の中心から数百m離れた地点であり、実際には真田丸の外側に位置している。現在では、冬の陣で籠城する豊臣方を牽制するため、徳川家康が掘らせたとする説が有力となっているとのことだが、幸村ファンのロマンを壊さぬよう“真田の抜け穴”の呼称のままで良い。

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玉造駅前(交差法)
(平行法)
玉造駅前(平行法)

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玉造筋(交差法)
(平行法)
玉造筋(平行法)

三光神社から玉造駅までは徒歩2~3分程度の距離になる。昨年秋から幸村ゆかりの地をアピールした地域興しの取り組みとして、JR玉造駅西側にある100m程の通称「玉造幸村ロード」では、真田幸村や真田十勇士のパネル人形、真田家の家紋「六文銭」が描かれた真っ赤な幟旗が狭い通りに並べられ、休日ともなれば幸村ファンで賑わう。

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大阪城夕景(交差法)
(平行法)
大阪城夕景(平行法)

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大阪ビジネスパーク夕景①(交差法)
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大阪ビジネスパーク夕景①(平行法)

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大阪ビジネスパーク夕景②(交差法)
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大阪ビジネスパーク夕景②(平行法)

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大阪ビジネスパーク夕景③(交差法)
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大阪ビジネスパーク夕景③(平行法)

陽も傾きかけたが、この季節故にまだまだ早い時刻だったので、玉造筋を北方面に直進して森ノ宮まで行き、そこからは大阪城公園内を通って京橋まで歩くことにした。帰り道は上町台地を外れて平地を歩いたのだが、刻々と暮れゆく景色に時間の経過が顕著に映り、あらためて真田丸と大阪城の距離感が感じられた。

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若宮八幡大神宮①(交差法)
(平行法)
若宮八幡大神宮①(平行法)

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若宮八幡大神宮②(交差法)
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若宮八幡大神宮②(平行法)

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若宮八幡大神宮③(交差法)
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若宮八幡大神宮③(平行法)

我家から徒歩10分程度の場所に木村重成軍と戦った佐竹義宣の本陣跡と伝わる「若宮八幡大神宮」があり、後日、あらためて訪れた。慶長19年(1614)11月26日、徳川方の上杉景勝軍と佐竹義宣軍がそれぞれ鴫野砦、今福砦を攻めた。境内に「由緒之碑」があり、大坂夏の陣(冬の陣とする説もある)で佐竹義宣が境内に陣を張り、戦勝祈願したという記録が「難波戦記」に残る。400年前は、鴫野村と今福村の間に巨大な旧大和川(1704年に改修、現在の大和川は大阪市の南側と堺市の間を流れる)があり、現在でもこの場所から旧今福堤を歩いて30分もあれば大阪城に到達する。

大坂冬の陣 鴫野・今福の戦い(左)/佐竹義宣(中)/大坂冬の陣図屏風 鴫野・今福合戦部分(右)
大坂冬の陣 鴫野・今福の戦い 佐竹義宣 大坂冬の陣図屏風 鴫野・今福の合戦部分

佐竹義宣は、家康の呼びかけで大坂の陣に参戦し、鴫野方面に向かう上杉景勝と同時に豊臣軍の今福砦を攻めることを命じられたが、様子を城内で聞いた木村重成軍により押し戻される。対岸の上杉軍に援軍を求めるが、旧大和川に阻まれて合流できずに苦戦したが、川の中州に出た上杉景勝、堀尾忠晴および榊原康勝の軍勢による銃撃により豊臣軍を撤退した。今福は水田地帯のため堤防上(今福堤や蒲生堤)の戦さとなり、死体で川が真っ赤に染まり、紅葉が流れているようであったと伝わる。佐竹軍側は義宣をかばった渋江政光が被弾して戦死するなど被害も多く、今福・鴫野の戦いは、冬の陣で最大の野戦と云われる。

大坂の陣400年天下一祭 ポスター(左)/イベントイメージ(右)
大坂の陣400年天下一祭ポスター 大坂の陣400年天下一祭のイメージ

大阪市では2014年・2015年に大坂冬の陣(1615年)・大坂夏の陣(1615年)から400年を迎えることを機に、「大坂の陣400年天下一祭」では「真田の赤備え」と称する真っ赤な甲冑を身に纏った様々なイベントが催されている。戦国時代、鎧兜(よろいかぶと)などの具足、旗指物(はたさしもの)、槍(やり)、太刀などあらゆる武具を朱塗りにした部隊「赤備え」は、特に武勇に優れた名将がこれを率いた。鋭い錐のように赤備えが襲いかかると、敵は戦線を維持できずに崩壊したと云われる。

真田の赤備え広島東洋カープ 25年振りの悲願達成
井伊直政の赤備えローマ軍団の基幹戦闘単位・百人隊(ケントゥリア)を率いた指揮官ファーストレギオン 中世の騎士(十字軍)英国の歩兵隊ドイツの撃墜王フォン・リヒトホーフェンの異名レッドバロン(赤い男爵)
シャア・アズナブル    シャア専用MSモノアイ

最初に赤備えを考案したのは甲斐の武田信玄とされ、武田氏の滅亡後にその旧臣を召し抱えた徳川氏譜代の井伊直政は、武田にあやかった井伊の赤備えを編成し、井伊の赤鬼と恐れられた。ローマ軍団の指揮官は真紅のマント、白銀の鎧に赤の盾や旗指物を翻した中世の騎士、英国の歩兵隊、戦闘機を赤色に塗装したドイツの撃墜王フォン・リヒトホーフェンの異名レッドバロン(赤い男爵)、シャア・アズナブル専用モビルスーツを“赤い彗星”と称された設定も同様の発想と想像する。NHKの大河ドラマ「真田丸」が放映された2016年、奇しくも広島東洋カープ“赤ヘル軍団”が躍動し25年振りに悲願のリーグ優勝を果たした。

上町台地

上町台地は、遥か昔は沈まぬ島だったと云う説もあり、縄文時代から生駒山麓に住む大阪先住民には、太陽が沈んでゆく神秘的な聖地と考えられていた。大阪は、明治の頃には“水の都”と呼ばれ、古くは難波津と呼ばれた港が大陸、諸国との交易拠点として栄えた飛鳥時代まで遡る。大阪(大坂)の歴史発祥の要所として聖なるパワーや水運に支えられた上町台地は、政治・行政、信仰、文化の中心地となり、都市の発達の基礎をなす土台となった。大阪の母なる台地には、スピリチュアルな神秘が宿っており、歴史の跡地を巡れば、時代の息吹が感じられる。

歴史巡礼 上町台地 探訪MAP
上町台地探訪MAP

海と花の景勝地

Edit Category ウォーキング
4月の休日に花見の計画を立てた。昨年は近場の「造幣局 桜の通り抜け」を訪れ、その前年は、奈良の「吉野山」を訪れた。どちらもその場所でしか味わえない、実に印象的な花見であった。さて今年は、大阪から西の方面に出掛けてみよう、ということになり、嫁さんと一緒に神戸市須磨区を訪れることにした。

須磨観光図

須磨には過去に何度も訪れたが、訪問目的はすべて「神戸市立須磨海浜水族園」であった。大阪から、山陽電鉄 須磨浦公園駅を目指すのだが、阪神電鉄 梅田駅から直通電車を利用すれば、約1時間で辿り着く。周辺にはJRでも山陽電鉄でも頭二文字に“須磨”と付く駅名がやたら多いので注意が必要だ。

(交差法)
須磨浦公園駅①(交差法)
(平行法)
須磨浦公園駅①(平行法)

須磨は、鉄拐山や鉢伏山を含んだ傾斜地と海岸沿いの松原から形成される景勝地で、古来より白砂青松の美しい砂浜を持つ須磨海岸は、近年では京阪神地域随一の海水浴場でもある。また、須磨アルプス、妙法寺川などの身近な自然環境が街に隣接し、調和の取れた街であり、古くから風光明媚な住みよい土地柄としても知られる。

(交差法)
須磨浦公園駅②(交差法)
(平行法)
須磨浦公園駅②(平行法)

須磨区は、神戸市を構成する9区の中の西部に位置し、六甲山地の西端が海に迫る平地の隅(すみ)で、山々の西を流れる境川が古来より摂津・播磨の国境であったことから、畿内の西すみに位置するため“すみ”が訛って“すま”になり、その後、様々な漢字が充てられて須磨という地名になったと云われる。

須磨海岸空撮

南部の板宿を中心とする旧市街地、北部の妙法寺や名谷を中心とする新興市街地など、様々な街の景色を持っている。既成市街地と住宅や公園・公共施設などが計画的に配置され、昭和40年代から入居が始まったニュータウン、都市近郊に今も田園風景を残す農業地域、これらの地域を森・川・海が包み込むように構成されている。

敦盛桜のイベントイメージ
敦盛桜① 敦盛桜②

山陽電鉄の主催により、須磨浦公園を中心に、瀬戸内を望む須磨浦公園西エリア、須磨浦公園東エリア、須磨浦山上遊園では、ライトアップされるなどイベントが催される。須磨浦に縁の深い平敦盛に因んで、須磨浦公園、須磨浦山上遊園、須磨寺、須磨離宮公園の桜を「敦盛桜」と称し、今年5年目を迎える桜のイベントは多くの人で賑わっていた。

須磨浦山上遊園ロープウェイ
須磨浦山上遊園ロープウェイ

(交差法)
須磨浦ロープウェイ(交差法)
(平行法)
須磨浦ロープウェイ(平行法)

午前11時頃に須磨浦公園駅に到着すると既に多くの花見客で溢れ、“あわよくば”利用する予定であった須磨浦ロープウェイの乗り場は長蛇の列が出来ていた。ロープウェイは、海抜246mの鉢伏山にある「須磨浦山上遊園」への移動手段であり、山上には360°の眺望が楽しめる回転展望閣などがある。行列の最後尾は途轍もない長さに達し、係員へ確認する人の会話に耳を傾けると、一時間以上は待つらしく、早くも諦めることにした。

(交差法)
須磨さくらめぐりバス(交差法)
(平行法)
須磨さくらめぐりバス(平行法)

ならばどうする?ということになり、駅前で配るパンフレットを確認すると、1時間に2便のペースで、「須磨さくらめぐりバス」と称する乗車無料のバスが、須磨浦公園~須磨寺公園~須磨離宮公園を巡回している。既に10m程度の行列が出来てはいるが、5分後にバスが到着予定なので待ってみることにした。到着したバスは補助席を利用して30名強の収容だが、何とか後部座席にギリギリ乗車することが出来、須磨寺公園目指して出発した。

(交差法)
須磨寺公園①(交差法)
(平行法)
須磨寺公園①(平行法)

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須磨寺公園②(交差法)
(平行法)
須磨寺公園②(平行法)

須磨寺公園は、須磨寺を始め、歴史巡りの拠点として、或いは身近な遊び場、憩いの場として親しまれている。裏山の「おらが山」も公園の敷地で、毎朝登山や六甲全山縦走路の拠点となっている。今では大池の畔の静かな公園だが、嘗ては“新吉野”と称される須磨寺遊園地があり、様々な遊戯施設があるレジャーパークであった。

(交差法)
須磨寺公園③(交差法)
(平行法)
須磨寺公園③(平行法)

(交差法)
須磨寺公園④(交差法)
(平行法)
須磨寺公園④(平行法)

明治の中頃、荒れ果てていた須磨寺に観光客を誘致するため、当時の住職が木や花を植え、茶屋を開いたのが須磨寺遊園地の始まりと云われる。住職に賛同した須磨の神田兵右衛門なる人物が寄付を募って更に桜の木を植え、1891年(明治24年)須磨寺を中心に大池の畔に千本もの桜が咲き誇る“新吉野”が誕生した。

須磨寺遊園地「新吉野」
須磨寺遊園地① 須磨寺遊園地②

1910年(明治43年)兵庫~須磨を開業した兵庫電気軌道(現在の山陽電鉄)が 須磨寺から土地を借りて、園内には動物園、ボート乗り場、花人形館などが設けられた。花見の季節には大変な賑わいで、須磨の人々の憩いの場となった須磨寺遊園地であったが、昭和恐慌の影響で催し物は縮小され、太平洋戦争の開戦で戦時徴用工の宿舎用地となり姿を消した。今では遊園地の跡に残る桜に当時の賑わいを偲ぶのみとなった。

(交差法)
須磨寺公園⑤(交差法)
(平行法)
須磨寺公園⑤(平行法)

大本山 須磨寺
桜が咲き誇る須磨寺公園を抜けると須磨寺の参道に出てきた。須磨寺の正式名は上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)だが、古くから須磨寺の通称で親しまれている。平淳和天皇の頃(823~833年)和田岬沖で漁師が聖観世音菩薩像を引き揚げ、淳和天皇の勅命により、兵庫区会下山に恵偈山北峰寺を建立して安置した。886年(仁和2年)年、光孝天皇の勅命により、聞鏡上人(もんきょうしょうにん)が須磨の地に上野山福祥寺を建立し、北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、本尊として祀られたことが開基となる。

須磨寺空撮

本堂内の室町期の宮殿・仏壇や、木造の十一面観音立像など重要文化財や多数の重宝や史跡を誇る。平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚や義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡により、“源平ゆかりの古刹”として知られる。古来より源平の浪漫を偲んで訪れる文人墨客も数多く、広い境内のあちこちに句碑・歌碑が点在している。在原行平が創始したとされる一絃琴(須磨琴)が伝えられ、歴史・文化的にも価値のあるお寺とされ、毎月20日、21日の“お大師さん”の法要と縁日には、多くの参詣者で賑わう。

(交差法)
須磨寺 龍華橋①(交差法)
(平行法)
須磨寺 龍華橋①(平行法)

(交差法)
須磨寺 正覚院(交差法)
(平行法)
須磨寺 正覚院(平行法)

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須磨寺 桜寿院 寺務所(交差法)
(平行法)
須磨寺 桜寿院 寺務所(平行法)

鮮やかな朱色の龍華橋の手前左側にある正覚院と、仁王門を潜って左手にある桜寿院は、蓮生院と共に本山を支える塔頭三院の一つである。ご本尊の愛染明王は、名が示す通り「恋愛・縁結び・家庭円満」などを司る霊験あらたかな信仰とされ、“愛染=藍染”との解釈により、染物・織物職人の守護仏としても信仰されている。

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須磨寺 弘法岩五鈷水(交差法)
(平行法)
須磨寺 弘法岩五鈷水(平行法)

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須磨寺 千手観音菩薩(交差法)
(平行法)
須磨寺 千手観音菩薩(平行法)

右側にある手水処は、2000年(平成12年)の建立で、お大師様に因んで「五鈷水」と名付けた清浄で豊富な水が湧出し、「弘法岩」と名付けた四国の霊峰 石鎚山の麓から迎えた高さ2.7m、重さ13t大きな岩が置かれている。奥に祀られる千手観音菩薩像の手は、合掌する2本を除いて40本あり、1本の手が25世界を救うものとして、40×25=1000本になるとのこと。

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須磨寺 蓮生院(交差法)
(平行法)
須磨寺 蓮生院(平行法)

蓮生院は塔頭三院の一つで、熊谷直実が出家して名乗った蓮生法師に由来する。法然上人のもとで修行した蓮生法師は、諸国行脚の途中で平敦盛を偲んで須磨を訪れたと云われる。1916年(大正5年)花火大会の飛火により出火焼失したが、1934年(昭和9年)不動明王を本尊として現在地に再建した。阪神淡路大震災で全壊した貞照寺の鯖大師と石仏が移設されている。

(交差法)
須磨寺 源平の庭①(交差法)
(平行法)
須磨寺 源平の庭①(平行法)

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須磨寺 源平の庭②(交差法)
(平行法)
須磨寺 源平の庭②(平行法)

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須磨寺 源平の庭③(交差法)
(平行法)
須磨寺 源平の庭③(平行法)

桜寿院と唐門への石段下の間にある源平の庭は、一ノ谷合戦における平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現しており、1967年(昭和42年)完成し、2001年(平成13年)大改修が行われた。

源平合戦図屏風(上)/対峙する平敦盛と熊谷直実の拡大(下)
源平合戦図屏風

源平合戦図屏風の熊谷直実と平敦盛の一騎打ち

源氏勢の奇襲により平家勢は劣勢に追い込まれる中、源氏の荒武者 熊谷直実は、鶴の直垂に萌黄匂の鎧、金装飾の太刀という立派な装いで海上に馬を乗り入れ、沖の助け船へ逃がれようとする無官大夫 平敦盛(平清盛の弟・平経盛の息子)に「大将軍と見受ける、見苦しくも敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び返し、扇を上げて招いた。須磨の浜辺に組み討ち、首を斬ろうと兜を押し上げると、息子と同じ年頃の美しい若武者の顔を見て躊躇した。

「無官の太夫敦盛 熊谷次郎直実組討の図」歌川豊国画
「無官の太夫敦盛 熊谷次郎直実組討の図」歌川豊国画

若武者を助けようと熊谷直実は名を尋ねるが、平敦盛は「汝のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。速やかに首を取れ」と答え、味方の軍兵勢が近づき、無名兵士に討ち取られることを不憫に思い、涙を呑んで若武者の首を刎ねた。討ち取られた平敦盛の鎧直垂を解いて腰に差した錦の袋に入った笛に気付き、合戦の明け方、陣中で心奪われた美しい笛の音色は、この若武者のものであったのかと思い至った。

須磨寺法物館に展示される「青葉の笛」(左)/「笛吹若武者」1955年東映作品(右)
青葉の笛 「笛吹若武者」(1955年東映作品)

源義経にその笛を見せ、若武者の最期を涙ながらに語ると、戦いの場にも笛を持つという凛とした高雅さに心を打たれ、鎧の袖を絞らぬ者は居なかったと云われる。熊谷直実は平敦盛を討ったことへの懺悔により仏心を抱き、法然上人の弟子となり出家して蓮生法師と名乗る事になる。平敦盛の笛は父の平経盛から譲られたもので、祖父 平忠盛が鳥羽法皇から給わった小枝(さえだ)と称する青葉竹から作られた笛とされ、数え年16歳で初陣に散った笛の名手 平敦盛の遺愛の青葉の笛は、今も須磨寺に伝えられている。

平敦盛と追う熊谷直実の絵巻各種
対峙する平敦盛と熊谷直実の出で立ち 平敦盛と追う熊谷直実 敦盛絵巻

平安時代後期、“平家にあらずんば人にあらず”と驕り高ぶって隆盛を極めた平家だが、平清盛亡き後はその勢いが陰り、後白河法皇は源頼朝と共に平氏追討を企てる。1184年(寿永3年/治承8年)“一の谷の戦い”での源義経の急襲により、平氏は海へ敗走した後、屋島、壇ノ浦と滅亡に向かって加速する歴史の転換点となった須磨は、平家物語が伝える最も美しく最も哀しい平敦盛の悲劇の地でもあった。

歌舞伎「無官太夫敦盛」「熊谷次郎直実」各種
「組討」 熊谷が沖へと向う敦盛を呼び戻すという場面。四代目中村歌右衛門の熊谷次郎直実、初代中村福助の無官太夫あつ盛 「無官太夫敦盛」「熊谷次郎直実」歌川国貞 敦盛 熊谷

この場面は「源平合戦図屏風」や「一の谷合戦図屏風」などの他、幸若舞(室町時代に流行した語りを伴う曲舞)・歌舞伎・浄瑠璃、能などの様々な作品に取り上げられ伝承された。

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須磨寺 寺務所①(交差法)
(平行法)
須磨寺 寺務所①(平行法)

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須磨寺 唐門①(交差法)
(平行法)
須磨寺 唐門①(平行法)

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須磨寺 唐門②(交差法)
(平行法)
須磨寺 唐門②(平行法)

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須磨寺 本堂前焼香鉢(交差法)
(平行法)
須磨寺 本堂前焼香鉢(平行法)

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須磨寺 本堂(交差法)
(平行法)
須磨寺 本堂(平行法)


石段を登って唐門を潜ると本堂前に位置する。仁和二年開創当時の本堂は、火災、洪水、地震などにより度々建て直された。現在の本堂は1602年(慶長7年)豊臣秀頼が再建され、本尊聖観世音菩薩、脇侍毘沙門天、不動明王を祀る重要文化財の内陣の宮殿は1368年(応安元年)建造された。

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須磨寺 大師堂(交差法)
(平行法)
須磨寺 大師堂(平行法)

大師堂は2007年(平成19年)修復された。宗祖弘法大師並びに真言八祖が祀られている。線香台を持ち上げる子供の像は、阿吽の形相を成している。豊かな表情が愛おしくて撫でられるためなのか、頭に光沢がある。奥には弘法大師像が見える。

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須磨寺 寺務所②(交差法)
(平行法)
須磨寺 寺務所②(平行法)

寺務所・納経所は1999年(平成11年)春に大改装され、広間には須磨寺「からくり時計」が飾られている。

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須磨寺 孫悟空のおみくじ結び(交差法)
(平行法)
須磨寺 孫悟空のおみくじ結び(平行法)

寺務所・納経所前には一風変わった“みくじ結び”があり、“ご自分の干支の下にお結びください”と書かれている。干支ごとにおみくじを結ぶ紐を筋斗雲に乗った孫悟空が束ねているのが謎である。

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須磨寺 源義経卿腰掛松(交差法)
(平行法)
須磨寺 源義経卿腰掛松(平行法)

「義経腰掛松」は源義経が平敦盛の首を実地検分した際に座った松の木と伝えられている。松の木の手前下側の小さな池は、熊谷直実が源義経に見せるために平敦盛の首を洗ったと云われる「敦盛首洗池」と称されている。

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須磨寺 本坊・書院(交差法)
(平行法)
須磨寺 本坊・書院(平行法)

本坊・書院は本堂と共に須磨寺一山の中心で、真言宗須磨寺派の宗務所ともなっており、書院は阿弥陀如来を本尊とする持仏堂でもある。庭前には、滝の流れる庭、芭蕉句碑、真鍋豊平の歌碑などがある。阪神淡路大震災で倒壊を免れた本坊は、遺体安置所として読経の声に包まれた。

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須磨寺 三重塔(交差法)
(平行法)
須磨寺 三重塔(平行法)

三重塔の旧塔は400年前の文禄大地震の際に倒壊した。現在の三重塔は、弘法大師1150年御遠忌、当山開創1100年、平敦盛卿800年遠忌を記念し、1984年(昭和59年)再建された。室町時代様式を基調とし、内部には大日如来が祀られている。

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須磨寺 三重塔・出世稲荷(交差法)
(平行法)
須磨寺 三重塔・出世稲荷(平行法)

内陣の天井と壁面に多数の摶仏を配し、四方扉の内面に八祖像と六ヶ国語による般若心経を刻銘し、塔上の水煙に釈迦誕生像を配されている。塔敷地の周囲には四国八十八カ所のお砂踏み霊場があり、各札所の砂をガラス越しに踏むことで参詣が出来るとされる。

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須磨寺 境内②(交差法)
(平行法)
須磨寺 境内②(平行法)

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須磨寺 境内①(交差法)
(平行法)
須磨寺 境内①(平行法)

比較的広い境内だが、各施設が建て込んでいるためか距離感を感じない。海から近い所にあるお寺だが、こうして仰ぎ見ると山寺の雰囲気も漂う。明治初期には、本堂、大師堂、仁王門のみを残すほどに荒れ果てていたが、名所の古刹として整備された。

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須磨寺 参道①(交差法)
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須磨寺 参道①(平行法)

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須磨寺 参道②(交差法)
(平行法)
須磨寺 参道②(平行法)

綱敷天満宮から須磨寺前商店街を通り、須磨寺までを結ぶ道は、須磨智慧の道と称される。 天神さんは、学問の神様の菅原道真、須磨寺は“いろは”を考案した弘法大師という「智慧」を持つ方が祀られた社寺を結ぶことから名付けられた。

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須磨寺 龍華橋②(交差法)
(平行法)
須磨寺 龍華橋②(平行法)

龍華橋を渡る老夫婦の後ろ姿に心が和む。街中を歩いて感じられたのだが、ご年配の方を多く見掛けるような気がした。須磨区は、「日本創成会議・人口減少問題検討分科会」が発表した30年後の人口推計では、20歳から39歳までの若年女性の減少率が現状比で51.4%となり、消滅可能性都市の1つとされている。

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須磨寺 神戸震災地蔵尊(交差法)
(平行法)
須磨寺 神戸震災地蔵尊(平行法)

龍華橋に再び戻ると袂に阪神淡路大震災の被災地で安住の場を失ったお地蔵様を住職が造られた台座に奉られており、現在も元住民の手により地蔵盆と1月17日には涎掛けや帽子が取り替えられるとのこと。側には「神戸震災地蔵尊にお花をお供え下さい。」と記され、約30体のお地蔵様の数の地域の歴史と共にこの場所から見守り続けている。

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須磨寺公園⑥(交差法)
(平行法)
須磨寺公園⑥(平行法)

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須磨寺公園⑦(交差法)
(平行法)
須磨寺公園⑦(平行法)

先程は龍華橋の横から参道を進んだが、あらためて橋を渡って須磨寺前商店街で昼食を摂ることにした。須磨寺前商店街を暫く直進したところにある「生そば 大槻」を選んだ。4~5人も入れば満席になるような小さな店だが、一つずつ丁寧に作る蕎麦をじっと待つのも悪くない。関西風の出汁が美味しい蕎麦であった。昼食後は、須磨寺公園を抜け須磨離宮公園を目指した。

須磨離宮公園MAP
須磨離宮公園MAP

須磨寺から坂道を登ったところにある“花緑と歴史と眺望のオアシス”を標榜する神戸市立須磨離宮公園は、1000年以上の歴史を持つ由緒ある月見の名所として知られる。源氏物語の光源氏のモデルとされる平安貴族 在原行平が配流されたこの地の月に、都で見た名月に想いを巡らせて都を偲んだとされる場所が須磨離宮公園内の月見台と云われ、月見山の呼称名に因んでいる。

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須磨離宮道(交差法)
(平行法)
須磨離宮道(平行法)

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須磨離宮公園 正面入口(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 正面入口(平行法)

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須磨離宮公園 馬車道(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 馬車道(平行法)

須磨離宮公園に向かう離宮道は、松並木を含めて離宮当時の面影を留めている。門扉は創建当時のものではないが、正門の外両側の豪華な御影石・正亀甲石積みは当初からのもので、周囲の石垣がその歴史を伝える。中門広場へ続く馬車道沿いの斜面には、繋ぎのモルタルを肉盛りして彫刻風に造る西洋の美意識を導入した装石(ロカイユ)という壮大な岩組みを観ることができる。

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須磨離宮公園 中門広場(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 中門広場(平行法)

須磨離宮公園の前身である武庫離宮御殿は戦火により焼失してしまったが、中門とそれに続く白漆喰の壁や瓦葺が格調高く美しい白壁は、須磨離宮創建時に造られたままの姿が維持され、往時を偲ぶことができる。

武庫離宮・御殿
武庫離宮・御殿

元々、明治天皇の神戸沖観艦式等の宿泊地として、西本願寺大谷光瑞伯の別荘「月見山海荘」を1907年(明治40年)宮内庁が買い取り前身の武庫離宮の建造が始まった。名称である武庫離宮は、孝徳天皇が有馬温泉からの帰路途中で武庫の行宮に泊まったことが「日本書紀」に記されていたことに由来する。明治天皇は、敷地面積約63,700坪、建物は36棟からなる1,544坪の総檜造りの白木の御殿の完成を心待ちにしていた。

武庫離宮・車寄せ(左)/謁見所(中)/御殿内部(右)
武庫離宮・車寄せ 武庫離宮・謁見所 武庫離宮・御殿内部

しかし、完成を待たずして明治天皇は崩御し、竣工は1914年(大正3年)のことであった。1958年(昭和33年)4月、皇太子殿下(今上天皇)ご成婚記念事業として整備が始まり、1967年(昭和42年)神戸市に下賜されたものを自然と調和した近代的な欧風庭園として造営し、植物園、子供の森やバラ園が増設され、四季を通じて憩える公園として一般開放した。

武庫離宮

“離宮”とは、皇居や王宮以外の地に定められた、一定規模の建造物と敷地を有する宮殿の総称で、“御用邸”は、避寒、避暑の目的の比較的小規模のものとされる。現存する離宮は、京都の桂離宮と修学院離宮のみで、下賜された離宮は、赤坂離宮(迎賓館)、霞ヶ関離宮(現国会前庭南地区)、芝離宮(現旧芝離宮恩賜庭園)、名古屋離宮(名古屋城)、二条離宮(二条城)、浜離宮(現浜離宮恩賜庭園)があり、須磨(武庫)離宮もこれに含まれる。

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須磨離宮公園 王侯貴族のバラ園(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 王侯貴族のバラ園(平行法)

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須磨離宮公園 噴水広場 大噴水①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 大噴水①(平行法)

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須磨離宮公園 噴水広場 大噴水②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 大噴水②(平行法)

須磨離宮公園は、須磨離宮跡に造られた景観地である月見山に綺麗に整備された本園と隣接する植物園も兼ね備えた23ha(本園17.8ha/植物園5.2ha ※有料区域)の広大な都市庭園には、年間約25万人が来場する。約300種、8万株の草花や花木が植えられ、一年を通して花が咲き、本園のランドマークの噴水広場は、水をモチーフにした美しい欧風庭園となる。

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須磨離宮公園 噴水広場 キャナル小噴水①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 キャナル小噴水①(平行法)

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須磨離宮公園 噴水広場 キャナル小噴水②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 キャナル小噴水②(平行法)

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須磨離宮公園 噴水広場 キャナル小噴水③(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 キャナル小噴水③(平行法)

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須磨離宮公園 噴水広場 カスケード①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 カスケード①(平行法)

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須磨離宮公園 噴水広場 カスケード②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 カスケード②(平行法)

宮殿を模したレストハウスから湧き出た水は、メインフォールの滝としてカスケードを下ってキャナルのリズミカルな小噴水となり、最後は天高く噴き上がるダイナミックな大噴水と続く。海へ注ぎ込むような水の流れは、離宮公園のテーマの一翼を担っている。

(交差法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール①(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール②(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール③(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール③(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール④(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール④(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール⑤(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール⑤(平行法)

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須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール⑥(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール⑥(平行法)

周囲には約180種のバラが育てられ、春・秋になると4,000株が開花する。噴水を中心に東西で左右対称に同じ品種のバラが配置され、近代的ながら欧風庭園の伝統様式を備える。ヨーロッパの宮殿を彷彿とさせる前庭、噴水越しに見下ろす瀬戸内海の穏やかな海と船影の眺め、緑豊かな広大な敷地、四季折々の花々や整然と並んだ噴水により、贅沢な景観を創出する。

(交差法)
須磨離宮公園 噴水広場 ポセイドン像(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 噴水広場 ポセイドン像(平行法)

須磨離宮公園 噴水広場 ライトアップ
須磨離宮公園 噴水広場 メインフォール ライトアップ 100万人のキャンドルナイト KOBE in 離宮 須磨離宮公園 噴水広場 ポセイドン像 ライトアップ

神話に登場する海神ポセイドンの像は、ギリシア政府から1970年(昭和45年)開催の大阪万国博覧会ギリシア館に展示されたものを「須磨離宮公園現代彫刻展」の功績を称え、1970年5月31日、須磨神戸市編入50周年記念日に贈呈された。ポセイドン像は1926年にエーゲ海の底から発掘され、作者不詳だが、紀元前5世紀頃の貴重なブロンズ像作品と云われている。ベルサイユ宮殿を彷彿させる日中の華やかな景色に対して、夜はライトアップされて神秘的な空間が演出される。

(交差法)
須磨離宮公園 児童遊園 ジャンボすべり台(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 児童遊園 ジャンボすべり台(平行法)

本園のトンネルを抜けた先は長い階段があり、階段を下った場所は、児童遊園となっている。両脇には子供用のジャンボ滑り台が備えられている。上には高速道路が走っていて日当りが良くないが、夏の日中や少々の雨でも遊ぶことができるかも知れない。児童遊園を通過し連絡橋を渡って植物園に向かった。

(交差法)
須磨離宮公園 植物園①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園①(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 みどり滝(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 みどり滝(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園②(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 もみじ滝(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 もみじ滝(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室①(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室②(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室③(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室③(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室④(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室④(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室⑤(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室⑤(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室⑥(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 鑑賞温室⑥(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 三段滝(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 三段滝(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 竹林(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 竹林(平行法)

須磨離宮公園の東側にある植物園は、嘗ての岡崎財閥の神戸銀行頭取(当時)岡崎忠の屋敷跡地を1973年(昭和48年)神戸市が用地買収して整備したもの。植物園のエリアの中心的施設として、阪神淡路大震災で倒壊した洋館跡に鑑賞温室が建てられた。内部には急勾配の小さな滝が水の流れを作り、熱帯や亜熱帯の樹木、果樹などを鑑賞できる。外部からもガラス越しにディスプレイ全体が見下ろせる。2階には軽食・喫茶のコーナーがあり、鑑賞温室の北側には三段滝がある。

「華麗なる一族」上・中・下 山崎豊子著(1973年新潮社)
「華麗なる一族」上・中・下 山崎豊子著(1973年新潮社) 山崎豊子 新潮文庫

「華麗なる一族」1974年東宝作品(左)/1974年テレビドラマ(中)/2007年テレビドラマ(右)
「華麗なる一族」(1974年東宝作品) 「華麗なる一族」(1974年テレビドラマ) 「華麗なる一族」(2007年東芝日曜劇場テレビドラマ)

岡崎藤吉が創始した岡崎財閥は、岡崎汽船を基盤に、山陽特殊製鋼、神戸海上運送火災保険(現 あいおいニッセイ同和損保)などの企業集団を形成し、神戸で一大財閥を築いた。中でも神戸岡崎銀行は、有力銀行と合併して神戸銀行となり、戦後の都市銀行の一角を占めた。岡崎家は「華麗なる一族」(山崎豊子著)の万俵家のモデルと噂された。山崎豊子自身は特定のモデルはないと否定するが、作品発表当時、神戸銀行会長(当時)岡崎忠が彼女を訴えると怒った際、甥の岡崎真雄(元 あいおいニッセイ同和損保会長)がなだめた事実もある。

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園①(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園②(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園③(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園③(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園④(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園④(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園⑤(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 和庭園⑤(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 花の広場①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 花の広場①(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 花の広場②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 花の広場②(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 梅園①(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 梅園①(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 梅園②(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 梅園②(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 梅園③(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 梅園③(平行法)

(交差法)
須磨離宮公園 植物園 東門への道(交差法)
(平行法)
須磨離宮公園 植物園 東門への道(平行法)

鑑賞音質の西側に位置する日本庭園は、芝生が広がり花木と松の木が調和する。岡崎家の日本家屋を戦災で焼失した後、戦後に急いで普請させた和室は、茶会・句会やグループの会合等に利用できる有料の貸室で、展示会やイベント会場として一般開放される。花の広場や花の庭園辺りは、テニスコートや園遊会の芝地として現在も趣は遺されており、その北側は岡崎山と称される。「華麗なる一族」に思いを馳せながら植物園を散策するのも一興である。嘗ての岡崎邸の正門であった東門から退場し、須磨離宮公園を後にした。

(交差法)
須磨浦公園駅前①(交差法)
(平行法)
須磨浦公園駅前①(平行法)

(交差法)
須磨浦公園駅前②(交差法)
(平行法)
須磨浦公園駅前②(平行法)

(交差法)
須磨浦公園駅前③(交差法)
(平行法)
須磨浦公園駅前③(平行法)

(交差法)
須磨浦公園駅③(交差法)
(平行法)
須磨浦公園駅③(平行法)

須磨離宮公園を堪能後、再び「須磨さくらめぐりバス」に乗り、須磨浦公園駅前に戻った。山陽電車須磨浦公園駅の駅前ロータリー前には、「PATISSERIE TOOTH TOOTH」がリニューアルオープンしている。当駅に到着するや否や須磨寺公園に向かったので、最後になってしまったが、須磨浦公園の桜を満喫することにした。須磨浦公園は、昭和天皇御成婚記念として、鉄拐山、鉢伏山地の御料林、国道沿いの松原の有償払い下げを受け、1935年(昭和10年)クロマツとソメイヨシノの植栽を機に開園された神戸でも歴史ある公園のひとつである。

(交差法)
須磨浦公園 西エリア①(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア①(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 西エリア②(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア②(平行法)


鉢伏山の濃い緑が広がる一方、南には須磨灘の海岸がすぐ目の前に広がり、遠くは淡路島を臨める景観を誇り、老若男女問わず憩いの場として利用される。公園内には「須磨浦山上遊園」、隣接する海岸の沖合に「神戸市立須磨・平磯海づり公園」などの観光施設がある。又、六甲縦走コースの一部でもあり、ハイキングコースとしての利用も多い。

(交差法)
須磨浦公園 西エリア③(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア③(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 西エリア④(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア④(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 西エリア⑤(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア⑤(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 西エリア⑥(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア⑥(平行法)

100ha超の園内には約3,200本ものソメイヨシノが公園を彩る。「こうべ花の名所」にも選ばれる須磨浦公園は、兵庫県内では夙川公園や姫路城に次いで人気のあるお花見スポットとされる。くつろいで腰を据えながら仲間と燥ぐ姿や、美しい桜を見ながら園内をゆったりと散策する姿が散見される。

(交差法)
須磨浦公園 西エリア 敦盛野点①(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア 敦盛野点①(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 西エリア 敦盛野点②(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア 敦盛野点②(平行法)

須磨浦公園をメイン会場とする桜イベント「敦盛桜」では、瀬戸内海に映える「陽桜(ひざくら)」とライトアップされた幻想的な「夜桜」が堪能できる。他にも「D-K(デジタル掛け軸)」が展開され、デジタル映像を組み合わせた色彩豊かな光の芸術が楽しめる。「敦盛野点」や「敦盛恋みくじ」などの催しもあり、桜餡を練り込んだロールケーキやパウンドケーキ、純米吟醸酒「敦盛桜」なども販売される。

(交差法)
須磨浦公園 西エリア 与謝蕪村句碑(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 西エリア 与謝蕪村句碑(平行法)

”春の海 終日のたりのたりかな” 江戸時代の俳人 与謝蕪村(1716~1783年)が詠んだ句碑は、高さ1.8m、ひょうたん形の「どろかぶり」という仙台石で、碑面の字は蕪村の直筆を模刻したものである。主観的な芭蕉の句に対して、蕪村は光に満ちた写実的な叙景句を数多く書き残した。俳人であると同時に優れた画家でもあった蕪村は、生涯の大半を旅に明け暮れ、漂泊を創作の糧とした。

(交差法)
須磨浦公園駅前④(交差法)
(平行法)
須磨浦公園駅前④(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 東エリア①(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 東エリア①(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 東エリア②(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 東エリア②(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 東エリア みどりの塔(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 東エリア みどりの塔(平行法)

(交差法)
須磨浦公園 東エリア③(交差法)
(平行法)
須磨浦公園 東エリア③(平行法)

須磨浦公園の東端、桜並木の散策路の山側には1953年(昭和28年)建立の「みどりの塔」がある。塔をコの字形に石塀が囲み、左右の塀の上に高さ1.5mの石柱が立つ。中央の薫風像の両端に一対の直径1.2m、重さ2.4tの石の地球儀が載っていたが、阪神淡路大震災の揺れで左の地球儀が塀の外側に落下してしまった。忌まわしい震災の日々の記憶を留めるため、落下した状態でモニュメント化した。

「源氏物語絵色紙帖」(左)/源義経の逆落とし「源平合戦図屏風」(中)/「平敦盛像」(右)
「源氏物語絵色紙帖」土佐光吉 筆 源義経の逆落とし「源平合戦図屏風」 狩野安信筆「平敦盛像」部分(江戸時代、寛文元年(1661)

大化改新(645年)と律令の制定により、神戸周辺は摂津国となり、須磨は八部郡の長田郷の一部であった。地形上の問題もあり、田畑が少なく浜辺に漁師の家が点在する寂しい地域だったと云われる。奈良時代には、山と海に挟まれ西国と畿内を結ぶ位置にある要地として須磨の関が置かれ、平安時代には、「源氏物語 須磨の巻」として描かれた貴族の隠棲の場所になり、平安末期には源義経による“一の谷の逆落とし”や“平敦盛の悲話”など源平合戦の舞台として歴史に刻まれた。

須磨境濱の海邊 絵葉書(左)/須磨武庫離宮 絵葉書(右)
須磨境濱の海邊 絵葉書 須磨武庫離宮 絵葉書

江戸時代には、西国街道を多くの人が往来し、著名な文人が古戦場の史跡を偲んで訪れ、須磨の地を織り込んだ歌や句を数多く残している。明治30年代、武庫離宮が造営され、温暖で風光明媚な景勝地として、岡崎財閥藤田傳三郎男爵など財界重鎮の別荘地として華麗なる須磨の近代史を彩られた。神戸とは異なる静粛で落ち着いた雰囲気が漂っていた須磨だが、第二次世界大戦後、別荘は殆ど建築されず、阪神淡路大震災により倒壊した屋敷もあり、往時の雰囲気は失われつつある。

須磨の敦盛桜

須磨の街は海が傍にあり、砂浜が長く続く海岸は、嘗ては東の湘南、西の須磨とも云われたが、昭和後期の汚染により、今では知名度は低下した。それでも夏には行楽客で賑わう。須磨海岸と須磨山を擁した桜の名所は、桜の木が密集しておらず、公園らしい開放感も同時に楽しむことができる。松並木との組み合わせに風情があり、青い海を背景にした桜の花が映える。派手さは無いのだが、ここでしか味わえない“海と花の景勝地”の趣が感じられた。
 
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広島県出身、東京⇔大阪間の転勤を繰り返し、現在大阪在住。広島カープ・球場模型・艦船模型が好きなオッサンだが、アクアテラリウムの名人に出会ってから魅力にはまった。以前から興味のあった3Dカメラを購入し、立体的に(あくまで私的に)アクアテラリウムへのチャレンジを記録に残していくのであった。


 
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